――翌朝。いや、昼……。すでに朝食を済ませていた花形は、薄暗い自室に戻るなりカーテンをそっと開けた。蒸し暑いだけじゃない、いつもより篭った匂いは昨晩から抜けきれておらず、僅かに窓も開けた。すると寝息の漂うベッドには眩しい日光が差し、まだ夢を彷徨う寝坊助の横顔を撫でる。傍に歩み寄った花形は無言で腰かけ、右手で日光を払う仕草を見つめた。
口端に涎を乗せ、それを枕に擦り付けつつ寝返りを打つ流川。間近に覗き込もうとも全く起きる気配のない、無神経を貫く寝顔には悪戯心が芽生えてしまう。キス……じゃつまらない、かといって鼻を摘むのはやりすぎだ。耳に息を吹きかけたりなんて……と策に倦んでいたところ、突如頭を押さえられたと思えば今、不意打ちのキスだ。
さていつから起きてたのやら。封じられた唇に代わって訝しむ目の前で、男は漸く目覚めた。ゆっくりと瞼が開き、今少しだけ、口角を持ち上げて笑ったような気がした。眩い日光が二人の間を通り、白く輝きすぎてしっかり確認することが出来なかった。ほんの一瞬だけ、キラキラとした幻想が脳にはしっかり焼き付いたのに、目の前のその人はもう笑っていなかった。じっと見つめるだけの花形を不思議そうに見上げていた。
「先輩……?」
「……ああ、うん」
初めて…………でもなかった。フッ、と薄笑ってくれることもあった。しかし今の笑顔は安らかで穏やかで屈託のない、無邪気な静穏に満ちていた。夢の続きをみていたのだろうか。だとしたら、どんな幸せな夢を見ていたのだろう。そこに花形はいたのか。やはり幻だったのか。いずれにしろ、どうして今更………………。
「流川、昼食だ」
貸したティーシャツを纏う流川の上体を抱き起こした。自ら起きようとしない身の重さは昨夜に続く甘えとして、早速絡みつく両腕をそのままにする。部屋のドアを開けても離れないそれを解き、階段を下りダイニングへ。誰もいない食卓に着かせ、冷蔵庫からペットボトルのコーラをグラスに注いだ。それを流川の前に差し出すと、リビングから母親が覗いた。
「透、昨日なんだか騒がしかったけど、何かしてたの?」
物音は階下に響いていたらしい。花形は気まずさから視線を逸らし、やや無理な言い訳をした。
「ああ、少しバスケを」
「バスケ? 部屋で?」
「ああまあ、ドリブルを少し……」
そこに惺も帰宅し、部活で腹を空かせた彼は真っ直ぐ食卓に駆け込んできた。
「お袋飯は?」
「これから。先に手洗いなさい」
ヘイヘイ、と疎ましげにダイニングを去ろうとした惺は、先に食卓に着く流川を横目に睨んだ。
「ったく、昨日はうっさくて寝れなかったなぁ。男二人でよぉ、部屋でハァハァハァハァ何やってんだか」
嫌味をたっぷり含んだ口ぶりに、しかし尤もな確信を衝かれたことで瞬時に空気が凍りつく。
花形は苦笑にも満たない苦笑を貼り付け、それでも健全な兄を貫いた。
「バスケしすぎたら疲れちゃって、もう汗だくだよ」
「部屋で? 馬鹿じゃねぇの?」
兄を疑わない馬鹿な弟に胸を撫で下ろす。惺が去り、そこに母親が食事を並べ出したことでやっと食卓に平穏が戻った。
程なく惺が戻り、男三人で囲う食卓にうどんを啜る音しかしない中、はっと思い立った惺が口を開いた。
「あ、兄貴。今日試合なんだろ? 藤真さんが少し早めに来いって」
「ああ、そういやそうだったな。流川、今日いつ帰る?」
「夜……試合終わんの待ってる」
――その夜のこと。夕暮れと共に向かったそこは、流川にとって初めての翔陽高校だった。集合時間の二十分前、淡い日没に見守られながら今や週末のみの通学路に車を走らせる。後輩たちが練習に暮れる体育館前で一度顔を合わせ、今日試合を行う大学へ向かおうと永野のワゴンにメンバーが乗り込むが、最後に乗り込もうとした神が……
「あれ、満員かな?」
体格のいいメンバーに加え、見学として現役翔陽メンバーも詰まった車内は定員と同時に満員となり、あぶれた神を花形が誘った。
「今日は俺も車だから、神はこっちに乗ってきなよ」
「すみません花形さん」
「花形、うちのエースを頼むぞ」
すでにワゴンの助手席に乗る藤真から声が飛び、神を車へ誘導した花形は彼を後部座席に通した。それはすぐ、助手席で待っていた男に気付いた。
「あれ? もしかして……流川?」
「……?」
互いの疑問符がぶつかる車内に花形も乗り込み、出発と同時にそれとなく事情を話してみれば、神はそれを知っていたようだ。
「引っ越すって話は昨日、洋平から聞きましたよ。電車で一緒になったみたいだね」
助手席へ気さくに微笑みかける神に、流川は少し萎縮してそれとなく視線を流すのみ。
花形もまた、神の次の言葉には苦笑を禁じ得なかった。
「二人の交友についてもちょっと話してたんですよ。無愛想な流川と真面目な花形さんがどうして仲良いんだろうって。趣味でも合うのかなぁ、なんて言ったら……」
確信を含む笑みがミラー越しに花形を見ていた。
「いやぁ、まぁ……」
花形は咳払いで軽く受け流したものの、神に誤魔化しは通用しないと肌で感じてみる。何より今、この車内にはsymspliumが流れているのだ。気まずさから話題を逸らした。
「そういう神こそ、水戸くんとは随分仲がいいようだな。俺としては二人の仲の方が意外だ」
「友達以上恋人未満ってやつですかね。ああいうクセのあるヤツって、居なきゃ居ないで寂しいんですよ」
「そ、そうなのか……」
窓の外を横目に流し、眉を顰めたすまし顔で他人事のように神が語る。冗談と本音の境目を見せない彼の性格を未だに掴めないでいる。
それに比べ、隣の助手席はすでに静かだ。到着までの僅か五分を微睡みに留め、七時十五分前をもって地元大学の駐車場に着いた。
「よし、やるぞ」
藤真の一声で集結したメンバーの顔が引き締まる。その後ろで車を降りた流川を花形が呼び寄せると、皆が薄闇の中で目を凝らし、今年神奈川MVPに輝いたその姿に視線を寄せた。
先の神と同様の驚きに花形が言葉を添えた。
「流川は今日、見学だ。高校レベルを制した彼が大学レベルを見にきたんだ。つまり……そういうことだ」
「なるほどな」
「下手なプレイは出来ねぇってことか」
各々が闘志を滾らせる傍で藤真がしたり顔を浮かべていた。惺がプイとそっぽを向くが、程なく対面した大学メンバーも流川には一目置いていたようだ。
それは控え目に壁際に立つも、醸し出される風格は周囲の翔陽生とは比にならず、未来の神奈川を背負うエースに大学生がざわめき立つ。エースは明日にも神奈川を去るわけだが……。
程なく始まった試合は実に快調で、終盤では藤真をベンチに下げる余裕すら見せた。中でも特に相手の度肝を抜いたのは、前半オフェンスの要であった神が徹底マークにあった際、彼の絶妙なパスから繋がる花形の鮮やかなフェイダウェイショット。大丈夫ですか、と尻餅を着く花形へ手を差し伸べる神はすでに歴としたチームメンバーだった。試合は四十点差の快勝のうちに幕を閉じた。
「お疲れ」
「お疲れっした」
また胸を貸してほしいという大学側の賛辞を受け、やがてメンバーと別れた花形は流川の自宅へ車で送る。街中から徐々に海風の薫る方へ、隣に意中の恋人を乗せ、夜の道路を走らせる。大通りで手前の赤信号を確認、停止線ぴったりにブレーキを踏み切るのも小慣れたもの。シートベルトを締めた隣の彼はぼんやり外の街並みを眺め、スピーカーから流れる旋律を指で叩いていた。
もし引っ越しの件がなかったとすれば、今のこの状況は静かな幸せのうちに過ぎていたのだろう。
ふと、流川が話しかけてきた。
「覚えてる?」
「何を?」
「前、俺が翔陽に入ってたら……って言ってたの」
「ああ」
いつになく弱々しい声に隣を覗いてみれば、それは膝にあった手を真っ暗な窓へ、ポツポツと降り出した雨粒に指先を添えていた。
そして俄然、口数が増えたかと思えば、今日の試合に対する不満をつらつらと並べ出したのだ。
「今日俺が出てたら百二十はいった」
「百二十は…………まあ、そうだな……」
「今日だったらもっとオフェンス重視でいい。神を使い切れてねえ」
「あれは藤真の指示なんだ。攻撃の始点である藤真とシューター神へのマークに対抗するため、永野と俺の両サイドを試す目的もあったんだ。勝つことは勿論だけど、あくまで練習試合なんだ」
「あっそ」
徐々に不満を帯びた声音と共鳴するよう、雨脚が強まる。昔のことを言ったかと思えば妙に辛辣な評価のあとで捨て台詞…………雷鳴が遠くに響いた。
「何か、怒ってる?」
「別に」
ステレオを止め、少し強引に流川の腕を引くことでその不満を汲もうとした。心が通わないまま最後の時を迎えることを苦く思ったが、しかし今目の前に見た瞳は雨色で、それはつい昨日見たばかり。しっとりとした悲しい色は一滴の薄い膜を貼り、花形の心をぎゅうと締め付けた。
「流川、もしかして……」
憂いはすぐ伝わった。この時間が辛いのは花形だけではない。流川も同じで、そこに先程の試合への不満、いや、嫉妬もあるのだろう。
あの国大地区予選時、目も綾なノールックパスが二人の間に通った。それを今日流川の目の前で成してしまったのだ。それなりに練習を重ねた成果ではあったが、流川の目にはより鮮やかに映ってしまったのだろう。
『もし流川がウチに入ってたら……』
あの日ふと漏らしたなんでもない言葉が、今もずっと流川の胸に留まっていたようだ。別れを惜しむ強い心は今唐突に込み上げ、「流川……」唇に迫るその時だった。後方から鳴り響くクラクションに顔を上げると、前方の信号が青に変わっていた。花形は慌ててアクセルを踏み、そのまま特に会話もなく流川の自宅へ向かった。
信号で止まる度に隣を窺うが、信号の変わる間隔がとても短い。まずはその微睡みを払い、こちらへ振り向かせ、想いを伝える一言を添えてから唇を重ねたいのに、注意の逸れた瞬間に前の車がアクセルを踏む。赤らんでいた顔が目の前で極度に青褪める。まだこちらを向いて数秒も経っていないのに、手を握っただけでいつの間にか通り雨も過ぎ、その最後の一滴が窓を垂れ落ちる前にまた信号が変わった。焦燥を抱く間もなく景色は流れ、何度と行き来した街に入った。
二つの信号を右折して公園に出れば、あとは入り組んだ住宅街。三つめの角を左折して、五軒めの青い屋根を探す。今日もナビを使わずに来れた。
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