ゆく風、くる風 5

流川が部屋に戻ると、奥の窓から外を見つめる花形の背中があった。先輩、とその背中に歩み寄れば、肩口から覗くその視線の先には、道路を行く弟の背中があった。
「ああやって、いつも遊び歩いてるんだ。このままじゃきっと留年だな。出席日数がもう、足りてないはずだ」
こうして今日も、彼は深く思い詰める眼差しを落としている。
流川は何も言わずそこを離れ、後ろのベッドの縁に腰掛けた。後頭部で手を組み、そのまま後ろのシーツに寝転ぶと、仰いだ天井に冷めた視線を放った。そして、隣に腰を下ろす彼の、優しく触れようとするその手を拒んだ。
え……? と驚く顔に、じっと眼鏡の奥を見据える瞳。流川は寝転がったまま、今朝の会話を質した。
「先輩ここで、何かあった……?」
「……ああ、それか。それは……」
わかりやすく言葉に詰まる花形がいた。
『ビックリしたなぁあん時は。真面目に勉強してんのかと思ってたら、隣からあんな声聞こえてくんだもんな』
今朝弟が漏らした秘密を流川は忘れていなかったのだ。
「女?」
一点を貫く尋問に、花形は気まずそうに顔を背け明瞭な影を落とす。そのまますっかり押し黙る姿は実に明確だが、上体を起こした流川はそれを下から覗き込むようにして、陰る片頬にキスをした。持ち上がった顔に慰めの言葉を送った。
「別にいい。昔は気にしねぇ」
「流川…………」
しかしその寛容な応えに対し、花形は益々顔を背けるから流川も顔を苦らせていた。どうせ昔のこと、気にするほど小さな器でもねぇ、とばかりに見せた優しさは間違いだったのか。
流川が地味にたじろいでいると、持ち上がった花形の顔はやけに神妙だった。それは妙な涼しさを保ちながら、遂に白状したのだった。
「国大の後でもか?」
「………………」
流川の目は色を失った。開いたままの唇は何故? の一言すら発せられず、そのまま徐々に俯いていった。
目の前の海が一瞬にして一面の赤に染まる。入院中、せめて変わらないでと願った思いは無残にも打ち砕かれてしまった。
やるせなく支えた手で、昨日から可愛がられた髪を引き抜くように掴むがそこに意味はない。偏に殴ってしまえばいいというのも少し違っていた。……なぜ、どうして国体の後なのか。こんな時何と問い詰めるべきかもわからないほど、流川は酷く混乱していた。だから黙ってベッドを立つなり、流川は部屋を出ていった。
「流川…………」
花形はすぐさま立ち上がり、不信感に沈む背中を追う。
「流川待つんだ」
隅のハンガーから慌てて黒のダウンを外し取り、直ちに部屋を飛び出していった。

この辺の土地勘のない流川にはすぐに追い付いた。道路沿いの広い歩道、住宅街を抜けてすぐの大通りへ向かう、見渡しの良い一本道に白いパーカーを着た彼はいた。
しかし「流川……」と後ろから手を取ろうとすれば、逆の手で庇うようにその手を引っ込める。花形が慌てて手を離せば、まだ傷の残る甲側が覗いた。
「ああ、ごめん……」
俯く先のコンクリートに彼は視線を落とすが、すぐに持ち上げ、黒のダウンを差し出す。
「流川上着……」
それすら「いい」と受け取らない流川に、花形はただただ黙って付き添った。車の行き交う車道を横に、会話もなく専ら歩道を進んだ。地面に朽ちた、疾うに紅を失った冬紅葉を踏みしめながら無言の散歩を続けた。
そこに、突如つむじ風が巻き上がる。先の枯葉を乗せるなり、それは氷の突風と化し二人の間を吹き抜けた。まるで仲を引き裂くような、切れ味の良い俊速の風が二人の距離を押し広げた。
間隔をそのまま、ティー字路に当たった行き止まりにて、ふと足を止めた漸く流川が口を開く。
「言い訳、聞いてやる」
外方向き不貞腐れたまま、流川は後ろに続く彼にぼそりと告げた。透かさず隣に駆け寄った花形は、白い背中の生地をしっかりと握り締めた。
「少し行ったところに公園があるんだ」
そう先を促して、二人は風にさらわれないよう、固く寄り添って歩いた。

――その頃、弟惺は今日も汚らしく路上にしゃがみ込んでいた。ただ何をするでもなく、空き缶を片手にぼんやりと人の往来を眺めていた。
正月も仕事に暮れる社会人に憐れみの目を向けるが、彼等もまた、路上の落ちこぼれに同じ視線を落としていく。冷ややかに蔑む目で、それでなくとも長身で目立つ彼を絶えず上から憐れんでいる。まるで、今日の風のように。枯れた木々をもいびる冷たさが、その目の輝きまで枯らしていた。
すると今、遠くからそこを射すは煌めく太陽の眼差しだった。顔を上げる惺の許へ、それはにこやかに歩み寄ってきた。
「惺じゃないか」
それは今日も、栗毛色の髪を風にそよめかせていた。
「あ…………。藤真先輩……」
急な鉢合わせに、惺は気まずそうに視線を逸らす。
彼が中学一年の時も藤真はキャプテンであったこと。そして、藤真が誘った高校での部活はさぼりっ放しであったこと。惺にはとても合わせる顔などないのだ。しかし……
「久しぶりだな。また背ー伸びたか? 何してんだこんなとこで?」
それは路上の落ちこぼれにも暖かく微笑みかけてくる。
「いや……。先輩こそこんな日に……」
「ああ、親戚やらなんやらで面倒になって出てきたんだ。花形んちは?」
「あ、親だけ本家行ってます」
そっか……と、藤真は少し考え込むなり、黙って惺の手を取った。
「な……なんすか?」
「暇ならちょっと飯付き合えよ。奢ってやるから」
は……? と戸惑う惺の手を引き、「キャプテン命令だ」と小鼻を蠢かす彼は、今も尚現役のキャプテンであるかのように、元は素直なその後輩を強引に連れ去っていった。





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