明かりが点された台所で、歯ブラシを咥えた流川は片手のゴミ箱を、ティッシュで溢れるその中身をゴミ袋に注いだ。上はタンクトップ、下はトランクスのその上から尻の辺りをさすり、廊下へ出たところでパチッと電気を消す。やがて階段を上り、開けたドアの奥に花形の背中を見つけた。
「………?」
隅にゴミ箱を置いた流川はその背中へ、何やらビデオのデッキを弄るパジャマ姿に歩み寄る。
「そういや流川、デッキのクリーニングしたか?」
屈んだまま問いかける背中に、流川はぴたりと足を止めた。
「まだ……」
気まずそうに呟いた。
……それは去年の合宿後、花形家への初めての電話に遡る。デッキが壊れたと、だから約束のビデオが見られないと話した彼に落ち込む素振りはなかった。
「見れないことはないが、少し画質が荒いかな」
ガチャガチャと弄りながら、適当に再生した画面にはじゃれ合う野良猫の映像が流れる。
「猫……好きなの?」
少しばかりはにかむ流川に、振り向いた先輩は今日も優しかった。
「確か、国体合宿は来週だったな。弟にクリーニング用のビデオ渡しとくよ」
そう言って、戯れる猫ビデオを停止、電源が切られる。
「そろそろ寝るか」
立ち上がった花形に頷き、流川がドア横のスイッチに手をかけ、それを弾こうとした直前だ。流川がふと目線をやったのはデスクの上、がさつに積み重なった教科書の、その下にはみ出た答案用紙だった。期末テストの、記名欄の『Kaede Rukawa』の隣に72点が赤で記されていた。
明かりが消され、カーテン越しにささやかな月明かりが青白く照らすそこは、開けた窓からもそよそよと微風が舞いこむ。少し狭そうなシングルベッドに二人並んで横たわり、始まったピロートークははみ出た薄がけの中で、隙間ない肩越しに流川がその横顔を見上げた。
「先輩……」
「ん?」
「今度、英語教えて」
「英語?」
振り向いた花形は、まだ流川の全てを知らなかった。
「応用力だっつわれた」
ぼそりと天井へ呟く流川は、そこに先日のインターハイ初戦を映し出していた。
あの日――――。
「流川くん、少しよろしいですか?」
安西先生はそう言って、流川を廊下の隅へと連れ出した。
「君の期末テストの成績を見せてもらいました」
改めて向かい合ったそこで、疑問を浮かべる流川に述べられたのはあの話だった。
「勉強も頑張ってるようですね。英語と体育以外はもう少し頑張ってほしいところですが、まあいいでしょう」
……と、あえて初戦の日にそんな話をする眼鏡の裏にはなんらかの意図が潜んでいるようだ。
「問題は応用力ですが、流川くん……Can you speak English?」
唐突な疑問形に、流川は怪訝に眉を顰めた。
「まあこれは、中学生の問題ですから。ホッホッホッ」
白髪仏は悠長に笑った後であのお言葉を繰り返す。
「君の意思は信じています。その強い向上心を確信しています。アメリカに向かって頑張って下さい。……ですがもちろん、今は日本一を目指して下さい」
日本一と、言ったそばから現れたのは翌日の対戦校。日本一を阻む強豪校が二人のいる廊下を通り過ぎていった。
「わかりました」
流川は丁寧に頭を下げ、そして踵を返す。今は日本一を睨む前に、試合中に見つけた彼氏の許へと急いでいった。
「応用力……?」
聞き返す彼氏に、流川は抱き続けるその野望をここで初めて打ち明けた。
「卒業したらアメリカ行く」
「アメ…………って、本気か?」
「本気」
僅かに上体を起こし、隣を窺う花形は暫し目を凝らしていた。
「アメリカ……? アメリカって…………そうか、そうだよな。流川だもんな……」
それは自身へ言い聞かせるよう呟くが、宙を彷徨う目は遠く、理解の程も朧げだ。唐突な告白に、一方的に定められた別れに彼は色を失っていた。
「そうだよな……」
放心したまま、物言わぬ天井を振り仰いだ。呆然と押し黙る無表情に、靡くカーテンから撫でつけるは遠く太平洋を渡った風。その向こうを見つめる流川に、花形はそれ以上何も言わなかった。
「だから、教えて?」
冷めた声音で請う甘え切った声も、天井を見上げままの彼に聞こえているか否か、花形は呆れたように一言発した。
「流川はそんなに、バスケが好きか……」
早くも寝息の響くそこで、隣の安らかな寝顔へ、曖昧な苦笑が淡い月夜に霞んだ。
――翌朝。先に玄関を出たのは昨日と同じティーシャツの花形だ。押さえたドアからはジャージの流川が出てきて、すぐに自転車の鍵が外され、それを押しながら二人揃って家の門を出た。快晴の青空の下、角のコンビニを曲がり、ガードレール内の歩道を歩いた。
「なるべく時間作るよ」
トラックが通り過ぎる横で、花形が続ける。
「でも、全日本に国大合宿が続くとなればもう休みなしか?」
「一日くらい空ける」
ぼんやり応える寝ぼけ眼の流川に、花形は思い出したように言った。
「ああそうだ。惺のやつ少し怪我してるんだ。といっても軽傷だが、一つ頼むよ」
そしてもう一つ……。
「それと……昨日思ったんだが、この辺は事故多いのか?」
続く歩道で花形がふと足を止める。目線で指されたのは至る個所でへこむガードレールで、流川はその犯人を知っていた。
「それ俺……」
花形は閉口してから更に前方を指した。
「まさか、あっちも?」
居眠り運転常習犯はコクっと頷く。見渡す限りどこかしらに擦れたタイヤの跡があり、それはもちろん流川の自転車のものと一致した。
「よくもまああの怪我だけで済んだな……」
花形は呆れ気味に、感心しながら顧みるは去年の怪我。流川は運悪く衝突事故を起こしたわけだが、それは運ではなく必然だったらしい。それまで無事でいられた方が奇跡だった。
やがてティー字路に差し掛かったところで二人は歩みを止めた。
「じゃ、部活頑張れよ」
そう言って、駅方向を向く彼に「送る」と流川が一言。離れたばかりの距離がすぐに埋められる。
「いいよ。昨日道覚えたし、それにもう時間だろ?」
言って確認した腕時計は8:50。悠長に促す花形へ、更に一歩近付いた流川は今十センチほど背伸び、自転車のハンドルを握ったまま、車の往来に隠れ軽い口付けを寄せた。
きょとんとしたままの片頬に、そこに小さな微笑が浮かぶなり、踵を下ろした流川は自転車に跨った。
「また電話する」
それだけ言い残し、颯爽と自転車を走らせて行った。
一人佇む眼鏡に映る、強い日射しを受けた背中が光の中に消えてゆく。額に翳した手の陰りから、眩しそうに窄めた目でじっと見送っていた。
そして、花形もまた別の道を歩み出した。
「今日は午後からだな」
腕時計を確認しながら踵を返し、一人昨日の道を戻る。湘北とは逆方向へ、涼しい顔で朝の歩道を行く。
車を持ち、バイトを始めたばかりの大学生にアメリカへ行く機会はまずないだろう。今は午後からのバイトと、近い未来に必要な現実を見据えることで忙しい。まるでその将来を示すかのように、二人は今別々の道を進んでいった。
途中、ゴォォォと轟くエンジン音に気付き花形は空を見上げる。眩しい日射しを顔いっぱいに受け、細めた目で進行方向を追い、そして再び歩き出した。
歩道沿いの小さなビルに、『英会話教室2F』の看板を見ては「あるじゃないか……」と小さくぼやく。そして数歩進んだところで、彼は再び立ち止まったのだ。
「あれ……?」
ふと後ろを、来た道を振り返る。
「英会話教室なんてあったか?」
昨日流川と来た道にそれはなかったはずだ。
「戻るしかないな」
人一倍目立つ迷子は踵を返した。周囲をよく見回しながらビルの前を通り過ぎた…………その時だった。
「ケフッ……」
息にも咳にも満たない弱った声だった。微かに聞こえたのは通り過ぎたばかりのビルの影から、裏道へと続く角の向こう側からだ。踏み込んでは一度周囲を見回す花形だが、自転車に乗った中学生数人が通り過ぎればあとは遠くに散歩する老人のみ。九時を回ってすぐのビルに人の気配はなく、角の向こうまで覗き込むが、そこにも人はいなかった。
「気の所為か」
そう言って、立ち去ろうとしたその直後にも掠れた笛のような呼吸が聞こえる。ペッと吐き出す音はやはり人のもので、彼はビルの裏手へ、日の当たらない路地裏へと回った。
そこで、花形は見つけた。忽ち戦慄した彼は、外壁に凭れへたり込む男の前へ慌てて駆け寄った。
「こ、これは…………」
血に汚れた顔は見事に腫れ上がり、ドクドクと流れる鼻血は止め処なく、先日の惺とは比べようにならない程の痣を負う彼は……無数の足跡を全身に纏うその男は…………
「み……水戸くん?」
今日は前髪を上げていないが、顔は先日の初戦でも会ったその人だ。紙吹雪を手に応援に励んでいた湘北の彼だ。口から流された新しい血は、先程咳き込んだ際に吐き出されたのだろうか。
「水戸くん、しっかりするんだ」
花形は押さえた水戸の両肩を揺さぶるが、虚ろな目を返すその人は今、パクパクと動かす口から声も出せずにいる。そして、ゆっくりと垂れ始めた首がガクッと手前に落ちた。
「な………………」
花形は鞄から取り出したハンカチを鼻にあてがう。が、とてもそこだけに留まらない惨状を見てはすぐに立ち上がる。
「今、救急車呼ぶから」
やがて乗せられた担架から、痛々しい片腕がだらりと垂れ落ちた。バタンと閉まった救急車に、その隊員に負傷者は湘北の生徒であることを伝え、ついでに駅までの道を訊いた花形は暫しその場に立ち尽くしていた。
遠くサイレンが去るまでの間、茫然と顧みるは勿論先の怪我人だ。外見に反し親切な水戸のこと。そして「あれ………?」と首を捻る彼が、今思い出したのはインターハイ初戦の夜。弟といたはずの、友人だといったその男の声だった。
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