ゆく風、くる風 4


眩い日光を受け、険しく引き攣っていた寝顔が今カッと目を見開く。勢いよく上体を起こすなり、流川はカーテンの開いた無人の部屋を、無人の隣をぼんやり見下ろし、そこで大きく呼吸を整えた。振り向いた先の目覚ましに朝の十時を確認し、『3年4組花形 透』のまま彼は部屋を出て行った。
そしてガチャガチャと音の聞こえる一階のダイニングを覗き込むと、奥のキッチンに大きな背中を見つけた。
「やっと起きたな」
振り向いた眼鏡の彼が、サラダを盛った皿を手にしていた。
「先輩作ったの?」
「ああ、まあ少しな。ほとんど親の作り置きだ」
数種のサンドイッチにコーンスープが乗るテーブルを前に、花形は手前の椅子を一つ引き、「こっち」と席を促す。その斜め前の椅子に彼も腰を下ろした。
「そういや流川も料理するのか?」
「しねぇ」
「普段どうしてるの? 確か一人って……」
それは先日明かされた流川の家庭事情を尋ねていて、早速サンドイッチを手にした流川が応えた。
「パンか弁当食ってる。お袋もちょくちょく帰ってくっからヘーキ」
掃除や洗濯はその時まとめてやってもらっていると、囁かな朝食が始まったところで、そこに階段を降りてきた昨夜の弟が中を覗き込んだ。
「兄貴俺のも用意しといて」
廊下側の入り口から、言ってまずはトイレへ向かったようだ。
急な邪魔者の登場で不機嫌になる流川だが、何も知らない弟はすぐに戻ってきた。兄譲りの長身を着古したスウェットに包み、寝癖だらけの金髪を掻き乱しながら、何の躊躇いもなく流川と差し向かいの席に着いた。
兄は弟の分のスープとサラダを差し出し、そして質す。
「お前彼女はどうした?」
それは昨日、隣の部屋に確かにいたはず。惺は早速カップスープを手にしながら……
「ああ、した後コイツのこと聞かれたから頭きて帰した」
そう朝に相応しくない台詞を吐き、傾けたカップの向こうのコイツをじろじろと睨んでいる。
気付いた花形が「流川だ」とだけ紹介すると、惺は忽ちカップを置いた。
「え……? 流川? 流川ってあの、富ヶ丘の?」
「ああそうだ」
わかりやすい一驚を上げる惺は、富ヶ丘中の流川を知っているらしい。大きく身を乗り出し、向かいの流川をまじまじと見つめながら今のこの現状を質した。
「へー、あの流川。それがなんでウチにいんの?」
初対面の相手に対する失礼極まりない態度に、テメェには関係ねぇと言わんばかりの目がギロリと睨めつける。
それをまた、惺が嘲笑う。
「はは、噂通りじゃん。まじで無口だ」
ニヤニヤと小馬鹿にした口振りに、流川は呆れ顏で視線を逸らした。
「そういや、兄貴が部屋に人呼ぶのってあれ以来じゃね?」
そう続いた惺の言葉に、今度は花形がカッと目を剥いた。
「ビックリしたなぁあん時は。真面目に勉強してんのかと思ってたら、隣からあんな声聞こえてくんだもんな」
何やらけしかける嘲笑に、花形の顔から表情が消えた。食事にある手をぴたりと止め、そして、退去を促した。
「流川とは話があるんだ。お前は二階へ上がってくれ」
いつもの穏やかさが失せた冷ややかな目に、弟は苦々しく不満を吐く。
「えーなんでめんどくせぇ」
その更なる悪態は、押し黙る眼鏡の奥から強く跳ね返された。
「けっ、つまんねぇ」
捨て台詞を吐いた惺は漸く席を立った。が……
「あ、そうだ」
それは思い出したように、何やらポケットをガサゴソ、取り出したそれを兄へ差し出したのだ。
「兄貴コレ」
……と、手渡されたのは剥き出しの腕時計だった。呆然と見つめる兄へ、真新しいそれはぶっきらぼうに贈られた。
「今日誕生日だろ?」
言ってはすぐに返す背中を、花形は咄嗟に呼び止める。
「誕生日ってお前、昨日金がないと……」
「それ買ったらなくなったの」
「そうか、それは………」
台詞の尽きた兄を背に、弟は大人しく二階へ上がって行った。よって二人の朝食が戻ったが、花形兄弟による一連のやり取りは見事、黙って食事につく流川を置いてけぼりにした。
弟惺は、流川の知らない兄透を少しばかり零してくれた。まず一つ目……
「先輩今日……」
「ん?」
「誕生日?」
「ああ。大晦日生まれなんて、ふざけてるよな」
妙な空気に包まれていたそこに漸く笑顔が戻る。が、「聞いてねぇ」と呟く彼は素っ気なかった。
「まあ、言ってはいないな」
「俺も何か買う」
すっかり頬杖を着き、ぶすっと不貞腐れる流川はそれなりに不満を溜めたようだ。
しかし対する花形は、今日も穏やかな微笑を浮かべた。
「それはいらないよ。というより……いらないよ」
そう言って、席を立ちつつ食器を片し始める背中を流川は今も訝っている。

朝食後のシャワーの後、流川が部屋へ戻るところだった。脱いだ3年4組を手に、髪を拭いつつ階段を踏み出したそこで、今降りてこようとする惺と折しも鉢合わせた。
流川は一瞥したまで、無言で階段を上がろうとするが、惺の声が憚る。
「あんた兄貴と友達なの?」
すれ違ってすぐの段で立ち止まり、流川は後ろを振り返った。馴れ馴れしく呼びかける、ちゃらちゃらと着飾った背中に冷ややかな視線を射した。
「まあいいけどさ。兄貴が家に人呼ぶなんて珍しいからよ」
そう調子よく振り返ったのは、やはり弟であることを否めない、浅く涼しい二重瞼だ。
流川はぱっと背中を向け、すぐにもそこを去ろうとするが……
「あんた今もバスケすげぇの?」
無視の通じない相手に、ハァ、とオーバーな溜息を一つ、いい加減にそこを立ち去っていった。
「……ま、何でもねぇよ」
そう捨て台詞を吐く惺もまた、涼しい溜息を吐いた。ガシガシと後頭部を掻き、階段を降りた先の玄関で受話器を取った。
「純平か? 俺。今日何してんだ?」
「は? オメェに用事なんてあるかよ」
受話器を置いた彼は玄関を出て行った。
住宅地を渡る小道の中央を、ポケットに手を突っ込み蟹股に歩く花形惺。白一面の冬空の下、ジャラジャラと腰のチェーンを鳴らしながら、ガムをくちゃくちゃ噛みながら、吹き上がった辻風にふと、立ち止まった。
冬を息吹く空っ風が辺りのゴミや塵も巻き付け、年末の今日もぶらつく彼へ真正面から吹き付けた。ただただ暇を持て余す彼へ、もとは素直な愚かな彼へ。勢いよくぶつかっては、腕を翳すだけの軟弱なブロックをまるで嘲笑っていた。
――それは、彼が中学二年の頃だった。富ヶ丘中対三島中。その試合で、惺は流川と戦っていた。お互い三年揃いのスタメン中、唯一の二年として出場した惺は当然のように流川をライバル視、敵意剥き出しで勝負に挑んだ。
しかし兄譲りの長身は見事に封じ込まれ、得意としていたブロックも容易く躱されてしまう。すでに頭角を現していた彼に、すでに完成されたダンクを目の前に、惺は大人しく完敗を受け入れた。そして、バスケを辞めた。
「覚えてねぇってか」
見上げた空に、惺は清々しく微笑みながら賑わう街へ繰り出していった。





戻3 | 4 | 5次