そうして迎えた三月十日は、昨晩の大雨が嘘のような快晴だった。まだまだ風は冷ややかなものの、空は明るく梅も咲き綻ぶ。
事前に待ち合わせた時刻は昼前、搭乗三十分前で、場所は空港ターミナルの待合だった。
花形は車ではなく、電車でそこへ向かった。約束の場で落ち合う直前、先に待っていた流川がその長身に気付くと両親の許を離れ、人の流れの向こうに覗く飛びぬけた頭を目がけ、駆け寄っていった。
「手続きは済んだか?」
薄地のシャツを羽織った花形が、黒のジャケットを着た流川に晴れやかな笑顔を見せる。
それはまだ二人が出会った頃のような、あの落ち着き払った長閑な春の穏やかさ。まるで憑き物が落ちたような、久々に見るその笑顔は流川の目にも奇妙に映ったらしい。
「うん、済んだ」
じっと顔を見上げつつ、持ち上げた右手で花形の頬に触れた。
あとは待合に居る両親に花形が会釈して、二人は自然とそこを離れ、ターミナル内を少し歩いた。レストランやショップの前を回りながら、また暫く離れていた間の近況を花形が語り出した。
「惺と純平くんのアパートも決まって、俺もそこから案外近いところに決まったよ。母親は何も兄弟で住めばいいって暫く煩かったけど、まあなんとか説得して納まったってところかな」
「家賃いくら?」
「2Kで六万。一人なら一部屋で充分だけど、駅からもそう遠くないし、部屋も悪くなかったんだ」
「もう引っ越した?」
「いや、まだ」
「魚は?」
「魚……ああ、水槽か。あれは置いてくよ」
「そ……」
……と流川が言って、会話は途切れた。突き当たった窓の向こうに着いたばかりの飛行機を眺め、各々の旅を終えた人々を二人静かに見守っていた。眩い太陽の陽射しが、旅行客の春色の思い出を顔いっぱいに映していた。
傍らではニューヨーク行きの飛行機に着々と荷物が詰められ、すでに搭乗する人々が見られる。
時間は刻々と過ぎていき、流川の両親が呼びにきて、二人は漸く別れの言葉を交わした。
「じゃあ流川、頑張れよ。応援してるから」
「先輩も……」
やけにさっぱりと素っ気ない、花形の浮かべた微笑も背中からの陽射しに透け、先程降り立った旅行客の流れに押され二人の距離も離れていって、そのまま、見えなくなるまで遠ざかっていった。母親の会釈を最後にあっけなく別れた。二人過ごした二年という月日が、ここで一度終わってしまった。
「…………さて、帰るか」
黒いジャケットの背中が見えなくなるまで見送ってから、花形は歩き出した。過ぎ行く人々に紛れとぼとぼと空港を後に、駅へ下りて、やがて地響きを伴う飛行機の轟音はその背後から。大地を這う大きな影を落としながら、アメリカへ、翼を広げ飛び立っていった。
背中に光を浴びてぐんぐんと昇りゆく姿を、彼が窓の外に見上げたのはもう、展望デッキへ上がっても届かないところへ発ってからだ。眩しそうに目を細めつつ、その機体に誘われるように彼はふと、表へ走り出た。
ずっとずっと、青空に吸い込まれゆく様子を陽射しと共に焼き付けながらふらふらとその後を追った。玄関口を出れば目の前には道路と駐車場しかないそこで、すでに小さな形でしかないそれに今更淋しさが込み上げたか、足早に追う彼に見送りの時の落ち着きが失せた。切迫した顔を歪ませ、目の前のフェンス越しに、網目の向こうへ呼びかける。
「流川……!」
目を僅かに赤く、痞えた声でその名を呼んでも当然なにも返ってこない。あの低く鼻にかかった、ぼそぼそと無愛想な声はもう、返ってこなかった。
………………いや。返ってきた。ぼそぼそとしていないが、あまりに掠れて言葉にもなっていないが、今花形の足下から、必死で声を返している。
彼が見下ろすと、そこには昨日の雨に濡れた段ボール箱が一つある。しゃがみ込んで蓋を開ければ、中にはミャーミャーと鳴く黒い毛の塊が一つ。閉じられていたそこに突然光が射したことに驚きつつも、それは小さな両手を伸ばし、そこから這い上がろうとしていた。でも、力が足りない。いくら爪を剥き出しても、震える全身を支えることすら出来ずにいる。それでも小さな体から出せる限りの声を振り絞り、生きようともがいていた。
花形は、そこに大きな手を差し伸べた。
「可哀想に。こんなに弱って……」
開いた両手にすっぽり納まるほどの小さな子猫。全身真っ黒な毛並みにこの鋭い目付き……。
「性別は……雌か?」
一通り指先で愛でた花形はそれを一度段ボールに戻すと、鞄からお茶の入ったペットボトルを取り出し、開けたキャップに中身を注ぐ。それを差し出せば、子猫が一心不乱に飲み出したから花形もつい表情が緩んだ。
「よく野良犬に虐められなかったな」
すっかり目尻を下げながら、舌舐めずりをするほどのその飲みっぷりを一頻り眺め、「さてどうしようか……」別れの後の思わぬ出会いに頭を悩ませていた。
「まず、持ち帰れるかもわからないしな……」
現実的な問題に頭を抱えている内にすっかり茶を飲み干した子猫は、今度は目の前にある花形の指先を舐め始めた。空腹故の行動とはいえ、そのくすぐったさには「おいおい」と独り言を繰り返し、彼は子猫との戯れに耽る。つい先ほどまでのことを忘れ、小さな舌先に傷を癒されていた。
そこに、今ふわっと駆け抜けた風は飛行機の向かった先からだ。まるで二人の出会いを包み混む、爽やかで優しい、新しい風。春の訪れ………………――――
きっとまた、何かが始まるのかもしれない。
「名前、何にしよっか」
花形の問いかけに、子猫は笑ったように目を細め、ミャア、と甲高い声を返した。
そして、風が吹き抜けたその向こうからとある声が聞こえてきた――――。
「先輩…………」
―― end? ――
あとがき
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