ゆく風、くる風 6

途中立ち寄ったマンションで、髪がすっかり生え揃った長谷川も合流した。そこから向かった最寄りのファストフード店で、三人は各々のセットを置いたテーブル席に着いていた。
昼食時ながらあまり人の少ない二階の四人掛けテーブルで、惺と差し向かいの椅子に掛けた先輩二人は食事そっちのけで語っていた。今年の翔陽バスケ部について、話題の尽きない様子を惺はストローを咥えながら大人しく見守っていた。
「……というわけで、結局今年は全国行けなかったんだ。ああ、さすがにこれは花形に聞いて知ってるよな?」
急にふられた話題に「いえ……」とストローを離した惺は、そもそも兄との会話すらあまりない。
「そうか。もう最悪だったな。たった一戦で夏終わりだ。これならシードじゃない方がマシだったよな」
「どことやったんすか?」
漸く食い付きを見せた惺に、藤真はただ微笑んでいた。
長谷川がぼそり、「湘北」と答えた。
「湘北……?」
バスケについては中学で停止している惺に、まだ湘北という強豪チームは存在しないのだ。
「まあ、知らないのも無理ないよな。今年はそこと海南が全国行ったんだ」
「はあ、それは……」
残念ですね、とばかりに、他人事のように口を濁す惺へ、藤真がその原因を明かす。
「あっちは一年にすごいのがいるんだ。ほら、ウチは部員は多いのに、実力はまあ……いやそこは、俺の力不足だけどな」
監督としてキャプテンとして、二足の草鞋を担った彼は微かな遠目を放って言った。
「何言ってんすか藤真先輩、大丈夫っすよ」
ドリンクを置き、透かさずフォローを入れる惺だが、何の根拠もない台詞には自ら言葉をしまう。
「まあ、もう終わったことだろう」
続く長谷川の言葉で藤真は顔を上げた。そして正面の金髪の男に、組んだ手に顎を乗せて尋ねた。
「そういや、惺はいつからボール触ってないんだ?」
「ああ、俺は……中二から」
すると藤真は思い出したように、一変して意気揚々と力説し出した。
「さっき、その予選で負けた湘北にすごいのがいるって言ったろ? そいつ、まだその時点でバスケ三ヶ月だったんだ。なのに俺たちを負かして、そして山王も破ったんだぜ?」
「山王を……?」
口を開いたまま唖然と目を剥く惺は、さすがにその名は知っているようだ。いや、バスケをやっていて知らないはずがなかった。
「花形はそいつのダンクに吹っ飛ばされたんだ」
「あ、兄貴が…………!?」
続く長谷川の言葉に惺はとうとう息を呑む。そして静かに握り締める拳を、藤真の目はしかと捉えていた。
「もしかしたらだが、来年あいつは赤木の後、センターを務めるかもしれない」
長谷川の憶測に、藤真は待っていたとばかりに、「そこなんだ」と再び熱く語り出した。
「ウチが次に湘北と当たったら、現時点で花形以外のセンターで太刀打ち出来るやつはいない。来年いい一年が入ってくれでもしない限り、ウチに勝ち目はないだろうな」
センター――。それは以前、惺が兄の後を追うように腕を磨いていたポジションだった。
トレーに視線を落とし、一人考え込む惺を前に藤真は続ける。
「それにそいつだけじゃない。あの流川って聞いたことあるだろ? よりによってあいつも湘北ときたから、参っちまうよな」
「あの実力を以ってなぜ湘北に行ったか……あれはまさに謎だな。それを言ったら三井もだが」
二人が口を揃えて讃える湘北と、その流川。高校でもその名を轟かす、兄を負かしたチームに属する彼と、今朝朝食を共にした惺は忽ち頭を抱え込んだ。
「アイツがなんで、ウチにいたんだ……?」
そう疑問を零す惺に、藤真は下から覗き込むようにして問いかける。というより、藤真の答えに引っ張り込む。
「で、惺はもうバスケやる気ないのか?」
ほぼ手を付けていないセットを前に、まだ一年生の彼の真意を窺った。
「俺は………………」
そう呟いたきり、じっと口を噤む後輩へ。
「桜木が三ヶ月でどうにかなったなら、お前のブランクも来年のインターハイ予選には埋められると信じてる」
元キャプテンの強い確信に、無言の惺がゆっくりと顔を上げれば、そこには来年を見据える藤真監督の目があった。今年果たせなかった翔陽の想いを、いっぱいに孕んだ鋭い眼差しが間近に訴えかけていた。
しかし、惺はすぐに顔を背けた。
「暫くやってないんで、俺にはもう……」
もうバスケは無縁だと、素っ気ない顔が拒んでいた。
すると藤真は、まるで弟を諭す兄のように、宥めるように、勇気付けるようにこやかに語りかけた。
「俺は、お前の実力を知ってる。だから言ってるんだ。……というより、本当は俺の我侭だけどな。来年はなんとしてでもインターハイに行ってほしいんだ。今年行けなかった理由を、ウチにちゃんとした監督がいたならとか言われたくない。言い訳だろ? そんなの」
藤真は着いた頬杖からもう一つ尋ねる。
「惺はさ、バスケしたくてウズウズすることないか?」
「…………」
「俺引退したばかりなのに、未だに先輩面して体育館覗いて、勿論それだけに留まらないな」
ニヤリと隣を見やる藤真に、長谷川も同じ笑みで同調した。
「まずボールを持たない日はない。そしたらシュートしない日もない、ゲームしない日もないが掃除はまかせる。……まあ、二年からしたらいい迷惑だな」
ペットボトルを打ち付けての応援、尻を叩いて育む闘魂、そして心底信頼する仲間とのプレイが、二人の身に染み付いて離れないようだ。
「惺は忘れてるだけだ」
「身体は覚えてるもんだ」
何やらニヤつく二人の先輩に、「え……?」と不審がる惺。
「忘れてるなら、思い出すまでだな」
彼らは程なく、惺を連れ出していった。

 

――一方。花形と流川は広い運動公園の端のベンチに並んで掛けていた。
水のない噴水を前に、人も僅かなら比較的静かなそこで、更なる静寂を漂わせていた。
「言って……?」
流川が隣を見上げ、先の真相を質す。
花形はどこか惺りきったように、前屈みに前方を見つめたまま、重い口を開いた。
「まあ、俺も男だったんだ……。受験だからってわけで、とりあえずで一月だけ、家庭教師を頼んだ。若い女の先生だった。バスケで空いた勉強の穴を埋めるよう母親が頼んだんだ。わかりやすく教えてくれるし、別にこれと言って嫌なとこはなかったんだが……」
そこまで言うと、彼は一旦隣を見やる。
「もっと聞きたいか?」
黙って頷く流川に、俯く花形は額を深く押さえ込み、少しの時間考え込む。やがて深い溜息を置くなり、事の成り行きを恐る恐る口にした。
「その日は親がいなくて、ただ与えられた課題をこなしてたんだが、途中で、隣の部屋から昨日の声が聞こえた。気まずいと思いながらも無視してたが、どういうわけか手を握られ、持っていかれて、気付けば胸に触れてた」
台詞の節々に重い間を置き、さも辛そうに語っていたが、最後はやや投げやりに、力なく笑ってすらいた。
流川は尋ねた。
「嫌だった?」
「ああ」
「じゃあ殴れば?」
真顔で咎める流川に、顔を上げた花形は厳たる表情を崩さない。
「暴力はできないが、頭では酷く恨んだよ。教え子にそんなことする彼女もだが、問題は、そこで逃げようともしなかった俺自身だ」
無言の隣を窺うことなく、花形は続けた。
「不思議なもので、こればかりは俺も男なんだって実感したよ。押し倒されて目の前で脱がれて、上に乗られれば後はされるがままだ。いくら心が拒んでも身体はそうじゃないんだ。気付けば、最後までしてた」
流川との恋愛関係にある以前に、歴とした男である彼の告白には矛盾がなかった。その現実に、流川は何も言わず俯いた。
今朝の惺の台詞、昨夜に続く花形の態度で、彼は大方察していたのだろう。
すると、花形が初めてその想いを口にした。
「俺は流川の気持ちはわからないが、自分と同じだと勝手に信じてる」
その曖昧な今の台詞が、実は彼等にとって初めての告白だった。しかしながら、そこに特別を意識した趣はない。どこか必然に近い形で通じ合った彼等に、明確な言葉は要らなかったのかもしれない。
「もし流川が自分と同じことをしたなら、俺はきっと、流川を信用できなくなる。なのに俺は、流川を手放したくないと思ってる。……最低だな」
最低な想いを淡々と明かす彼は、嘆きを超え寧ろ清々しく言い放っていた。まるで別れを覚悟したその態度に、秋風が立たぬばかりの空気に、流川はキッと睨め付けた。そして、悲しそうに顔を歪めた。
隣の大きな手を取るなり、流川は絶えそうにない疑問をぶつけた。
「先輩からした?」
「それはない。断じてない」
きっぱり否定する彼に流川はもう一つ……
「良かった?」
寝坊助の彼は常に眠いのか、まるで子供のように、手だけはいつも熱いくらいの温度を放つ。クールな外見に似合わない、その甘えた熱が今、そっと離れていった。
「良くは、ないよ」
ぼそりと呟く花形の声。それを最後に、冬の息吹が二人の会話を吹き消した。





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