低気圧をこえて 1

「らしくねーんじゃねぇの?」
――そう言って、いつか桜木を挑発し、奮起させた男がいた。

前半残り二分。 65対36――――
「君の意思は信じています」
そんな言葉をかけたその人までが哀れむ目で流川を追う。今は下すべき敵だというのに、湘北の優勢は変わらないというのに、最早見ていられないと言った具合に両手で大きくその目を覆い、皆が固唾を飲むベンチで深く、重く項垂れた。
冬の選抜本戦一回戦。予選を勝ち抜いた湘北の相手が、まさか流川が引っ越しをした先の高校とは……。これも何かの縁なのか。いや、「選抜、絶対に勝ち上がってこい」と、引っ越し前に洋平へ伝言を託したのは流川で、湘北は見事それをエース抜きで果たしてきた。よって今度の試合は必然的に、流川対桜木の因縁の対決の場と化すはずだった。
しかし今、二人を知る、手に汗握る人々の期待はまんまと裏切られた形だ。
「桜木のヤツ、流川倒そうとあんなに張り切って練習してたのに……」
控えとしてベンチに立つ佐々岡が呟く。湘北側に並ぶ皆が、一様に浮かない顔を浮かべる。
しかしその声もまた、当の流川には届いていないのだろう。彼の手中にあったボールが、湘北の後輩にすら容易く奪われたところだった。流川の汗は激しい攻防によるもの以上に別の冷や汗を浮かべていた。

――それは、流川が引っ越してすぐ、まだ残暑の厳しい秋口のことだった。
転校先のバスケ部と初めて顔を合わせた流川だが、神奈川を制したその流川楓が如何なる男か、皆が目を光らせる中、始まった5対5での練習中のことだ。ふと、流川の視界から持っていたはずのボールが消えた――――。
あれだけ身体に染み付いたドリブルが、パスが、放ったシュートが、窓から射す光の向こうへ何故か音もなく消えてゆく……。流川は何度か頭を振るも、まるで光に溶け込むように消えたボールが返ってくることはなく、気付けば時間だけが過ぎていた。
顔合わせ早々、監督が貧乏揺すりをしながら顔を顰めていた。だからといって決して叱責しようとしないのは、流川の身にはしっかりと盤石の基礎が、精巧なフォームが、多彩な経験が根付いていたからだ。
それに流川の視界からボールが消えたというだけで、ボールはネットを潜っていた。ただし、気迫がない。集中力がない。傍から見て、放心したまま何かに化かされているような、立って目を開けたまま寝ているような、今までの流川にない体たらくが初秋の乾きを齎していた。
……そして今日も、大事な初戦である今もまた、真っ向から飛び込んできたはずの桜木の、あのパワフルなダンクが瞬時にその視界から消えてしまう――――。
折しも前半終了のブザーが鳴り、70対38の現状が漸く流川の目に映り込んだ。
「よしよし、作戦を変えよう」
無駄に前向きな監督の声でそれぞれがベンチに退く中、流川も倣って踵を返した。ベンチの上に置かれた自身のCDプレイヤーへと一直線に歩み寄ろうとした、その時だった。
「おい流川……!」
やけに喉を力ませた粗野な声。振り向けば、桜木がいた。
相変わらず尖った目つきで額に青筋を立て、汗も引かず蒸した体で、コートの中心から仁王立ちで流川を睨めつけていた。……いや。天井のライトが滲んで映るほど、桜木は目に薄い幕を張りながら、低くドスの効いた声で流川を咎め立てた。
「テメェ、らしくねぇんじゃねーか?」
今にもはち切れそうなまでに浮き出た血管は、今さっき昇り詰めたものではない。前半中溜めに溜め込んだ憤怒が抑えた声音からも溢れ出ていて、ピリピリとした空気が忽ち会場を埋め尽くした。
しかし転校しても変わらず無神経な流川は振り返ることもせず、冷然とその場に立ち尽くす。
「何か言うことはねーのかぁ?」
続く桜木の言葉がその背中にぶつけられるが、何が跳ね返ってくるわけでもない。きっとこの様に、湘北にいた時も流川が食い付くことさえしなければ、余計な喧嘩は避けられたのだろう。
流川はそのままその場を立ち去ろうとした。誰の期待にも沿わない、実に素っ気ないやり取りだった。これまでは二人の喧嘩に散々呆れていた周囲も、今は桜木と同じ嘆息を漏らした。
「流川……」
「流川くん……」
「先輩……」
客席を初めとする軍団、今尚現存の流川親衛隊、ベンチの晴子や湘北部員、安西監督が、そして富ヶ岡中の元後輩までが、悄然と二の句も告げずに肩を落としていた。皆が流川の無愛想な背中を、静かに震える桜木の背中越しにそっと見つめていた。
するとそんな彼らより何倍もの悲憤を込めた拳が、今ギリギリと音を立てて握られる。それは去りゆく流川の後頭部めがけ、一思いに振り下ろされた――――。
流川がコートに倒れ込む鈍い音で観客のざわめきも瞬時に静まった。誰が助けにかかるより早く次の拳が飛び、これには流川も漸く振り返り、元仲間の目を睨み据える。後頭部を庇いつつ身を起こし、遂にそれを直視。桜木の、悲嘆と屈辱を溜め込んだ瞳を見つめていた。
桜木が言った。
「目ぇ覚めたか? 何がしてぇのか聞く気もねーが、俺をおちょくんのもいい加減にしろ!」
……と、語気を荒げ次の拳を振るおうとすると、流川もいよいよ反撃に出る。駆け寄ってきた審判や監督が二人を取り抑えようとするが、聞き入れない二人の殴り合い、貶し合いは一向に止まらない。
「何が実力だ、何がシロートだ、所詮テメェはそのレベルじゃねぇか! ぁあ?」
「っせー。シロートはシロートだ」
「ブロックもままならねぇシロートが何言ってやがる! だいたい、テメェが湘北の4番取った時から俺は納得してなかったんだよ! 湘北の4番は、湘北の4番はなぁ……!」
「負け惜しみ。俺が外れねぇと4番張れねぇヤツが何言ってやがる」
「っせーよ、どの道今のテメェにゃ無理じゃねぇか! 湘北の4番はなぁ、テメェみてーな根性ナシには務まんねーんだよ!」
珍しく、今日の軍団は席を離れることなく見守っていた。静まり返る客席に混じり固唾を飲む中、初めに口を開いたのは大楠だ。
「なぁ……そろそろ止めに入んなくていいのか?」
「いや、俺はパス」「俺も」と水戸に高宮が続き、野間も口を揃える。
「花道の気持ち、痛てぇほどわかるからな。前半中ずっと耐えてたんだ。最強のライバルだったヤツにあんな戦われ方したんだから、悔しさと虚しさでいっぱいだろうよ。ライバルまで片想いときちゃ、まったく無様なもんさ」
そんな桜木と流川の喧嘩は屈強な審判勢も止めることが出来なかったが、その終息はあっさりしていた。先に啖呵を切った桜木の捨て台詞が一方的に幕を下ろしたのだ。
「今のテメェに腹立つことすら馬鹿らしい。今日は殴り合いしにきたんじゃねーからよ。だがな、二度と俺の前でアメリカ行きなどと抜かすんじゃねーぞ」
無数の痣が浮き出た二人の呼吸は未だ熱を孕んだままだが、互いに背中を向け合うことで、少しずつ落ち着きを取り戻した。
客席にも徐々にざわめきが戻る中、コート上で反則の始終を見届けた審判が高々とレッドカードを掲げた。
「赤4番、黒17番、退場!」
双方指示に抗うことなく、大人しくコートを立ち去った。
「お……おい流川、怪我はないか?」
流川の現監督が隣に寄り添い、不慣れなボディタッチで宥めつつベンチへと促す。
桜木の許にも晴子が駆け寄り、透かさず冷えたタオルを手渡した。
そんな彼女の視線は、目の前で未だ握られたままの拳を憂い、そして、それは流川の背中にも送られた。
「流川くん……何か、あったの……?」
流川は背を向けたまま、静かに視線だけを上げた。
「何か……………………」
流川の頭に、今、とある女性の声が響き渡っていた。
『……あ、ごめんなさいね流川くん。透まだ帰らないの』
あの高飛車な感じが滲み出た口調が、途端によそよそしくなったのは受話器越しにも明らかだった。――それは引越しを告げ、二人が別れた後の夏の終わりのことだった。
同じ台詞を二度、受話器越しに聞いた流川はそれから連絡を取ることもなく、連絡が来ることもなく、すでに四ヶ月を経ようとしていた。
いつも流川の夢に響き渡った、あの優しく穏やかな声は木枯らしにでも吹き消されてしまったようだ。今年の冬は厳しい寒さに見舞われると、爆弾低気圧が来ると、そう天気予報を伝えたアナウンサーは確か、黒縁の眼鏡をかけていた。

ベンチに座る監督が、始まった後半戦を眺めながら流川の隣で呟く。
「ま、これまで流川ナシでもやってこれたわけだ。流川も桜木もいない湘北相手ならギリギリ勝てるだろう」
現に選抜地区予選を勝ち上がったこのチームは少しずつだが確実に点差を縮め、ジワジワと湘北を苦しめていた。
つい先ほどまで殴り合っていた流川も今はすっかり冷静に、ベンチから試合の成り行きを見守る。
もしこのコート上に本来の流川が居たなら余裕の点差を開けていただろう。チーム全員の動きに無駄はなく、調子の良し悪しといったムラもない。ムラの多い湘北に対し安定感があるのは、一種のチームカラーとしてチーム特性の型に皆が嵌っているから。そういったところから伝統とやらは窺える。
しかし、前半の点差が易々と埋められるほど湘北も弱くなかった。桜木が退場したとはいえ、現副キャプテンとしてガードを担う桑田が上手くチームを纏め上げている。二年前の副キャプテンを彷彿とさせるその役割に加え、ガードとして前キャプテン宮城の機転やクイックネスまでよく身に付けている。何より連携が成っている。
そこが何より目に着いた流川は、今のチームでそれを成していなかった。いつか仙道の言ったそれを築けなかった。いや、築こうとする姿勢もなかった。
流川に対する監督の期待は初見にして削がれたものの、それでも流川をスターとして扱うことに、そこそこ自信のあるメンバーはどこか疎んじるような目で流川を見ていた。だから、流川もそれに応えたまでだ。
たった半年弱だけ身を置くチーム。その間自分さえ練習出来れば、アメリカに行くその日まで、自分さえ上達出来ればそれでいい。何より個性を許さないこのチームと、エース気質の流川はプレイ面でも相性が悪かった。流川は初めて、努力を怠ったのだ。
結果、今日の試合は湘北が勝った。

その日流川が家に帰ると、ダイニングには母親の作った夕食が待っていた。引っ越してすぐはこの食事を黙々と口に詰め込んでいた彼だが、こうも毎日味噌汁と煮物が並ぶと、半年前までのジャンクフードがふと恋しくなるのだろう。今日は夕食があるにも関わらず、コンビニ弁当を買ってくるという親不孝をした。
母親は当然口酸っぱく、加えて長々と息子の行いを咎める。
「せめて買ってくるなら買ってくるで一言いってちょうだい。公衆電話からかけるくらい出来るでしょ? まったくこっちの事情もわかってちょうだいよ。あんたって子は、だから彼女の一人も出来ないのよ。聞いてるの? あんた耳だけはいいんだから、返事くらいしなさいよ! まったくもう……」
流川は両肘で頬杖をつくと同時に、さり気なく耳を塞いだ。……それだけだ。そのまま自室に戻るようなことはせず、父親の帰りを待って家族三人で夕食についた。
「楓、今日の試合どうだったんだ?」
「負けた」
「そうか勝っ…………負けた? 珍しいな。ま、そんな時もあるだろう」
負けた上、悔しさの欠片も見当たらない息子の表情。父は暫し箸を止めるも、それもすぐ笑顔に落ち着く。
「あ、楓しょう油」
無言で手渡された醤油瓶が、父の目尻を益々下げた。
そこに、何かを見計らったように電話が鳴り響いた。流川は母親が子機を手にするのを見届けると、あとは気にせずおかずを口に運ぶが…………
今、その手から落ちた箸が床に散らばった。
「楓、あんたに。花形くんから」




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