蠍座の瞬き 3 |
一階のリビングのソファで読書をして、あっという間の日没を迎える。後ろに続くダイニングからはガチャガチャと食器を並べる音、漂うカレーの匂い、そして「そろそろ出来るわよ」という母親の声で花形は本を閉じた。 二階へ上がり、暗い部屋にパッと明かりを灯せど響き渡る規則正しい寝息。このまま起こさなかったらいつまで眠ってるのかと、今まで何度と抱いた疑問からそろそろ解放されるわけだ。 カーテンを閉めたらそっと寝顔を覗き、至高の眠りを妨げた。 「流川、夕飯」 ゆっくりと瞼を持ち上げた流川の朧げな眼差しは、急な眩しさを覚えるなりすぐ顔を伏せる。それをゴシゴシと枕に擦り付けたかと思えば、うつ伏せのまま動かなくなってしまう。再び寝息が漏れてくる。 「流川、ほら」 ベッドに乗った花形は流川の肩を軽く揺するが、返ってくるのは寝息だけ。もし流川と同居したならこれが日常茶飯事となるのだろう……と、そんなことを考えながらもう一度肩を揺する。 どうにか上体を起こした流川は一頻り目を擦ったあとで花形の胸に甘えてきた。目覚め前の微睡みを髪を撫でつつ許してやると、男はもっと甘えてきた。 「五分したら下りるよ」 などと言いつつ甘やかすこと十分、ひたすら顔を擦り付けられたシャツには涎が付着する。こんな些細なことで心を鷲掴みにされてしまうから、困ったものだ。 それから漸く階段を下りると、途中からすでに漂っていたカレーの匂いで後ろの流川の腹が鳴った。準備の整ったダイニングテーブルには五つの食器が揃っていて、花形の後ろにくっついてきた流川を母親が笑顔で迎えた。 「こっち、透の隣どうぞ」 「すいません……」 花形の引いた椅子に流川が腰掛け、母親がどうぞ、と目の前にカレーを差し出した。 「遠慮しないでね。スープもサラダもあるから」 息子の分もと、続いてカレーをよそる母の背中に花形が問う。 「惺は?」 「まだだけど、もう部活終わる頃じゃないの?」 話した傍から玄関の開く音と、ドタドタと廊下を行く足音。 「お、今日カレー?」 ただいまも言わずダイニングを覗き込んだ惺はジャージにスポーツバッグを背負ったまま。奥で黙々とスプーンを運ぶ湘北生にはまだ気付いていないが…… 「透がね、今日どうしてもカレーにしてって言うから。透のお友達も来てるしね」 母親の言葉に視線を巡らせた惺は、先にカレーを頬張る宿敵を見つけるなり目の色を変えた。 「流川テメェ、なんでまたうちにいんだよ?」 早速悪態をつく惺に対し、母親の手前上品に繕う流川は無言でカレーを口に運ぶ。 そうなると益々不貞腐れる弟に、事情を汲んで欲しい兄は流川にコーラの入ったグラスを差し出しながら、それとなく伝えた。 「惺、流川は明後日引っ越すんだ。もう神奈川にはいなくなる」 「へえ、あっそ」 寧ろいなくなれとばかりに応じる惺。しかしこれ以上、彼が流川に突っかかることはなかった。きっと弟なりに兄の声音で察したのだろう。流川と花形のいる姿を一番見てきたのはこの惺で、それなりに交友があることは知っている。 そして、そこにもう一人帰宅したことで花形一家が揃った。 「ただいま」 長男に似た理知的な声が廊下に響き、程なくダイニングを覗くスーツ姿の男。流川は暫し目を剥いていた。 それは見事に花形兄弟の長身を決定付ける体格で、流川の手はスプーンを宙に留めたままだ。 「父は、元バレーボール選手なんだ」 花形の答えを聞いた流川は「あ……お邪魔してます」スプーンを置き頭を下げる。 「ああ、いいよ、ゆっくりしてって」 そう言って、母親に脱いだジャケットを手渡した父はすでにカレーの置かれた席に着いた。まずはグラスのビールをグイッと一口飲んでから、流川の隣で食を進める長男に話しかけた。 「そういや透、学校はどうだ?」 「まあ、それなりだよ」 「そうか。ならいい」 「そういや、父さんはなんで今の仕事に?」 「俺は実業団から声がかかってたから、考えるまでもなかったかな」 なるほど……と納得する息子に、父は「あっ」と思い出したように一度食卓を去っていった。そして戻ってきた父の手には書類があり、それを息子に差し出した。 「いやあ、最近知人の立ち上げた会社なんだが、後々人材を募るそうだ。東京だがな。昔実業団でバレーを一緒にやっていた男だ。まあ、とりあえずで受け取ってくれ」 書類を受け取った花形は、軽く目を通すだけで流川におかわりを勧め、共に夕食を済ませた。 その後は二人家を出ると、少しの夜風に触れるだけの静かな散歩に繰り出していった。 生温い夜気の中、車の多い大通りとは逆の方向へ、街灯の明かりも乏しい裏道に回る。人気のなくなったところで花形が流川の手を取り、言葉もなく肩を並べて歩くだけ。あとは空に綺麗な満月が浮かんでいるだけで充分だった。 父親の登場で少しは緊張していた流川も、今は花形の肩に頭を凭れている。静穏に満たされ、浸かった心がまだ幸せを噛み締めようとして、恋人の手を強く握った。 ――知らぬ間に早まった別れ。きっとこれから寂しくなる。こうして連れ歩くことも手を握ることも、少し熱いくらいの体温を感じることもなくなるのだろう。 そう考えてもまだ実感がないのは、出会ったその日から心が通い合うまで、滔々と水が流れる如く順調だったから。運命というものを信じたくなるほど、自然と芽生えた恋が自然と実ることになんの不思議もなかった。だから、このまま一つになることも自然と叶うものだと思っていた。そっと手を握り返した流川が何気なく尋ねてきて、ふと現実に返る。 「さっきの親父さんの話、どうすんの?」 「うん…………そうだな。まだあと二年あるから、なんて言ってたらあっという間だろうな。前向きには考えてるよ」 「なんで、今の大学に決めたの? 先輩ならもっと……」 「まあ……正直もう勉強はいいと思ってたのもあったかな。別に嫌いじゃないけど、勉強が出来ても目的がなきゃ、向上心ってやつも湧かないし。それに藤真らも地元の大学行くから、俺だけ離れる気がしなかったんだ。小学校からの馴染みだとなんだかね、くされ縁さ。だから、親も納得できる無難な線を行ったつもりだよ。勉強もバスケもそれなり、偏差値なら県内一だ」 それと、もう一つ、弟のこともあった。推薦で進めるまま秀でた大学へ入学すれば、母は当然、弟にも同じ道を強いるだろう。折角バスケに返り咲いた、いや復帰させてくれたとうのに、同じことを繰り返したら意味がない。確かにそれまでの成績を多少無駄にする選択ではあったが、それでも未来は明るかった。 高三当時、流川と出会い心が通じた。弟が家に帰るようになり、後の翔陽に希望をもたらした。それ以上望むものがなかった、と言ったら嘘になるが、逆風にこそ湧く向上心が順風の中では育たなかった。 しかし未来は変わるもので、藤真が翔陽の監督でいる限り弟には問題ないが、恋に抱いた淡い夢は、別れが目の前に迫る今はすぐに泡沫となるかもしれない。まるで全てが幻だったのように、愛しい寝顔も寝息も声もあのしなやかな素肌さえも、この静かな夜の闇に溶けてしまうかもしれない。仰ぎ見た夜空には、蠍座のアンタレスがこんなにも力強く輝いているというのに、その瞬きは一瞬だ。 それが誰かと重なって、ふと隣を見つめれば、月夜に照らされた横顔は奇しくも同じ星を見つめていた。 「あの星……なんで赤いの?」 「理屈的なことは俺も知らないが、ギリシャ神話での蠍座は、当時最強とされたオリオンを仕留めるべく遣わされた。そして使命を果たした功績として星座の一つになったとか。でも、不思議だよな……」 すでにオリオンを討つという使命を果たしたにも関わらず、空の上でもその心臓は今も赤く息衝いている。空に昇ってしまったことでもう一生追うことのできないオリオンを今でも追っているような、執念深ささえ感じる。いくら使命を果たそうと満足しない、まるで高みを望むことに魅せられてしまった、この男のように…………。 だから答えはそう。 「湘北の赤じゃないか?」 我ながらくだらない、と苦笑を交えて言ってはみたが、尋ねた本人はもう聞いていなかった。 「アメリカは……あっち?」 夏の夜空すら見えない彼に、またも乾いた笑みが漏れてしまう。しかし同時に湧き上がる愛おしさはまだ確実に存在し、それがまだ隣にいて、想いを捨てきれないことにはすることをするまでだ。男の本能がそうさせるのか、ただの独占欲なのか淋しさなのかは明日にもわかるだろう。 三十分ほどで帰宅すると、やがて階下の親も寝静まった家で、自室のベッドで流川を抱いた。 「ンッ…………」 なるべく声を漏らさぬよう、上に乗せた流川の腰を左手にしっかりと支え、水槽の青い照明を頼りにその姿を仰いだ。微かな波を幻想的に纏う白肌に右手を這わせ、情欲を煽られるままそれを前後に揺らした。 「ィ、無理…………」 グッと身を強張らせながら苦悶を集めた表情で、流川が花形の両肩を掴んできた。 「キツイ?」 「もうダメ」 「降りる?」 コクっと頷いた流川を降ろすと、顔を顰めたままの彼を仰向けに寝かせる。紅潮した表情を片腕に覆う、今更恥じらう彼の脚を開き、火照った呼吸が冷めぬうちに再び挿入した。 「ンウゥ………ッ!」 急な刺激に驚く身体は腕の中で跳ね上がり、声に続く昂ぶる呼吸は律動に乱される。 「流川……いい?」 「ん……ンッ……」 「何してほしい?」 「ハッ、ハァ、ハァぁ……ッ」 身悶える様で誤魔化しているのか、顔を背けては頷いてもくれない男をいじらしく思う。中はこんなにも締め付けて離してくれないというのに、滾る情欲を持て余してしまうではないか。 「ねえ、言って」 「ヤ……ダ……」 その体から一度モノを引き抜いてみれば、にべない態度とは裏腹な疑問の目を投げてくる。 「先輩、怒ってんの?」 真下からの問いかけに、いいや、と素知らぬ笑みを浮かべた。 そのまま何もせずにいると、流川の腕が首に巻きつき唇が重なる。愛撫に近い口付けのあとで「もっとして……」と強請る声は上気したまま、淋しそうな目で見つめながら。今日の昼間、突き放した花形に縋ってきた時と同じ顔が目の前に蘇る。 気付けば焦って抱き竦め、淋しさを押し潰すべく身を擦り寄せた。愛しさのあまり傷つけているのか故意に傷つけているのか、自信をなくしていた。何にも屈することのない男が自分の寵愛でもって狎れゆく様に愉悦を覚えていたのかもしれない。 求められるまま再び奥を貫けば、震える肩が華奢を装うよう窄められ、声を押し殺し小さく鳴く。胸の突起を捏ねてやれば更に窮した声を上げ、花形の首に固くしがみついてくる。打ち震える心を否定できないでいる。 声にならない想いは一つだけ。 「行くな、どこにも……」 昂ぶる心の押し上げる声を喉奥に締め殺した。 |
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