翌朝のダイニングにて、流川は「まただ……」と仏頂面でぼやき箸を握った。今年も騒がしい輩が同じ食卓を囲い、「兄貴もうマヨネーズねーじゃん」と惺、「そんくれぇ我慢しろよ」と続く純平もいたのだ。
いつかのジャージを纏ったままで迎える冬晴れの朝、キッチンからサラダを運ぶ兄に対し、流川は不満の色を顕にする。しかし漸く食卓に着いた花形はそれに気付かず、流川の舌打ちより先に口を開いた。
「純平くんは、なんでお兄さんとばらばらに住んでたの?」
「うち親が離婚して、別々に引き取られたんすよ」
複雑な事情に少しばかり表情を落とすと、純平は尚笑みを浮かべた。
「まあでも、別に仲悪いわけじゃねーんで。今日洋平もこっち来んすよ。親父に顔出すって。っつーわけで、今日は惺を預かりますから」
「一つ頼むよ。お兄さんにもよろしくね」 ……今日は惺が出かける。つまり、この家から騒音が消え去るということ。黙って聞いていた流川はスープを啜り、ホッと息を吐いた。しかしそれはすぐに嘆きの霧へと変わったのだ。
「純平くんは、ここまで何で来たの?」
「電車と徒歩っす」
「じゃあ、車で送ってこうか」
いつも優しいその人に流川はそっと苦り切る。
「ったく……」
一人不満を漏らすその姿を、惺が訝しげに見つめていた。
そんな煩い二人に昼食まで振る舞い、送り届けた帰りのこと。
「純平くん、翔陽対海南戦もお兄さんと観戦してたし、仲良しなんだな」
優しさの過ぎる恋人の声を、助手席の流川は依然むすっとしたまま無言の頬杖で受け流した。
「どうした?」
「別に」
そう不機嫌を見せつければ、その人はいつもどんなわがままも受け入れてくれる。
「昨日の公園行って」
「これから? まだ二時だし、まあ構わないが……」
「ボールあるっしょ?」
「ああ」
そのまま二十分ほど車を走らせ、目当ての公園に到着した。トランクから勝手にボールを取り出した流川はすたすたと園内に向かった。
「1on1か?」
背後を行く花形の声に、頷いた流川は後ろを顧みることなく、ドリブルを歩調に合わせる。見晴らしの良い小道を進みながら、ダウンを擦る木枯らしに目もくれず更なるわがままを告げた。
「フェイダウェイ。全力で相手して」
無人のコートへ踏み入るなり二人はベンチに上着を放り、リングの前で向かい合った。早速間合いを取り、流川の無言のドリブルを合図に花形が低く腰を落とす。いつか、無名校湘北のスーパールーキーと、強豪校翔陽の副キャプテンとの熱戦をここに呼び起こしていた。
花形の向こうにリングを見据えたタイミングを狙うその眼差しは、鳥の羽ばたきさえ封じ込む。その目線を外してすぐ、構えた花形のディフェンスを避けるよう流川はゴールの左側へ、早くもシュート態勢に入るが、リングを狙う目の前にはすでに十センチ差の壁が立ちはだかる。視界も塞ぐブロックで先制を阻むが、それを流川が今、バッシュに劣るスニーカーで越えた。身長を覆う影から遠ざかるよう後ろへ飛び………………
『あとは、ボールを放つタイミングかな』
流川の頭に、あの合宿での花形の声が響き渡った。そう、今だ…………。
一瞬覗いたゴールに目を剥いた流川が指先からボールを送り出す。すると尻餅を着くと同時に、パサッとリングを潜る音、続いて地を打つボールの音。そして風に転がるボールを後ろに、手を差し出した花形が掴み取ったその手を引いた。
「また上手くなってんだな」
涼しく笑うその表情は白い寒空と相俟って、微かな寂寞を催していた。続く後輩の挑戦を淡々と受けいれる彼に笑顔はなく、小さな凡ミスを繰り返した。
そうして何十回にも及ぶ熱戦の末、右手でボールを拾い上げた花形はそれとなく帰宅を促した。
「もうホント、何も教えることなどないよ」
薄暗い夕陽を受けた長身の影が縦に伸び、息上がるもう一つの影に左手を差し伸べる。しかし手を取った男の目はまだまだと言わんばかりだ。大学生を負かす程度では満足しないと、そう告げる挑戦の瞳が夕日を眩しく映していた。立ち上がった影が傍へ寄り、横顔を見上げ、コートを通したばかりの左袖を掴んでせがんだ。
「先輩また、勝負して」
花形はすっとその目を逸らし、それでも甘えてくる男に溜息を吐く。
「もう相手になんないだろ?」
「まだ。あとでまた」
肩口から見上げるその目は相手の目を射抜き、擦り抜け、そして水平線をも越えゆくは流川の熱い野望だ。それを花形の少し強引なキスが唐突に遮ると、流川の目に漸く目の前の男が映った。長く塞いだ唇にはノーの返事が封じられ、人気がないのをいいことに、憚らない抱擁が、帰宅を促す早い日没に暫しの暇を請うていた。
その夜、先に入浴を済ませた流川は一人ベッドに寝転がっていた。勝手に曲を流せば勝手に暖房を調整、仰向けになったりうつ伏せになったり。その人のジャージに身を包みその人の枕に顔を埋め、自分の部屋以上にだらだらと寛いでいた。
そこにドアが開いてパジャマ姿の花形が戻る。濡れた髪をタオルで拭いながらベッドへ歩み寄り、縁に腰掛け眠気を窺えば、いや、と応える流川が枕から顔を引き剥がす。二人きりのこの家でやっと静かな団欒を迎えた。
「そう言えば、昨日神が入るって藤真言ってたな」
「ちゃんとやってんの?」
「ああ。日曜だけ翔陽に顔出すことにしたんだ。チームと言っても元翔陽のメンバーで。藤真から話があった時はもう試合に出る前提で……三回かな? 大人とも試合出来るし、まあ楽しくやってるよ」
落ち着いた雰囲気の中で花形の近況が語られたところ、階下から電話の音が鳴り響いた。
「ちょっと出てくる」
部屋を出た花形が程なく戻ると、「少しだけ待ってて」と告げるなりまた出て行ってしまった。そして、ガサガサと物音がし出したのは隣の部屋だ。
「っつーことは……」
憎き電話の主へ舌打ちした流川は、ついに上体を起こし、物音の絶えない壁に貼られたカレンダーを見上げた。十二月末日の今日を見つめ、溜息と同時に立ち上がり、隣の弟の部屋へと出向いた。
廊下を少し行ったそのドアの向こうは、服や菓子袋の散乱した、まあらしい部屋であった。
「何してんの?」
「それが、さっき惺からの電話で、昨日純平くんが財布を忘れたらしいんだ。それで、これから寄るから探しといてくれって。でもこれじゃ探す以前の状態だからな」
それとなく部屋を片付ける花形の手に余るゲームソフト、ゴミ、漫画の数々。やれやれと態度に出す流川だが、まず爪先から部屋に踏み入る。脱ぎ捨てられた革ジャンを摘み上げ、その下を適当に探った。
「悪いな流川」
「別に」
それから黙々と探すこと数十分、床に転がった目覚まし時計は日と月と年を跨ぐ瞬間へ刻々と迫っていた。
「フゥ、あとは机の引き出しか」
うんざりした花形の声で流川はその一段目を開けてみた。きったねぇ、と顔を歪め、二段目の卑猥な表紙には少し見入り、そして三段目を開ければなんと…………
「先輩コレ……」
「ん? あったか?」
手応えを得た声に透かさず振り向く花形だが、その手にあったのは財布ではない。
「それ……そこにあったのか?」
すっかり手を止める花形と、興味津々に見入る流川。そこに、兄貴ー! と響く階下の声。この部屋の、そしてこの物の持ち主だろう。
階段を降りた花形は玄関先に立つ惺と、何とも言えない面持ちで対面した。続く惺の軽い謝罪には唖然としていた。
「わりぃ兄貴、純平のやつ財布持ってやがった」
その純平が後ろから顔を出し、「なんかすいませんした」と一礼。平気だよ、と大人の会釈を返す花形に二人は早くも踵を返す。
「じゃ、日本人らしく日の出見に、山上がってくっから」
そう言って、玄関の外へ踏み出した二人の奥にもまた、大人の会釈が覗いていた。花形もすっかり知る人となった彼がいつかの原付に跨り、ペコっと頭を下げていたのだ。
「あれ? 洋平くんも同行するの?」
それなら安心だとする花形だが、夜目に確認出来たのはあの原付が一台……。
「ちょっと待って」
今一度人数を確認した花形は玄関を飛び出し、県予選以来となる洋平の許へ、花形も一度は乗せてもらったその原付について尋ねた。
「水戸くん、まさか三人でコレに乗って山登るつもり?」
「ええ、そのまさか。二台目のコイツはなかなかのスタミナ持ってんで、三人ならまあ余裕だ」
明日に年明けを控える深更の冷たい夜気の中、それぞれ礼を交わす二人とその前でゲラゲラ騒ぐ二人。近所迷惑も兄の心労も顧みない弟だが、それを介した兄の交友もごく自然なものとなっていた。
一方…………
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