今ドアを閉めたばかりの、風呂上がりの花形の前へ流川は透かさず歩み寄る。取った腕を自らの腰へと引き寄せ、下から不意打ちを仕掛ける彼には早くも腕が回っていた。
甘い口付けを交わしながら、少し強引に行き着いたベッドはすぐそこに、花形がその頭を守りながら、覆い被さるようにゆっくりと寝かせた。僅か数秒のうちに、夕食を終えた水槽は艶やかなネオンと化していた。
明るベッドの中央で、上からそっと黒髪を撫でれば同じシャンプーの香りが微かに漂う。額を覗くよう前髪を梳けば、3年4組を纏う彼は少し幼く見えた。じっと見上げる鋭い瞳に、胸を塞ぐ物憂いの目が上から映り込んでいた。
「流川……」
花形はその背中へ腕を回し、ジャージの彼を慎重に抱き起こす。そしてあの日と同じように、後ろから流川の背中を抱くように座る。ジャージの襟からうっすらと覗くうなじを目の前に、その白肌に小さく口付け、前の腹部へ腕を回した。襟足の辺りを舌先で突つけば、それは咄嗟にビクッと仰け反り、後ろの肩へ凭れかかる。間もなく向き合ったそこには熱く激しいキスが待っていた。
……その時だった。
「……あっ、やんっっ!」
突如響いた甲高い声は実に明解なオンナの声だ。男女の集う隣の部屋から、わかりやすい始まりの合図に、次いで生じた気まずい空気に忽ち二人のキスは止んだ。
花形は申し訳なさそうにして、「たまに、あるんだ……」と俯く。
流川はベッドを立つなり、テレビ横のラジカセの前に、静止状態にある数曲目を無言で再生した。
「これなら平気」
振り返りざまに言って、彼はベッドへ戻ると我が物顔で先の位置に納まった。両腕の囲うその中で、少し憂鬱な旋律を共有した。
「これ好きなの?」
そう振り向いた流川に、「最近な」と軽いキス。そのままキスを深めれば、すでに隣の声など関係ないようだ。
戯れる唇から徐々に水音が跳ね、離れた後で、フゥと漏れ出た甘い溜息すら共有する。そんなキスを繰り返した後、悩ましく眉間を寄せる流川を抱いたまま、後ろから、呼吸に微熱を残したまま囁いた。
「この曲に出てくる単語はほぼ地名なんだ。そしてこのlowは低気圧を意味する。あっちでは低気圧の齎す災害が多くて、その辺を比喩しているらしい」
うなじから直に耳奥へ、静かな声音が淡々と吹き込めば、流川の瞳は淡く蕩めく。
「先輩……」
惚然と身を捩りながら振り向くなり、流川は色めく吐息で迫った。自然と取り合った指はそのまま重なり、絡み付く合間にも忙しく抱き合う。視線の合う直前のキス、そして直後のキスは貪るよう、上と下の口唇を互いに愛撫する。静かな旋律の流れる絶えない衣擦れの中で、ジャージの彼は不思議な色気を醸していた。まるで情欲を知る大人のような、それでいて、悪戯を好む子供のような……
「流川……?」
今、花形のソレに右手が黙って触れていた。慌てて見下ろす彼のソレを、スウェット越しにゆっくりと摩り上げていた。
同時に、サラサラと張りのある黒髪を愛でるよう、差し込むように触れる花形の手は何より優しく、落ち着いた大人の微笑は、子供の可愛い悪戯を存分に受け入れていた。頬を預ける後輩を胸に、彼はその髪に何度もキスを落とした。
するとまた………
「んっ、はぁあん」
隣では二回戦が開始されたらしい。
流川は何食わぬ顔で触れ続けるが、今どういうわけか、その手は何の前触れもなく捕らわれてしまう。咄嗟に顔を上げる流川の手首を、花形が拒絶するべく掴んでいたのだ。
「ゴメン……」
花形が顔を背けて言った。
果たしてそれは何を意味するのか、流川は疑問いっぱいの顔で覗き込むが、花形はその視線からも逃れるよう益々俯く。
「先輩……?」
案ずる呼び掛けに返事はなく、顔を顰めた流川はとうとうその場を離れていった。先を拒む彼を背に、少し距離を置いたそこでハァ、と苦り切った息を落とした。
「すまない流川……今日は、何だか落ち着かない」
漸く口が開いたのは、流川の背後で重く項垂れたままの彼から。振り向く流川に、顔を上げながらその理由を明かした。
「決して流川が嫌なわけじゃない。……そうだな、少し疲れてる」
流川はそろそろと近寄り、「……じゃあ、寝る?」と、ベッドの上で四つん這いに小首を傾げる。
まるで猫のようなその仕草には、花形の屈託も徐々に消え去った。
「そうだな。おいで」
眼鏡を外した彼の隣に横たわり、流川はその長い腕にぎこちなく頭を乗せた。肩にそっと布団が掛けられ、リモコンで照明が消えると、隣の部屋も静かな今は水槽の明かりのみとなった。
その始終を肩越しに、足下から青く照らす、その端正な目元を、眼鏡のない素顔を見つめていた流川はふと問い掛ける。
「眼鏡、いつから?」
「小五かな? そこまで悪いわけじゃないが、今はもう身体の一部だ」
そう、裸眼の彼が隣に首を向け、静かなピロートークに応じた。
流川はその目を執拗に見つめながら、興味あり気にひたすら疑問をぶつけた。
「今見えてる?」
「ああ、少しぼやける程度だ」
「なくても平気?」
「まあ平気と言えば平気だが、ないと少し……怖いかな」
「怖い?」
「ああ。視界が悪くなると、平静を失う気がする。確かあの時もそうだった」
小さく笑った花形は口許に微苦笑を乗せたまま、語り出したのはいつかの試合だった。
「湘北戦の時だよ。最後、うっかり涙した。雰囲気に呑まれたのもあるが、やはり情が昂ったよ。もちろん悔しかったけど、でも泣くつもりはなかったんだ」
照れくさそうに告げる元副キャプテンに、涙したその目許にすっと指先が伸びた。
「あん時の怪我は? もう治った?」
その試合で裸眼を強いられた、桜木の肘打ちを受けた目許を湘北の彼が優しく触れる。花形がその手を取り、平気だと返すと、流川は極僅かな微笑を暗闇に、やがて仄めく青にその目を閉じた。厚い腕の上で眠りに就いたのだ。
「流川……?」
腕の内に安らぐ寝息は、あどけない天使の寝顔から。花形は首を向けたまま静かに見つめる。
閉じた瞳に倣う睫毛が、その漆黒の線が肌の白さをより際立たせ、彼特有の静寂の美を、それでいて情熱の潜む端正な素顔を間近に眺めた。ありありと裸眼に魅せられた彼は、今大きく一呼吸、隣の頭を撫で、そして、小声で囁いた。
「流川、ゴメン……」
するとその声は、穏やかな波を通して今海底に沈みゆく彼の元へと届けられる。
水流にゆったりと寝そべり、茫然と水面を見つめる流川は、そこに柔らかな光が射すのをじっと待っていた。しかし今、天から零れた一滴は光ではない。澄んだ青に滲むよう、波打つ水面は赤く濁り、やがて痛々しい色に染まる。忽ち彼の寝顔が歪んだ。
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