低気圧をこえて 2

流川は席を立つと、受け取った子機を手に、階段を上りながら受話器の向こうに問いかける。
「先輩……?」
「ああ、流川……」
――耳にした途端、流川の目にありありと浮かんだのは今日ブロックし損ねた、あの桜木のダンクだった。
……同じ高さまで飛んでいた。……指先も触れていた。もし視界が正常であれば確実にブロックできただろう。他にも今日奪われたボール、パス、転校初日から消えたシュートが立て続けに頭へと流れ込み、流川は軽く眩暈を起こした。
「流川、聞こえてるか?」
――いつかの豊玉戦もそう。視界が悪くともやり過ごせたのは長年の勘、染み付いた感性、培った技……と、それだけではなかったようだ。
「先輩俺、聴力スゲェ」
「ん……? 聴力…………?」
「探してた、ずっと」
「何を?」
「コレ」
「これ?」
「そう、コレ……」
部屋に入り、ドアを閉めるとすぐベッドに倒れこんだ流川は、受話器を耳に当てたまま静かに目を閉じた。シーツに放り投げた片手がみるみる緩み、今、深く長い吐息だけが流川の部屋に響き渡った。同時に澄ました右耳が、今にも詰まりそうな胸の鼓動を受話器の向こうに聞いた。
流川は枕に埋め込んだ顔をゴシゴシと擦り付けると、受話器に一言。
「ねえ、なんで……?」
一変して、不機嫌に目を細めた彼の穏やかな怒気。この四ヶ月に起きた視界の異常から漸く覚めたところ、その原因を責める声が受話器の向こうに送られた。
「ああ……まぁね……」
ぎこちない返事に続き、落ち着かない花形の口調は妙によそよそしい。
「元気か流川」
「普通」
「そうか。選抜はそろそろだったよな?」
「今日。負けた」
「そ、そうだったのか…………」
……と、そのまま沈黙が流れること数十秒。上体を起こした流川は、捲ったカーテンの向こうに夜の街を眺めていた。
どこまでも海の見えない景色を跨ぎ、やっと潮風に触れただろうその街で、今、同じ溜息を吐く彼と、あの日と同じ憂色に染まる。
引越しを告げた流川の甘えが無下に突き放され、最悪の別れ方をしたあの日から二人の時間は止まったままだった。だから、あの日に戻ってやり直す必要があった。一方的に連絡すら断たれた流川には、あの夜の別れからしっかりと立て直す必要があった。
「ねえ。なんで……?」
主語もなく痺れを切らした声が沈黙を遮る。程なく返ってきたのは重い嘆息と、そしてその理由。
「……俺は、流川が思ってるより大人げない」
「知ってる」
「知ってたのか?」
「全部知ってる」
「正直、渡米する直前にそのことを伝えられていたら……って、何度かそう思ったよ」
「ああ、わかる」
間髪いれず淡々と応える流川の視線は揺るぎない。ずっと向こうにあるだろう、冷めた夜凪を遠く見据えたまま、理由にならない理由にも大人しく相槌を打っていた。
「そっか……敵わないな」
花形の口許から漸く微苦笑が零れ、彼は今まで腰掛けていた自室のベッドを離れた。子機を手にしたまま窓際に立ち、そして花形もまた、カーテンを少し開けた。
「こっちは雨だ。そっちは?」
「小雨。今降ってきた」
「そっか。冬は寒くてやだね。出不精になるよ」
見上げても星は見えず、唯一濁った下弦の月が雨雲の向こうに隠れている。次第に風も唸り出す、今はまだ同じ空を二人は見上げていた。
「俺は好き……。また先輩と会える」
それはいつものぼそぼそとした、低く抑揚のない無愛想な口ぶりだ。
耳にした花形は、胸元の生地を左手に強く握り締めた。目頭を摘まむように押さえ、唇を噛み締め、「ああ……」とやっとの返事を声にした。
流川が言った。
「あれ。ライブは?」
「ああ、覚えてたか。ちゃんとチケットは届いてるよ」
ふと窓際を離れた花形が机に向かう。開けた引き出しの奥から未開封の封書を取り出すと、またベッドの縁に腰掛け、中に二枚の連番を確認。
「一月一日十八時開場、十九時開演。どうする?」
「親、今年はいついねぇの?」
「また年末に出かけて、三日には帰ってくるよ」
「……わかった。一日に行く」
あとは当日の予定を話し、やがて電話が切られようとしたところで流川がもう一つ…………。
「先輩あと、誕生日おめでと」
卓上のカレンダーを目にした花形は、数瞬して首を傾げた。
「ん? ああ。いや、あと一週間以上あるが……」
「今年はうちで正月迎えねーとなんねぇから」
「そうだな。それがいいよ。ありがとう」
今年も世界一早い誕生日祝い。花形の顔も次第に綻んだところで間も無く電話を終えた。子機の通話ボタンを押し音声が途切れた途端、まるでずっと堰き止めていた溜息を零した花形は、その場で深く項垂れた。
直後、花形の部屋にドアのノックが響き渡った。
「兄貴ぃ、ちっと……」
弟惺の声に、顔を上げた兄が応答すると、ドアが開いてジャージ姿の惺が入ってきた。
惺は兄の手にある受話器とチケットを一瞥するが、そこには触れず、視線も合わさず、素っ気なくはにかみながら兄の手前に歩み寄る。
「コレ。ちっと早ぇけどさ……」
そう言って、ポケットから取り出した物を兄の掌に乗せた。
「コレ……って、ん? どうしたんだ?」
開いた掌の中央に、燻した細工の施されたシルバーリングが乗っていた。
「その……誕生日プレゼント」
先程の電話に続く早い祝福と、弟からの贈り物。兄はどんな風の吹きまわしかと言わんばかりにただただ眉根を寄せていた。
「ああ、なんつーか……」
気まずそうに呟いた惺はそのデカイ図体を折り曲げ、よっ、と床に胡座をかくと改まり、卒業を控えた自らの行く末を語り出したのだ。
「俺、最近近所にできたシルバーアクセの店に通ってて、店主の兄ちゃんと仲良くなってさ。作り方、教えてもらったんだ。店長にセンスあるって言われたら、俺もその気になっちまって、それでその……やっと決まったんだよ。俺、デザインの学校行く」
頭を掻きながら定めた進路を打ち明けた惺は、兄の目を見上げ、照れ臭そうに笑っていた。が、兄からの祝福はなかった。
「デザイン……って、専門学校か? 母さんは許してくれたのか?」
「そんなの無理に決まってんじゃん。でもお袋だって俺の学力じゃ大学入れねーことぐらいわかってるし、そのうち折れるっしょ」
「選ばなければ入れなくもないだろうが……」
「やだよもう俺勉強したくねーもん。それに、純平もゲームの専門行くんだ。デザイン科とゲーム科が一緒の学校あったから、二人でそこに決めた。今一緒にアパート借りる計画立ててんだぜ」
惺はもう一つ付け加える。
「……ああ、勿論バスケはずっとやるよ。俺は藤真さんに一生ついて行くんだ」
「学校はどこなんだ? 通えるのか?」
「東京だけど、神さんだってあっちから通ってるじゃん。っつーか俺、あの人藤真さんの次に尊敬するわ。バスで通う距離走ってくるし、スゲぇ自分に厳しいのに、洋平みたいなヤツとつるんでたりさ。気取らないいい人だよなぁ。……あれ? っつーか兄貴だってあっちで仕事始めんだろ? 俺と変わんねーじゃん」
「ああ、まあな」
ころころ変わる惺の話にやや呆れながら、兄は今一度、掌のシルバーリングに視線を置いた。連続した模様とその裏側に小さく燻された『T.H』を見て、それをそっと握り締め、弟の決意に頼もしく応えた。
「……わかった。ありがとう。母さんには、俺からも少し言っとく」
「へへ、サンキューな」
上機嫌に鼻を擦り上げた惺は立ち上がり、部屋を去っていった。
ドアが閉まると共に静穏が戻ったその部屋で、唯一音を奏でる水槽の前に花形が立つと、そばに置かれた走り書きのメモに自然と目をやる。
1K、家賃七万、徒歩十分……他、住所等の情報が数件分記されたそれを見て、花形は暫し考え込む。
水槽から覗き込む魚たちに気付いては、「お前たちはどうしようか……」そうガラス越しに、困惑する青い一匹と戯れた。
その晩、一層勢いを増した木枯らしが激しく吹き荒んでいた。乱れ狂う風雨の悲鳴に煽られた建物は震え上がり、ガタガタと泣く窓が中の住民に訴えていた。しかしすでに明かりの消えた室内は静かで、水槽のブクブクという音と青白い照明と、今にも消え入りそうな寝息が微かに響くだけ。ベッドの棚には黒縁の眼鏡が置かれ、花形は仰向けに眠っていた。彼は今、夢を見ていた。
「ここは確か…………」
花形が言った通り、そこはいつかの夢に見たあの深い森の中だった。当時は新鮮な朝靄に包まれた緑の奥に塔を見つけられた程、雨上がりの湿気に埋もれながらも澄んだ景色が広がっていた。が、今日は様子が違った。
濃い湿気を孕んだ靄が早朝の森に佇んだまま、まるで立ち尽くした花形を包み込んでいる。その冷たさに竦んだうなじはさぁっと粟立ち、薄暗く視界の悪い中で身動きも取れずにいる。次第に足元には風の渦が巻き始め、少しずつ風力を増していった。そして風を囲った渦の中央から、花形を中心に気流が上昇し出したのだ。
「な、なんだこれは……」
困惑する彼の髪は忽ち上に靡き、胸や喉に手を当てては苦しそうに藻掻いている。足元は浮き始め、呑み込まれた気流の中からどう足掻こうと抜け出せずにいた。
翌朝、目を覚ました彼の寝汗はシーツを濡らすほどで、身を起こすなり目眩を催し、額を支えつつベッドを降りると、引き出しから薬を取り出した。朝から怠さを背負ったその様子には弟も気を遣い、母親が体温計を渡すが、熱はない。しかし頭痛がひかないことにはじっとする他なく、纏めなきゃならない論文もあるからと、花形は土日の二日間、チームの練習を休んだ。




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