まるで烏の濡れ羽の如く、湿る黒髪から滴る一滴が静かな水面に波紋を描く。今ゆっくりと開けられた瞳は、戦地での夜を仰ぐ。
「俺は日本一……」
ぼそりと発せられた声が、白い湯煙と共にもくもくと天へ立ち昇っていった。すでに皆が入浴を済ませた後、流川はその白肌を湯に晒していた。凭れかかった岩風呂から、無防備に徹した姿で最高の露天を独占、瞬く星空を一望する。
北東に浮かぶ琴座のベガ、その左下に白鳥座のデネブ、鷲座のアルタイルがかたどるは夏の大三角形。他にもアークトゥルス、スピカ、デネボラと、散りばめられた輝く白は真実の色という。南東に位置するアンタレスは勇気の赤、そして褪めた三日月は正義の青を指すか……。
そこにいつの間にか現れたジェット機を、時折瞬く点滅を彼はじっと追っていた。赤青白のあやなす宙へ、北東へ向かい三角を潜る一機を、遠くエンジン音を轟かせ、今バスケの国へと旅立つそれを見守る瞳は何を思うか。更なる挑戦を志し、そこに本場のゲームを仮想するか。
広い正面玄関に『歓迎 M高校様、湘北高校様、O学院様』と掲げられたその外観は和風の格式と品位漂う、去年のちどり荘よりワンランク上の旅館だ。すでに十時を回り、静かな館内は三校分の寝息に包まれていた。
その廊下で今、湯上りの流川と鉢合わせたのは寝惚け面の桜木だった。浴衣のはだけた胸元から手を差し入れ、ボリボリと腹を掻きながら、身長分ほど近付いたところで彼はあからさまに顔を顰める。人相悪く目を細め、何やら怪訝に流川へ詰め寄る。
「ぬ? 流川テメェ……」
立ち止まった流川もまた、冷ややかに目を窄めた。
正面に立つ桜木は、じっと流川の寝巻きを見下ろしていた。
「なんだコレ……?」
明る蛍光灯の下、彼がまじまじと見入るのは胸元にある3年4組の名票だ。少しだけ丈の短い、青いジャージの名票に付いたその名前……
「な、何故だ…………?」
恐る恐る持ち上がった顔へ、そこに花形透を名乗る彼はにべなく一言。
「欲しいのか?」
「いるわけねぇだろ!!」
素早いツッコミに、就寝中の安田が今ビクッと跳ね起きた。
――一方、その頃。「ただいま」と開いた花形家の玄関にパッと明かりが灯る。
「透、遅かったのね」
すでにシルクのパジャマを着た母親が奥から出迎え、少し育ち過ぎた息子を下から見上げた。
「ああそう、今日車来たわよ。鍵はそこに置いたから」
「そう。明日見てみる」
指されたシューズ棚の上を確認した息子は中へ、「お風呂は沸かして」と向けられた背中に一つ尋ねる。
「惺はもう寝た?」
「それがまだ帰らないのよ。まったく、最近少しは真面目になったと思ったらもうこれなんだから」
「まあ、あいつも偶には」
カッカする母親を宥める彼は、これまで母親に盾突くことはなかった。そのまま枠に嵌って育ち、そして小学生ですでに母の身長を超えたとか。
長く伸びた腕で壁のスイッチを、玄関の明かりを消し、まっすぐ浴室に向かっていった。
そしてベッドに就いたのは日付の変わる直前だ。水槽のブラックライトが仄めくだけの部屋で、外した眼鏡を置こうとしたその時……突如聞こえた外の声に、ふとその手が止まった。
「俺は平気だ。問題はオメェだろ? 何もあそこまですっことねぇじゃねーか」
……という、どこか聞き覚えのある声には訝しげに、花形は声のする窓側に目をやる。
「何言ってんだよ、テメェがぶっ飛ばされたんだ。タダで済ませられっかっての」
「だがな純平、あいつらの執念深さは異常だって。わかんだろ?」
「なーに、俺ぁ天才なんだ。知ってんだろ?」
と続く会話は男二人によるもの。何やら物騒なやりとりだが、物音しない階下はすでに就寝にあるようで、二階の彼だけがじっと聞き入っていた。
「それより惺、問題はオメェのその怪我だ。明日一応医者に診てもらえよ。わかったな? じゃあ俺は帰る」
「じ……純平、オメェこそ気ぃ付けんだぞ。あいつらやり方が卑劣なんだ。なあ、おい聞いてんのかよ!」
近所迷惑を顧みない声に返事はなく、一つの足音は徐々に遠ざかっていった。その純平とやらはどうやら帰っていったらしい。
そして残されたもう一人は……
「惺…………?」
咄嗟に立ち上がった花形は眼鏡を握り締め、部屋を出るなり直ちに階段を駆け下りた。そこに折しもドアが開き、今玄関で鉢合わせた弟の姿に唖然とした。
「さ……惺、お前、何した!」
それは痛々しく脇腹を抱え、半袖から晒した肌には無数の青あざ、血を拭った痕が夜目にも見受けられる。
「なんでもねぇよ」
気まずそうに視線を外す弟は、去年と違い今や兄に次ぐ翔陽のセンターだった。当然ながらその身にさし障る怪我があってはならないのだ。
「惺、外出てろ」
そう言って、兄は台に置かれたままの鍵を掴む。眼鏡を装備した沈着の目で、間違えて母親のハイヒールに足を差し入れた。
「………………」
物音を最小限に、玄関を出た二人は新車のある車庫に向かった。あの小うるさい母親の寝ている間に、明らかに喧嘩であろうその証拠隠滅を計るつもりだ。
また惺からバスケを取り上げられれば、去年バスケを戻してくれた元キャプテンに頭が上がらない。新翔陽メンバーにも迷惑がかかる。……今年の県予選、翔陽は一回戦からベスト4まで勝ち上がり、そして決勝リーグで全敗した。
弟を後部座席に乗せ、運転席に着いた兄がエンジンをかける。……その前にミラーをチェック、座席を微調整、ライトを点けアクセルを踏む。「あ……」とシートベルトを装着するなり車庫を出た。天井すれすれに姿勢を正し、深夜の大通りに真新しい黒の車体を走らせた。
順調な安全運転を経て、やがて赤信号に阻まれたところで兄が事情を質した。
「まだ無茶やってたのか?」
進行方向を見据えたままの、赤の射す冷やかな目がミラーに映った。
「いや、今回は俺が何したわけじゃねぇんだ。けろっと足洗って、世話んなったのに礼がねぇとかで今更ボコリに来やがった」
否定に徹する弟は、着いた頬杖から横の窓を睨み付ける。けらけらと馬鹿笑いしながら道行く若者を、深夜の繁華街にたむろする落ちこぼれを、その重く腫れ上がった目で見つめていた。
「それと、さっき家の前で喋ってたのは?」
ふとミラー越しに窺った兄は、純平という彼の声に何かを感じていた。しかしその時点ではまだ真相を知る者はなかった。
「あいつは去年こっち越してきて、無茶し出した頃に知り合ったんだ。今日は、あいつに助けられた」
そう拳を握る弟の片頬に青の光が射す。同時に右折した車は、看板にある総合病院の矢印を辿った。ウィンカーを消し忘れたまま、先を急ぐその中で、ぼそりと発した弟の声は少しだけ素直だった。
「わりぃな兄貴」
ミラーの奥で、ハンドルを握る兄の口許が綻んだ。
――そして翌朝。
「透昨日、車の音がしたけど……」
朝食をダイニングテーブルに並べながら尋ねる母親に、すでに椅子に掛け、まるで父親のように新聞を広げた長男は一旦動作を止める。
「ああ……少し運転してみたくなって。あの時間なら車も少ないし、丁度惺も帰ってきたから、乗せてみたんだ」
新聞を広げたまま、尤もな言い分で昨夜を濁した。
「まあもう大学生だからあまりうるさく言う気はないけど、でも遅くに出掛ける時は一言言いなさいね」
そこに、なんとも冴えない顔で起きてきたのはあざも腫れも引かない次男だ。痛々しいその顔を見るなり、母の表情が一変した。
「さ…………惺なんなのその顔、もしかしてまた喧嘩!?」
長男は透かさずフォローした。
「ああ、これは違う。ドライブ先の土手で惺が落ちたんだ」
優秀な彼にしては若干無理のある嘘だが……
「落ちた? ……まあ、透が言うなら……」
真面目な兄には絶対の信頼を置く母だった。
完璧なフェイクに、兄弟はそっと視線を交わした。
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