ゆく風、くる風 7 |
「先輩……?」 静寂を解く声と共に、肩の生地を流川の右手がギュッと握り締める。 「寒みぃ……」 それは今にも泣きそうな声で、隣の肩に崩れかかった。 花形はすぐに持ってきたダウンを肩にかけ、平気か? と顔色を窺う。 しかしそれを避けるようにして、流川は下を向いたまま、隣の彼に無言で抱き付いた。背中に大きく腕を回し、胸に甘えるよう額を擦り付ける。 花形は慌てて周囲を見やるが、年末の寒い公園には遠く散歩する老夫婦のみ。微笑みを浮かべた彼は、見下ろした先の黒髪をそっと撫でた。 同時に、無表情の彼が下からゆっくりと見上げ、こう言った。 「今日、同じことして」 ぼそぼそと可愛げのない声で、冷たい風の止まないここで、え……? と聞き返す花形へ。 「セックスっしょ?」 単刀直入に、表情を崩さず淡々と言い放った。 「な…………!」 花形は忽ち顔を紅潮させ、狼狽えながらもすぐにその意思を質す。 「る……流川、意味をわかって言ってるのか?」 「たぶん」 「たぶんって」 「今日、夜して」 「流川……」 無神経とはまた違う、落ち着いて訴える後輩は実に大人びていた。だからこそ、花形は深く頭を抱えてしまったのかもしれない。普段はクソ生意気でにくたらしくて無口で無愛想で生意気で無口だとされる後輩は、誤魔化しの通じる子供ではなかったのだ。 「俺は別に、今はそんなことしなくても、こうして居られるだけで充分なんだ」 「嘘」 鋭く言い抜く大人の彼は、昨夜不吉な夢を見たばかりだった。 「夜、セックスして」 堅く揺るぎない眼差しに、花形は益々頭を抱える。小難しく顔を顰め、隣を見つめては改めて真剣に諭した。 「……なあ流川。流川はまだ一年生で、有望なバスケ選手で、何より怪我も治ってない。俺も詳しくは知らないが、知らないからこそ余計なリスクを与えたくない。初めてなら尚更、身体には相当な負担がかかるはずだ。それを流川に与えるなど、俺にはとても出来ないよ……」 辛そうに視線を外す花形の、情に満ちた彼のその手に白い左手が添えられる。傷の残る甲側を上に、流川は微かな笑みを浮かべ、そして、驚愕の事実を明かしたのだ。 「俺、明日誕生日」 「た……誕生日? 明日?」 驚きの視線を上げる花形は、黙って頷く流川の手を、触れていた左手を取りながら言った。 「明日って……元旦じゃないか。いやそれより、一日違い……?」 小さく頷く流川に補足する。 「そういえば、俺は最後の除夜の鐘で産まれたらしい。惜しかったな」 すると流川も…… 「俺も。年明けすぐ」 「え……?」 奇妙の過ぎる一致に、花形はだんだんと表情を崩していった。 「もう、するしかないのか……」 持ち上げた掌に覆う、どこか寂しげに俯く笑顔。朝食時以来のそれは、少し情けないものだった。 流川は僅かに口角を持ち上げ、すぐそこの胸に片頬を預ける。 その靡く黒髪を片頬に触れながら、撫で付けながら、花形は強く思った。 何かしら通ずる部分が多くては、少し不安になるくらいだ。もう離れることを許されないようで、まるで全てが必然であるような……。 「必然……」 突如発せられた、心の声を見透かした声に花形はハッと顔を上げる。が、まさかな……と呟き、そして、「そろそろ戻るか」と帰りを促した。 するとその声に、流川は今ビクッと頭を上げる。 「まさか、寝てた……?」 流川は目を擦りながらコクッと頷く。 「あんなに寝たのにな」 そう感心しながら、花形は黒のダウンを袖に通してやり、間もなくベンチを後にした。寄り添い歩く二人の背中を、少し柔らいだ北風がどこかへ導くように押していた。 そうして公園を抜けようと小道を進むが、この運動公園は実に広い。アスレチックもあればテニスコートもあり、少し行くとバスケのリングも見えてくる。 「あれ……?」 突如足を止め、今花形と流川が目にしたのは、この寒い中バスケで汗を流す三人の姿だった。二人は今一度顔を見合わせ、そして立ち寄ったフェンスの向こうに激しい一対二を見つめた。 「ホケツくん……?」 流川は自身の顎を摘むようにして、よりによって桜木の付けたあだ名を口にする。颯爽とボールを裁くサウスポーの彼をあだ名で覚えていたようだ。 すると、今シュートを決めた藤真もまた二人に気付く。額の汗を拭いながら、先の二人と同様の顔を見せた。 「あれ? 花形……と流川……?」 彼もまた、なぜだと言わんばかりにフェンス側へ歩み寄ってきた。 「藤真もなぜ……長谷川まで、何してんだ……?」 怪訝に覗き込む花形に、フェンスを挟む向こうからは「ちょっとな」と返す長谷川。 そしてもう一人…… 「ゲッ、兄貴……」 零れたボールを拾いながら、今漸く気付いたのはその弟だった。 「惺?」 腰のチェーンを外した彼に、ボールを持つ弟に多くの疑問を孕む兄の眼差し。 藤真は透かさず言った。 「やるな惺。これなら湘北に勝てるかもな」 何やら意味深長に、湘北の彼を横目にニヤリとけしかける。が、流川は「無理」と真顔で一蹴。 「ケッ、何が無理だよ」 偉そうな態度に苦り切る惺だが、そんな彼を藤真がまたもフォローする。 「まあわかんないよな。今年湘北がウチを破ったように、来年はウチがやるんだ。なあ惺」 そう肩を叩かれた惺に、今、確かな風が背中を押した。 「お……俺っすか?」 俺は……と、惺は忽ち視線を落とす。両手にしたボールを見つめ、一人静かに押し黙った。 ……今、惺の額には藤真らと流した汗が浮かんでいる。無邪気に熱を上げた彼の、スポーツに沸いた爽快な汗が冬の景色に光っていた。 それは二年前のあの日と同じ、兄に続くセンターを志した時と同じ輝きが宿っていた。しかし勉強をしたがらない惺は、二年前の試合を機にバスケを辞めさせられた。その最後の試合で流川と当たり完敗。それは寧ろ、辞めるにはいい機会だったのかもしれない。上には上がいると実感させられたからだ。だから、今も流川に適わないのだとしたら、藤真の言うようになるにはとても自信がない。調子よくまかせてくれなど言えるわけがなかった。 「俺は…………」 いつまでも肩を落とす落ちこぼれに、声を発したのは藤真でも長谷川でもない。兄でもない、他校の同学年だ。 「俺には無理だが、どあほうはわかんねぇ」 フェンスの向こうから、それは先のプレイを見た上でにべなく口を挟んだ。どあほう……? と問う花形に「赤いの」と流川が答えた。 「ああ桜木か。それは……うーんどうだかなぁ……」 それは藤真の言っていた、兄を吹っ飛ばしたという彼のこと。 藤真は惺の横に立つなり、今一度弁を振るわせた。 「そうだ。お前の相手は流川じゃない。桜木だ。海南は桜木相手に小細工を使ったが、うちは真っ向勝負だ。あのパワーとジャンプに太刀打ちできるのは、花形並みに背が高くて、力があって負けず嫌いで、頼もしくて勇敢で人一倍派手なやつだな」 そう、派手な金髪を前に言い切った藤真は、未だ緑の4番を捨て切れないらしい。 「やってくれるか?」 今一度、落ちこぼれの背中を風が押した。 そして太陽のような笑顔は隣から、眩しく熱く、真っ直ぐな眼差しが横から見上げていた。 惺は極小さな声で、隣の彼にしか伝わらない声で伝えた。 「……桜木だろうが流川だろうが、やってやる」 ……風が激しく吹いていた。太陽が明るく笑っていた。それは拗らせたプライドを壊すには充分な激励だった。 「惺……」 持ち上げられた藤真の手を、惺の手ががっちりと掴む。落ち始めた夕陽を前に、二人は優しい眼差しを交わし、そこに来年の翔陽を見つめ合った。 「試合も練習もしょっちゅう見に行くから、覚悟しとけよ」 |
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