車で送られ、流川家に到着したのは朝の太陽がすっかり沈んだ頃だった。別れ際のキスで二泊三日を終え、流川はすでに自分の部屋にいた。カーテンも開けたままベッドの上で寝転がり、自分の匂いしかしないそこでぼんやり考え込んでいた。 ……あの人はアメリカを共にしないと言った。流川とて現実を知る高校生、つい口に出た理想に過ぎず、期待もなければそこに大きな落胆もないが、離れたばかりのこの寂しさを、彼のいない異国での未来に馳せてみたりする。傍に居るだけで得られるあの安心感は何だろう……と、柄にもなく恋の不思議を考えていた。しかしそれは秀才の彼にでも訊いてみないとわからないから、考えるのをやめた。気まぐれな憂鬱は気まぐれに覚め、あっさり切り替えた流川は体を起こし、カレンダーに明日からの部活を確認する。今更部屋の暗さに気付き、明かりを点け、録画しておいたNBA の試合に見入る。豪快で巧みなプレイの数々が益々彼を惹き込んでは、その決意をより揺るぎ難いものにした。このために日々努力を続けてきたのだから、残す課題は一つだけだと、そう、今は思っていた――――。
晩のことだ。階下から呼ぶ母親の声で流川はかったるそうに階段を降りた。久々に物音が響く階下にはテレビの明かりが漏れ、夕食の匂いが漂い、家族の声がした。覗いた居間にその姿があった。
「楓いらっしゃい」
そうソファに掛けるよう促す母と、テーブルを挟んだ対面にお茶を啜る父親がいる。母はちょくちょく帰っていたが、父が帰るのは実に久々で、流川はまじまじとその皺の数まで見つめていた。
父はテレビを切ると、食卓に着いた息子を前に早速口を開いた。
「楓、一人の生活はやはり大変だろう」
「別に」
「そうか? 洗濯物だいぶ溜まってたぞ?」
それには特に返事もせず手前の箸を取る息子だが、次の言葉にその手が止まる。
「いやぁ、楓はアメリカに留学したいんだろう? もちろんそう出来るように俺も頑張ってる。今年また配属先が変わるが、まあ何とかだ。ただ……」
そう言っては暫し黙り込む父親に、母親までがそっと俯くこの空気に息子はとうとう視線を上げた。
続きはフゥ、と一息が置かれてから、奥歯に物が挟まったような口ぶりで。
「……ただ、このまま楓がアメリカに行ってしまうのも少し寂しくてな。思えば単身赴任が始まってから五年か……。だから、アメリカに行ってしまうまでに少しだな、その……何より、別にもうこの家に住む必要もないわけだ」
そうしてまたも口を閉ざす父親に、流川は疑問だらけの視線を向けたまま、母が差し出した湯飲みを手に取る。そして「ほらお父さん」と小突く母親により、再び重い口を開いた父は漸く思い切ったようだ。バスケ部キャプテンでもある息子に最後の試練を与えた。
「この家は時機処分しようと思ってる。それでまああと一年ではあるが……配属先が変わったついでに、あっちにだな。東北で一緒に暮らそう。転校だ」
「転…………?」
――――翌朝。昨年の宮城に次いだ湘北の新キャプテンは一番にここ、湘北体育館にいた。こんな年明けすぐに練習を入れたのは勿論そのキャプテンで、部員には当然のこと、自身に対しても決して甘やかさないのはここの伝統となりつつある。
まだ薄暗く誰もいない、凛と静かな朝の体育館で彼は確実なシュートを一本放った。日が射す頃には徐々に部員が集まりだし、怠けた挨拶には「遅せぇぞ」と喝を飛ばし、外周を告げる。今年一番のキャプテン命令が無愛想に下れば、部員の顔は引き締まり、彼等は表に駆け出していった。しかし一人だけ……
「テメェは行かねーのかよ」
背後から不機嫌に喰らい付くのは実力的にと副キャプテンを継いだ桜木だ。何も変わらない態度に後ろを顧みた流川だが、不機嫌に不機嫌を返す姿もまた、何も変わっていなかった。
「俺は今日一番に来た。テメェは遅刻したんだから早く外周行け」
「遅刻って、まだ七時まで二十分もあんだろ? テメェが早く来ただけじゃねーか」
「俺がキャプテンだ。逆らうな」
体育館での一悶着の後、表へ出たキャプテンは偉そうに部員らの背中を見送った。
「ビリは十周追加」
そうストップウォッチを片手に、入学時から頼もしく成長したメンバーを見つめていた。そこには以前も流川キャプテンを慕った富が丘中からの後輩もいて、ちょっとした贔屓も見受けられたりで、副キャプテンとの衝突が絶えない日々を送っていた。
しかし、今年全国へ行くのは紛れもなくこのメンバーだと、それはいつも練習前に部員へ言い聞かせていた。流川が日本一になれるかはこのメンバーにも掛かっている。……そのつもりだった。
『アメリカでは、俺はパス一つまともに出せないよ。1on1の試合でもあるなら別だが、言葉も通じない異国でとなると俺には自信ないね』
それは去年全国制覇を遂げた合宿での仙道の言葉だ。たとえ転校してもバスケに携わるとして、もしそこが湘北より強豪とされるチームであったとして、それは叶うのだろうか……。
そんなことを茫然と考える間に一着で戻ってきたのは桜木だった。流川との一悶着でスタートに出遅れたはずだが、二着を大きく引き離し、彼はこの寒空に不似合いな汗を浮かべ、校庭で突っ立っていた流川に早速突っ掛かかった。
「おい、テメェも行ってこいよ」
うっせぇ、とだけ返す流川だが、そんな彼を奮い立たす術を桜木は誰より備えている。
「んだと? テメェ俺よりスタミナねぇから負けんのが嫌なんだろ? まあ俺のが速いのは当然だがな。ナッハッハッ!」
「負けた覚えはねー」
「じゃあ走って来いよ。それとも俺との勝負から逃げる気か?」
「じゃあテメェももう一周だ」
「は? なんでだよ!?」
「ストップウォッチ止めんの忘れた」
「……んだと? ざけんなルカワッ!」
怒り狂う桜木を置いて先に走り出す流川をまた、桜木が追い駆ける。
「なっ、流川テメェこの卑怯者ーッ!」
今までもこれからもきっと変わらない、そんないつもの光景を、校舎の隅からいつかの黒猫が見つめていた。少しばかりお腹の膨らんだその猫は、何やら縋るような目でじっと流川ばかりを見つめていたのだった。
その晩、流川は家に帰ってすぐ父に頼み込んだ。夏休みまで待ってほしいと、インターハイが終わるまではと、気持ち頭を下げて。父は寂しそうな表情を浮かべていたが、そこまで言うならと了承をくれた。
一方、花形宅にも両親が戻っていた。
「まったく、惺はまだ帰ってないのね」
新年早々家にいない息子を嘆く母親だが、以前と違い、兄はその行動をある程度把握している。
「惺ならすぐ帰るよ。いい友達が一緒だから、大丈夫だ」
言った傍から惺が戻り、母親は僅かながら安堵の色を浮かべた。
その玄関先で折しも電話が鳴り、受けた惺の声色がみるみる変わった。
「はい、兄貴」
朗らかに受話器が手渡されると、その電話の主もまた、兄のいい友達だったのだ。
「よう花形。明後日なんだが、神から顔出したいって電話があったんだ。出てこれるか?」
そして、その花形もまだ眠る翌朝――。まだ日も昇らない時間に流川は起きていた。母より早く赴任先へ戻る父を見送るため、母と二人で似た身長の背中を見つめる。そこには少しの疲れと寂寞が浮かび、またの再会を惜しむよう、たった今顔を出し始めた朝日により影が伸びていた。
そのために今日早起きをした流川は早速自転車に跨った。ボールを籠に、PEPSIを片手に閑静な住宅街を走り抜け、イヤホンから聴こえた英語に不慣れな発音で応える。
「It’s All right」
着いたいつもの公園は薄暗く、誰もいない静かなそこにドリブルを刻む。見えないディフェンスを躱し、狙ったリングの先を見つめ、その更に先に眩しく輝く異国の地を見据える。遠く焦がれた目で今日も彼はボールを放ち、夢へ確実に近付くのだ。
しかし今はまだ……今辺りを照らし始めたその光はまだ、二人を同じ色合いに染める。日出ずる国の淡い曙色が、これから二人の行く末を暖かく見守っている。
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