日、出ずる国 5


乱れたベッドの上の空気は未だほんのり蒸れていて、そこに尻を押さえたままの流川が後ろから包み込まれている。ぐったりと胸に凭れるその様態を案ずる顔に見守られる。
「まだ痛む?」
問いかけにコクッと頷けば今一度抱き寄せられ、傾く頭に片頬を寄せられ、暫しの気怠さを共有した。
あれから一時間を過ぎた今も流川は不思議と眠らず、ふとその人の顔を見上げるなり、また突拍子もない注文を投げ付けるのだった。
「アメリカ、一緒に行く?」
「ア、アメリカへ……?」
途端に顔を歪める花形だが、未だ尻を摩る痛々しい姿を見て、ゴミ箱に捨てた主にティッシュの山を見て、量の減ったローションを見ては項垂れる。眼鏡のないその眉間を押さえ、下からの視線を逃れてからやんわりと断った。
「そうだな……旅行なら行ってみたいが、今のところ俺の人生にアメリカ行きはないよ。そりゃ暫く顔も見れないのは寂しいが、電話くらいなら出来るし、俺は別に、流川がアメリカへ行くことが別れだと思ってない。流川もずっと帰ってこないわけじゃないだろ? ……ただ、少し心配なだけだよ」
「心配?」
「もし気持ちまで離れるようなことがあれば、その時は流川のアメリカ行きを恨むよ」
それはないだと流川は広い胸筋に縋り付く。落ち着いた鼓動を片耳に、弛緩しきった表情で言い添えた。
「じゃあ偶に帰る」
「帰るって言ったって、頻繁に行き来できる距離じゃないだろ。金だって相当かかるぞ」
「じゃあ電話する」
それはどう転ぼうと、じゃあアメリカに行かないとは当然ならない。
花形は尋ねた。
「……流川はなぜ、バスケを始めた?」
――――それは、流川が小学生の頃だった。
一家三人で囲む夕食時、父親が一口目を頬張るその前に母親が重い口を開いたのだ。
「お父さん聞いて。今日楓の担任の先生から電話があって……」
流川があまりに無口なため、加えて名前が女の子のようであるため、流川がイジメの対象になっている。そう聞いた父親だが、当の息子はテレビを見ながら無関心に夕食を掻き込んでいた。とてもイジメに苦しんでいる様子はなく、父は母を宥めるが、母にとっては大事な一人息子を思う故の大問題だった。
「そりゃ楓はいつもこの様子だけど、それが問題なのよ。六歳児でこんなに無口じゃ不気味がられるのも無理ないわ」
本人を前に嘆く母親に対し、父親はまた別の意見をもって息子を見ていたようだ。
「無口の何が悪い。話が出来ないわけじゃないんだから、用さえあれば楓も話すさ。友達だって欲しけりゃ作る。今はただ、クラスメイトとする話に興味がないってとこだろ。なあ楓?」
話を振られた息子は箸を動かしたまま、頬に詰め込んだままで無愛想に、声変わりも程遠い声でこう応えた。
「どあほうばっかりで時間の無駄」
ハァ、と嘆く母親は遂に頭を抱え込んでしまった。悲憤の行き先を夫に向け、無口な我が息子についてまくし立てるが、父も父で余計なことを口走るため、黙々と食べる息子の前での口論は続いた。
「なあ梓、楓が今言っただろ? 時間の無駄だって」
「そんな屁理屈、楓はまだ小学一年生よ。なのにもう将来を見据えて時間を有意義に使ってるとでも言うの? 寝ながら登校するのもそれは貴重な時間を有意義に使うため?」
「まあ、そういうことだろうな……。たっぷりと充電したぶん、ちゃんと有効に使うんだろ?」
「何に?」
「それは…………」
母親の鋭い返しに父親がとうとう口ごもると、するとそれまで無関心でいた息子は多少気を利かせたか、テレビを見てこう答えた。
「コレ」
「梓、今度ミニバスにでも通わせてやるといい」
……そう、当時のニュース映像に偶々流れていたNBAの試合が、後のスーパールーキー流川を誕生させたのだ。流川はその後通い始めたミニバスで忽ち素質を開花させ、急速に名が広がる程の上達ぶりを見せたのだった。
しかし、小学三年生に上がった流川は遂に事件を起こしてしまった。授業中居眠る彼にちょっかいを出したクラスメイトを殴り、怪我をさせてしまったのだ。相手の家に頭を下げてきたと、夕食を前に嘆く母親には父親も息子を問い質す。
「どれどれ、理由を聞こうか」
それでも優しい父親の声に、息子は大人しく箸を置き、口を尖らせて言った。
「うっさかったから」
「何がどう煩かったんだ?」
「俺が寝てっとこにしつこくちょっかい出してきた。だから殴った」
「ちゃんと口で言ったのか? 睡眠を妨げるなと」
「いや」
「それはいかんな。手を出すなとは言わないが、まずはお前が不快に思ってることを相手に伝えてからだ」
それには母親が透かさず口を挟む。
「伝えてからって、お父さんそれ説教になってないじゃない。もうホント父さんは甘いんだから。いい? 楓は他所のうちの子に怪我をさせたのよ? もう何度頭を下げてきたことか……」
「そりゃ暴力はよくないが、楓にとって睡眠は体力を温存するための有意義な時間だ。それを邪魔されんだから、怒るのも無理ない」
「だからって、そもそも授業中に寝てる方が問題なんだし……」
父子の言う有意義に母親はとても納得できないようだ。しかしそれらは全て、家族のため頑張る父親の家族への愛に過ぎなかった。父は何より家族を愛していた。
「おい梓、こう見えて楓は母親似なんだぞ。一途で負けず嫌いなところ、気が強いが根は真面目なところ、目的があって行動するところも、ちゃんと母さんの血を継いでる。それでちょっと無口なくらい、可愛いもんじゃないか」
夫の言葉に急に頬を染める母親と、子供ながらに夫婦の時間をと食卓を去る息子。その背後で、父親がぼそり呟いていた。
「あの楓がこんなにもバスケを頑張ってるんだ、信じてやりたい。俺もそのために年明けからまた転勤だ。はぁ、また寂しくなるな……」

幼少期の流川楓を知った花形は遠目に微笑んでいた。
「それなら少し、安心したよ」
決して何を疑うでも今更無口を責めるわけでもないが、ホントのところ、流川がいつも何を思っているのかがいまいち理解できないでいた。言葉が全てとは言わないが、それで安心を得たいと思うのも人間の性だ。しかし気持ちがなければ今ここに流川は居ないと、目的があって行動する男を前に確信を得た花形は、満ち足りた笑みを浮かべていた。
下からは無言の口付けが触れ、次いで、幼少来変わらない仏頂面での告白は、可愛げも恥じらいもなかった。
「好き。もう言わねー」
「言わないなら言わないで、ちゃんとわかるようにしてくれよ」
すると返事のキスはわかりやすく、面倒な男を納得させるネチネチとしたディープキス。それから横になるでもなく、特に何を語らうでもなく、二人はベッドで寄り添ったまま。花形の腕に包まる流川もまだ瞳を閉じず、やがて二時半を過ぎようとした頃だった。
「なぁ流川、俺らも日の出見に行くか?」
ふと花形の言った一言で二人は漸くベッドを下りた。

安らかな寝息の響く助手席を見て、花形はやっぱり……の笑みでステレオのボリュームを下げた。暖房のレバーを上げ、赤信号でブレーキを踏んではそっとシートを倒してやった。紫に染まりつつある空の下、閑静な山楽街にのんびり車を走らせていた。そして漸く辿り着いた満車の駐車場を過ぎ、なんとか探し出した空きスペースに車を止める。流川……と寝顔を覗けばそれはゆっくりと瞼を開け、折しも覗いた日の光に彼の頬がオレンジに染まった。今年一番の太陽が共に目覚め、「おお……」という遠くのざわめきを聞いて二人は車を降りていった。
凛と澄んだ空気の中、奥のにぎわいを目指す道中、まだまだ寝ぼけ眼の流川は隣の肩に身を委ねる。コートを着るその人の背中の生地を掴み、眠気を押し付けるよう腕に額を擦り付け、間もなく「流川、ほら」の声で顔を上げた。
人集りの後ろに立った二人はその頭上から太陽を覗き、神々しい射光に目を窄めていた。まだ薄暗い空に眩しく雄大な赤を放つ、まるで……
「日の丸とはよく言ったものだな」
花形はレンズを反射させて呟いた。
「日出ずる処……か」
世界一早く日が昇ることからそう呼ばれていたそこは、後に日本と称される。
二人は周囲のざわめきにとらわれることなく見入っていたが、今、前方の列から「あ……」と振り向く男の声はよく聞き慣れたものだ。気付いた花形は慌てて恋人との距離を置いた。
「惺、いたのか」
続いて振り向いた洋平も流川に気付き、気さくに声を掛けるがその返事はない。代わりに花形が応えれば、人集りを掻い潜った惺、純平、洋平の三人が二人の前に歩み寄ってきた。
「悪いね、惺の面倒みてもらっちゃって」
「いやぁ、うちのと取っ替えてほしいくらいだ」
花形兄と水戸兄による昨日のやり取りは続き、花形は改めて登頂手段を確認した。
「本当に登れたんだね、あの原付で……」
すると傍にいた純平が惺にこんなことを漏らす。
「洋平はあれでかなり馬鹿なんだぜ? 前に原付でノラ猫避けて事故ったんだとよ。おかげで一台逝っちまったって」
「マジかよもったいねー」
話を聞いた花形は洋平の怪我を案ずるが、彼は先日完治したばかりで、またも己を犠牲にしていたりする。
洋平は何やら思いを馳せるようにしみじみと言った。
「それがスゲェ真っ白で綺麗な顔してたんだ。あんな美人轢いちまったら可哀想だろ?」
そしてパッと持ち上がった顔には眩い曙色がいっぱいに射す。
「まあ、今はこうして山登れんだし。お前らこのまま初詣行くか?」
洋平の一声に盛り上がる惺と純平を見て、「じゃあそこまで送って……」と申し出た花形はふと口を閉ざす。顧みた後ろに一人暇を弄ぶ流川を見て、その場で三人と別れた。また車を一走りさせ、真っ直ぐ自宅へと帰っていった。

やがて、まだ眠い? という声と頭を撫でる掌で流川は目を覚ます。上体を起こしたそこはベッドの上で、辺りを見回したそこは花形の部屋で、またも恋人の枕を濡らしていた。
それでも腑に落ちないか、頭を掻きながら自身のジャージ姿を見下ろす流川を見て、花形が答えた。
「車に乗った途端またすぐに寝たんだよ。うちに着いてから一回は起こしたわけだが……覚えてない?」
続いて時計を視線で指せば、見上げた流川は絶句する。丁度おやつの時間を見計らったように腹の虫が鳴いていた。
「まだ寝ててもいいけど、お腹空いただろ?」
「減った。起きる」
そうして食事を済ませた後、またすぐ部屋に戻っては忽ち昨夜の続きに耽った。赤に染まるほど絡み付く肢体はまるで互いの身体を忘れないようにと、また暫しの別れを惜しむように、せり上げる肉棒はきつく締められ、打ち付ける腰は両脚に抱え込まれる。
まだまだ苦悶を隠せない流川もどこか、昂る欲情を全身で受け止めながら儚い視線を投げかけていた。
お預けを食らったままの熱帯魚がチャポン、と跳ね、胸元に置いた顔を持ち上げる花形だが、それは流川の両手により捕らわれる。視線に気付いた花形は、止まない律動とは裏腹の柔らかなキスをそこに落とす。
すると、「透……」とよがる声の続きはキスの狭間で、「消して……」と悲し気に蠢く。唇を離れた花形を見上げる瞳にはいつかの妬み恨みが澱んでいた。
花形はじっと、目を細めて言った。
「もう、疾うに忘れたよ」
「ホント?」
「本当」
「ホント?」
「本当に……好きだよ」
「ホント?」
「……じゃあ嫌いだ」
「ブッ殺す」




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