県予選、そして先日のインターハイを迎えた流川の練習の邪魔を察しながらも、偶の逢瀬を重ねていた。
月に一度は弟のものを拝借し、流川の自宅へ車を走らせる。彼の母とも顔を合わせるうちに親しくなり、会えば必ず長話に付き合わされる次第だ。彼女が家を離れる際は必ず「楓をよろしく」の言葉が添えられ、息子の唯一貴重な友人を持て成していた。
おかげで二人きりになる時間は押し、日が沈みかけた頃に二人は漸く二階へ上がる。母親の用意した夕食を冷蔵庫に眠らせたまま、相変わらず雑然とした部屋で直様ベッドに傾れ込み、逢えない日々を埋めるキスが始まりを告げた。
幾度と受け入れた身体は徐々に中の快楽を覚え、苦悶の表情も数度の往復で何とも艶やかな色に染まる。吐息混じりのほんのり鼻にかかった高音が恋しく、つい夢中で愛撫に励めば小刻みに跳ねる声と身体。封じ込んだ瞬間に震えるほどの愛おしさが襲う。同じ想いを帯びた掌が、吐息が、柔らかな熱が返事をくれる。……相思相愛。その確かな繋がりを、花形は会う度に噛み締めていた。胸奥に響く切ない鼓動を、その人の心と体に強く刻んできたつもりだった。 …………なのに今日、別れの日が突如早まったことで彼の心は深く沈んだ。それは決勝戦の後のこと、流川からの急な申し出で花形の許へやってきた、流川本人によって初めて告げられたのだ。
事前に電話で告げた駅の駐車場で花形が待っていると、それは何時の間にか歩み寄り、コツコツと窓を叩いてきた。
「ああ、乗って」
眺めていた資料から視線を切り離し、助手席に乗り込む流川とは二日前、インターハイで会ったばかりだ。ドカッと背を凭れた流川はティーシャツの胸ぐらをパタパタと扇ぎ、車内にそよぐ冷房の風を取り入れていた。
「暑かった?」
「死にそう」
「飲み物いる?」
「いる」
もう動けないとばかりに遠い目で天井を仰ぐ彼を残し、花形は車を出るなり手前の自動販売機へ。快晴の下、外気との極端な温度差に触れつつメニューの前で一通り迷う。
「さてどれにするか……」
無難にアイスコーヒーを選び、足早に運転席へ戻れば少し効き過ぎるくらいの涼しさに救われる。
「コーヒーでよかった?」
「うん」
受け取った流川は何故か先程花形が眺めていた資料を手にしていた。それは「就職先?」と流川に聞かれた通り、それぞれ溜め込んだものだ。
花形は車を走らせてから事情を話す。
「まだ先の話ではあるんだけどね」
卒業は二年後となるが、これといった目標がないことには生活も緩くなりがちで、意識を改めようとせめて資料を手にした次第だ。しかし今ひとつ絞り切れず、何も見通しは立たない。
来年もこうして流川が助手席にいるような気すらある。傍らにはいつもバスケがあり、共に汗を流す仲間がいる。そんな生活が体に染み付いている所為か、仕事一辺倒という生活があまり想像できない。今はまだ、と現実逃避している。
「今日親いるけど……まあ、構わないか」
言っては自宅までの道を走らせていると、横から穴が開くほど見つめられていたことにふと気付く。
「なに?」
「いや」
すぐ視線を逸らす流川だが、花形は先程から少し不思議に思っていた。
幼い息子を寝付かせるのに車を走らせるのが丁度良かったと、それは昔よく父親に聞かされた話だが、流川もそれに該当し、助手席に乗るといつも数分と経たず寝息を立てる。
しかし今の流川はぼんやり前を向いているだけ。まるで何か機会を窺ってような、思い込んでいるような……。
「なにかあった?」
「いや」
きっと電車で眠ってきた余韻がまだ覚めていないのかもしれない。今は流れたままのステレオのボリュームを僅かに上げた。
『〜Got to get time share on the music?』
流川は言った。
「さっき電車でアイツ……水戸洋平に会った」
「ああ、彼なら決勝戦でも見かけたよ。すっかり湘北の応援の要だね。……で、なんか喋ったの?」
「行き先知ってやがった」
「行き先って……つまり俺のこと?」
さて何故だろう、と考えて辿り着いたのは以前、手を怪我した流川の見舞いに出向いた時だ。初対面にして、なんで流川……? といった水戸の眼差しが今も忘れられない。湘北での流川楓を知った瞬間だった。あの時は連絡の取れない流川を案じ、湘北まで尋ね、そして病院にまで足を運んだ。今になって照れ臭くなる。
その後十数分で花形の自宅へ着く。玄関で出くわした母親に流川が畏まって頭を下げると、それには母親も機嫌良く愛想を返した。寧ろ歓迎するとばかりに買い物に出て行き、それを見届けた二人は二階へ、花形の自室に篭った。
花形はドアを閉めると先にベッドの縁に腰かけ、流川を前に来るよう促す。素直に膝の内に腰を下ろしたその背中が、白いうなじがやけに切なかった。後ろから腕を回し、背中をその体温ごときつく抱き締めるが、どうも視界が霞みがちだ。レースカーテンを潜った日差しが白肌をより白く染め、日中の光の内に今にも消え入りそう。
目の前のうなじに額を置いた。伝わってきたのは、一昨日の癒えぬ悔しさだった。
「まあ、全日本の合宿ももうすぐだろ? 今年も海外との親善試合があるそうじゃないか」
全日本に選ばれれば日本一も同然、という意味で耳許に呟いてはみたが、思った以上に傷は深かったらしい。
「行かね」
「なんで……どうした? らしくないぞ」
落ち込むを通り越して不貞腐れた、いじけて拗ねてしまった。いつになっても可愛い恋人につい笑みが零れる。それならこのタイミングで、昨日やっと届いた朗報を目の前に広げてやった。
腕を伸ばして卓上から取った一枚を彼の前に晒すと、摘まんだ手ごと流川の手に奪われ、ぐいと持ち上げられた。
「これ……取ったの? スゲェ……」
「チケットはまだだけど、とりあえず当選の知らせだけ。昨日届いたんだ」
肩越しの同じ一枚に目を落とせば、紙面に噛り付いた流川はそのまま固まっている。
しかし驚いたかと問いかければ、その返事は実におかしなものだった。
「この日帰ってくる」
「ん……? どういうこと?」その経緯が、これから順を追って説明された。
「この前、親父が………………」
――それは、久々に帰った流川の父による決断だった。これでもインターハイが終わるまでまで待ってもらったようだ。花形は落胆し、暫し色を失くしていた。
何故このタイミングなのか、何故今なのか………先程の悔しさ以上に触れた切なさは花形にとっても重いものだった。落ち込むでもない、不貞腐れる手前で乾いた笑みが零れる。
次なる親の転勤に合わせ流川も遠くに引っ越しする。それがもう来週に迫っていた。合宿に行かないのではなく行けない。引っ越しの準備はすでに始まっていた。
流川の腹に回していた腕が知らぬ間に落ちていて、ふと立ち上がった流川が花形の前を去っていった。彼は水槽の前へ歩み寄り、ひらひら舞い泳ぐ魚たちをもの静かに眺めていた。
適度な距離を置く二人の間にぽこぽこという水槽の音、フゥ……という花形の溜息が重く響く。あとは沈むだけの太陽が同じ日射しを傾けるだけの、ただただ長い時間が嫌な空気と共に流れた。五分、十分、十五分……………秒針の音がだんだん耳に障る中、先に静寂を断ち切ったのは流川だった。
「やっぱやめた。俺だけ残る」
花形に背中を向けたままぼそりと呟く。
花形は透かさずダメだと言った。早いうちから家族と離れ、一人で生活することにはいつも不安を感じていたからだ。それに………………
「どうせすぐ、アメリカ行くんだろ?」
皮肉混じりに放つ花形の言葉は淡々として、思いやりの欠片もない。少し心が乾いていた。早いか遅いかの違いじゃないかと、流川の背中にぶつければそれは直様振り返った。花形を力んだ瞳で睨み付け、拳を握っていた。
しかしそんな流川の怒りに気付いても花形は目を逸らすだけ、なんのフォローも出来ず、こうして口を噤むことが今の彼には精一杯。流川の気持ちを汲む余裕がなかった。
ほんの数分、ほんの僅かな距離だった。しかし全く心の通わない時間は静かで長く、重苦しく苦いだけ。流川もそれは同じだったようだ。
「先輩…………」
突如慌てて駆け寄った流川にいつもの余裕はなかった。床に膝を着き、花形の下から顔を覗くように憂いの眼差しで見上げる。見えない恐怖から逃れるよう、花形の膝に強く縋り救いの声を求めている。人一倍大きな男がまるで怯える子猫のように、決して振り解かれることのないよう、ジーンズの生地に爪を立て力一杯しがみついている。その原因は紛れもなく今の花形の態度だ。見えない恐怖ではない、目の前に見える恋人の稀な冷たさだった。
大人げないのは花形だった。うまく感情のコントロールができないのは、ここまで揺さぶられる感情を知らなかったから。心の脆さを痛感する。そのために流川を傷付けたのはこれで二度目。好きな人の心も体も、傷付けてばかりいる自分に嫌気が差す。そしてここまで感情をかき乱す恋人へ、また波のように込み上げる愛情の大きさを知る。だから、今すぐ救いの手を差し伸べてやる。
「流川、ごめんね……」
花形は流川の冷たい頬に、指先の滑るままに髪を撫でた。足に絡みつく手を外し取っては、引き寄せつつ唇を奪う。腰に回した手で更に引き寄せ、全体重を預かった。今は急な別れへの落胆も忘れ、飽くなき愛しさを優先した。触れ合う唇も戯れ合う体も、絡み合う指も通い合う心も、求めることに忙しい。僅かな吐息すら欲情を呼び起こす。
しかしまだ日中だからと、ふと身体を離してみれば続きを欲しがる甘えた視線。
花形は問いかけた。
「流川、引っ越しいつ?」
「明後日」
「もう、明後日か……」
共有できる時間はあと僅か。そっと抱き寄せた流川から先の憂鬱が去る。薄めた目元に安堵が覗く。もの欲しそうにこちらへ指先を伸ばしながら、花形の頬に触れてくる。
「先輩俺……」
「ん?」
じっとこちらを見つめる目は夢を見ているようでいて、奥に宿る確かな意志が窓からの日射しに輝く。進路に悩む花形と違い、明確な未来を見据える眼差しに一切の迷いはない。続く言葉はきっとそう……………「俺、アメリカ行っても先輩のこと………」
語り出した唇を花形は唇で塞いだ。それ以上の言葉を発せぬよう、呼吸ごと奪ってやる。見えない未来を語っても仕方ないのだから、それより……と話題を変えた。
「なあ流川、好きな食べ物、なに?」
唐突なキスと質問に流川は顔を顰めながら、カレー、とだけ答えた。
疑問だらけの眼差しに花形は続けた。
「じゃあ、好きな教科」
「……英語」
花形はフッと鼻で笑ったあとも質問を繰り返す。
「好きな飲み物」
「コーラ」
「好きな色」
「黒か………青、あと赤」
終始眉を顰める流川への軽い抱擁を解くと、立ち上がった花形は微笑を残し、「ちょっと待ってね」言って部屋を後にした。
そして数分も経たぬうちに戻ってみれば、ちゃっかりベッドに寝そべる男はすでに微睡みつつある。片頬を置いた枕を抱き抱えるようにして、花形に転じぬ視線は今にも閉ざされそうだ。
「今日、泊まってきな」
ベッド傍から囁けば、流川はごろりと仰向けに寝返る。流れた前髪から覗く額をそっと撫でてやる。覆った掌の奥の瞳は最早夢の中にある。
「眠ってもいいよ」
その言葉を待っていたかのように、流川はすっと眠りに落ちた。次の瞬間から寝息が漏れ出したのは言うまでもない。花形はそれを暫し見守り、薄掛けをかけてやり、頬にキスをした。
今日、少し言い過ぎてしまったことを無垢な寝顔に詫び、急激に詰まり出した胸を抑え、部屋を去っていった。
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