低気圧をこえて 4


――一月一日。日中は正に新春を彩る快晴が広がっていたが、午後になって遠く雷鳴が轟いた。電気を点けなければもう夕方かと思えるほど室内は薄暗く、窓もガタガタ震え出す。といっても、地域が違えば天気も違う。コートを羽織った花形が家を出ようとした直前、玄関先で電話が鳴った。
「あ、先輩」
「流川か。どうした? 今ごろ新幹線の中じゃないのか?」
「まだ駅。今吹雪で新幹線止まってっから、悪りぃけど遅れる」
「そっちはそんなに酷いのか……。復旧は……わからないよな。わかった。じゃあ様子見つつ空港まで行くよ」
「もし遅れそうだったら一人で行って」
「いや………………待ってるよ」
急な運休により、事前に立てていた予定は狂ってしまった。
受話器を置いた花形は、目の前の壁に額を押し付けるとそっと目を瞑り、一息置いて、握り締めた右の拳で静かに壁を殴りつける。無表情に無人のリビングへ戻ると、ソファーに腰を下ろしながらテレビを点けた。
「低気圧が急速に発達し、午後からは全国的に風が強まるため、海上を中心に非常に強い風が吹いています。北海道や関東の海上は大しけに、全国的に天気が崩れ、沖縄や九州から東北の広い範囲で雷雨となりますが、東北の内陸では雪の降る所もあるでしょう。予想される最大風速は……」
日本地図に浮かぶ等圧線の経過と予測を眺め、一度自室に戻った彼は引き出しから薬を取り出し、下に降りてはそれを服用。あとは読書をして過ごした。
幾度と姿勢を変え、時に時計を眺め、冷めたコーヒーを捨てては継ぎ足し、やがて、ふと顔を持ち上げた頃にはすでに夜のような暗さだった。見上げた時計は五時手前を指していた。
「まだか……」
呟いた矢先、再び電話が鳴った。
「流川か。どうなった?」
「風治まったから、これから出れる」
「そっか。じゃあ俺もこれから駅向かうから、先着いたら待合で待ってて」
「わかった」
花形は家中のカーテンを閉めると、チケットを手に、家を出て車に乗り、駅へと走らせていった。雨も雷も盛んだが、どんよりと湿った寒気が車内の暖房を上げさせる。次第に雪も紛れだし、車窓を流れゆく景色を淡い白に染めていった。

駅で落ち合ったのはそれから一時間が経過した頃だ。雨も風も弱まり出した夜空には、薄ぼけた新月が浮かんでいた。
駅の待合室のベンチに腰掛け、黒のダウンジャケットに身を包んだ流川はスポーツバッグを肩に掛けたまま、すっかり船を漕いでいた。背後からやってきた花形の声で、彼はゆっくりと目を覚ました。
「今度は俺が遅れたな。悪い。元旦だし、天気も天気だから少し道が混んでたんだ」
「うん……」
流川は寝ぼけ眼を擦りながら顎を上げ、声の降り注ぐ頭上を見上げる。そこには椅子の背もたれに両手を着き、上から見下ろす花形の顔があった。
「流川……髪切った?」
「切った」
「そっか」
夏以来に顔を合わせた二人は、そのまま駐車場へ向かい車に乗り、早速会場へと走らせていった。
車内では流川がかけるように強請ったCDが再生され、耳馴染みの良いギターリフが車内を益々静かにする。それを妨がない走行音と、ほぼ寝息に近い安らかな呼吸音が助手席から響いていた。
花形がハンドルを左に切りながら声をかけた。
「待ってる間、けっこう疲れただろう?」
声は発さずともしかと目を開けた流川がコクっとだけ頷く。隣でハンドルから下ろされたばかりの左手を、無言で右手に捕らえた流川が、より大きなそれを握り締める。あとはクスッと笑った花形の問いに頷くだけで、まだ少し重そうな瞼に今日の疲れを乗せていた。
「ご飯はどうした? 腹減ってない?」
「駅でサンドウィッチ食った」
「開演にさえ間に合えばいいと思ったが、もう七時過ぎたな……」
会場では、二人分の席を除いて犇めく客席の前に、主役であるアーティストがすでに姿を現したところ。しかし焦らず安全第一、且つ小慣れたスムーズな運転で、近場の駐車場に到着したのは八時手前だった。
会場周辺にあまり人気はないが、それでも至る所にsynspilumのロゴが掲げられ、今までスピーカーとメディアを通さずには見えなかった彼らをこれから初めて目の当たりにする。車を降りて歩を進める二人にほっと白い吐息が浮かぶ。
いざ会場前に立てばそこには煌々と灯がともり、正面玄関には大きな看板が掲げられ、警備員がそこら中に立っていた。
「やはり、始まってるな」
入り口でチケットを切り、仰々しいほどに広い会場内に一歩足を踏み入れれば、忽ち異世界へと包み込むよう音楽が響き渡る。先程まで車内に流れていたその旋律に引き寄せられるよう、二人は徐々に足早に、ほぼ無人のロビーを抜け、廊下を渡り二階へ。チケットの示すその席へと、いざ目の前の扉を開ければより鮮烈な音が飛び込むだろう、その直前で、花形の背中の生地が掴まれた。
「ん? どうした?」
振り向く花形に流川が言った。
「ここでも聴こえる」
だから……と続く言葉はコートを引っ張る右手に封じられる。二人の焦がれた旋律がほんの目と鼻の先で流れ過ぎる廊下で、二人の足は留まっていた。
え……? と腑に落ちないでいる花形を、強情な右手で壁際のベンチまで引き摺り出した流川は唇を噛み締めながら、その人の腕を引っ張りながら、久々に、甘えていたのかもしれない。
「二人がいい」
「二人……ってことは、入らないの?」
「………………嫌?」
態々ここまで来て何を今更……とでも言いた気な花形の視線を、下からじっと縋りつく黒眼がレンズの奥まで捉えて離さない。それは花形の両手を押さえ、場違いなワガママが通るのをひたすら待っているようだ。ワガママをすることで情を計る、ワガママを通すことで満たされようとする、まるでそう…………子供のよう。
――theres no other way〜♪――
いつか流川に問われて花形が答えた和訳は……
「直訳すれば、他に道はない、だな」
二年前、合宿で同じイヤホンで同じ曲を聴き、その後二人で約束をして、花形の部屋でまた同じ曲を聴いた。その時も流川は今と同じような目で花形を見つめていた。兄を慕う弟のような、今にも不貞腐れそうなその瞳で、出会ってすぐと何も変わらない眼差しで、今日もまた、密やかな甘えを貫こうとしていた。
「流川…………」
両手に触れ返した花形が、「わかった。そうしよう」やっとの笑みを浮かべたところで二人は並んで廊下のベンチに掛け、埋めた隙間の内で手を繋ぎ、壁を挟んだ場内から流れる曲に耳を澄ませた。
「先輩」
隣の肩に頭を凭れ、そっと目を閉じたまま流川が声を掛ける。
「これ、この曲、覚えてる?」
「ああ。合宿の時だろ? 覚えてるよ」
「これは微妙」
「確か、藤真とドライブした時も言ってたな」
「消えゆく……だっけ」
「覚えてたか」
「これは好き」
「フッ、なんとなく流川の好みがわかるよ」
シューゲイザー、と呼ばれるそれは、ノイズやエフェクターを用いた複雑なギターサウンドからから産まれる絶妙で浮遊間のある音色を特徴とする。それは遍く静かで神秘的な曲が多くを占めるが、その静けさの裏で時折凶暴さを発するこの曲は、二人の間でもよく話題に出た。
今は大人しく耳を澄ます流川も、バスケの時だけ激しく発する熱があるように、反する二面性を見事織り交ぜた曲だった。
それから約一時間…………二人の出会いから今に至る記憶が駆け巡るそこには、今日も今日とて同じ音が鳴り響く。
やがてライブが終わり、客の退場が始まっても穏やかな余韻はなかなか醒めず、二人は頃合いを見てやおら立ち上がった。出口付近は人混みでごった返すも、誰一人として苛立ちを見せないのは、そこにいる皆が同じ余韻に浸っているからだ。
「先輩ありがと」
「いや……一緒に来れてよかったよ」
言ってはさりげなく、流川の腰に手を回しつつ「本当…………よかった」吹き込む北風に身を竦め、二人は会場を後にした。いつまでも魔法の音楽が流れるそこに今は細雪が舞っていた。
そして駐車場へと戻ろうとした、その時だった。
「おい、見ろよ気持ち悪りぃ」
「うわぁ……男同士で密着してるぜ」
背後から飛び込んだ男の声に二人は一度歩みを止める。慌てて少しの距離を取る、そんな二人の親密さが駐車場の外灯に晒され、嘲笑の的とされたようだ。
だがそんな時、透かさず後ろを睨めつける、あの冷ややかで鋭い眼光……隣のそれがないことに、無関心に徹するその様子に、花形が歩を進めながら訝しんだ。
「流川……少し大人になった?」
「今日で十八」
「そっか……今日で三回目の誕生日だな」
車に乗ってすぐ、花形がエンジンを掛ける隣で流川が先程の続きを語る。
「先輩デケェから、そんじゃなくても目立っちまう」
「それは……んまぁ……」
「結局、あいつらチビだから嫉妬してるだけ」
「まあ……じゃあそういうことにしとくか」
鼻で笑う花形につられ、流川もふと微苦笑を零す。
間も無く車を出せば、そこには聴いてきたばかりの音色が再び流れ、二人きりの空間を優しく包み込んだ。過ぎ行く夜景と共に曲も次へ次へと流れ、やがて重く暗いディストーションがかかったところで俄然、花形がその曲を飛ばした。
「…………?」
低気圧を歌った、あの憂鬱な曲だった。
不思議そうに見つめる流川だが、特に何も言わず、見やった窓の向こうを眺め、「窓、開けていい?」暖房の行き渡った車内にひんやりと風を流し込んだ。そしてそれを欲していたかのように、風の中に鼻先を沈めた。
「フゥ…………」
「どうした? 暖房効きすぎたか?」
風に包まれた流川は暫し恍惚とした後、口にしたのは今日二度目のわがまま。
「これから海行きてぇ」
「海? こ、これから……?」
「ダメ?」
「いや……眠くないのか? 腹は?」
「平気」
そうか、と頷いた花形はスピードを落とし、路肩に停車。暗がりの中でナビを弄ると、液晶の示す別の方向に向かって再び車を走らせる。疎らな六花がワイパーにさっと拭われた。
「この雪なら積もる心配もないし、風もだいぶ治まったから、まあ平気だろう」
それを聞いてか聞かずか、流川が言った。
「あっちじゃ海見えねぇから、それがスゲェ嫌だった」
「そっか。故郷はこっちだもんな」
次第に舞い込む潮風に誘われるよう、暗闇を走りやがて海岸に着くと、今度は奏でる波音までが二人を引き寄せていた。いや、それ以上に風が吹き荒ぶ中、先に車を出て行った流川の後を「かなり冷えるな」とマフラーを手にした花形が追っていった。
「流川、寒くないのか?」
「寒い」
海を前に砂浜に立った流川の首にマフラーを掛け、二人並んでその場に立つ。黒い水平線を走る鋭いならい風が度々二人の黒髪を散らし、時折身が傾くほどに煽られながらもただただ海を感じる時間。真冬の荒波を前に、流川はそっと目を閉じた……。
「あっちでも海見らんねーし」
「あっち……?」
風に眇めることもない流川の目は、波立つ水平線の向こうの、そのもっともっと向こうの方を真っ直ぐに見据えていた。





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