眠れぬ森 5

最初に電話を取った母親が、シルクのパジャマを纏い浴室から出て来て、玄関で依然として受話器を持つ息子を不思議そうに見つめていた。見上げた壁時計は十時半を指すが、彼女は呆れ顔を一つ浮かべるまで、そのまま奥の寝室へ姿を消した。久々の二人の時間は、まだ少しの間許されるらしい。
「あとプレイヤー壊れた」
流川がいつになく会話を、声を発し続けていた。
「まさか、事故で?」
「そう」
「そっか……じゃあCDじゃなくてそっちがよかったな」
そこまで聞いた流川は、思い立ったようにパッと上体を起こし、遅まきながら尤もな疑問をぶつけた。
「病院、なんでわかったの?」
それを聞いた花形もまた、あの日のことを思い出したようだ。
「ああ、それなんだが、水戸くんって人に流川からも礼言っといてくれないか? わざわざ病院まで乗せてってくれたんだ」
「水戸……?」
流川は指を顎に当てると、入院生活でだらけた脳を活性化させる。
「ああ、あれ……」
それは桜木を取り巻く中の一人へどうにか行き着いたようだ。
「すごく親切にしてくれたよ。偏見を持ってしまったのを詫びたいくらいだ。だから、会ったら一言お礼言っといて欲しい」
流川は一瞬、面倒臭そうに顔を苦らせたものの、その人の言い付けには素直に頷いた。
「わかった」
「頼んだよ。それじゃあ、また試合の時……」
そうおやすみを告げた花形から受話器が離されようとするが……
「あ、まだ」
慌てて発した声がその手を止めた。
「ん? どうした?」
流川は横向きに、枕に片頬を埋め、すっかりしょぼくれた顔で囁いた。
「まだ。寝さして」
「寝させる?」
「俺が寝るまで待ってて」
凄然な声音を保っての我侭には、賢い花形も若干困惑の様子だ。
「というと、つまりこのままってこと?」
「……ダメ?」
続く無愛想な後輩の、甘えて不貞腐れた声は花形の口角を持ち上げた。
「わかったよ」
彼は今宵、後輩を存分に甘やかした。

 

――翌朝。無言の子機がコトッと床に落ち、流川は目を覚ました。
カーテンを遮る日光に、彼は気怠そうに目を擦り、上体を起こしてそれを拾い上げる。そのまま部屋を出て、やがて戻ってきた彼はカーテンを開け、一週間ぶりの学ランに袖を通した。玄関を出て、修理の済んだ自転者に跨った彼は今日、なんと居眠り一切なしでの登校を果たしたのだ。
授業中はやや居眠りをしたが、その日の放課後、一番乗りで一人体育館に立った彼は静かなリングを見つめる。退院はしたものの、左手はまだボールを持つことも許されない。部活には来たが、しばらくは右手だけでボールの感触を覚えておくに留まる。
まだ誰も居ないそこで、彼は軽いドリブルを弾ませ、右手のみでシュートを放った。窓からの斜光を返すリングの奥へ、姿勢良く放たれたボールは虚しく弾かれてしまった。
そこに、出入り口からひょっこり顔を出したのは部員ではない。
「あ、流川来てんじゃん」
声に振り向いた流川は、昨日電話で言われたことを思い出したようだ。早速出入り口へと歩み寄り、「水戸………」とても礼を言う態度ではないながらしっかり彼を呼び止めた。
洋平は珍しく名前を呼ぶ流川を不思議そうに見上げた後で、まだ完治にない左手に目をやる。
「まだ部活はできねんだな」
流川は無言で頷き、そして彼なりの礼を告げた。
「翔陽の人が世話んなったって……」
「ああ、あの人ね」
洋平はそんな流川を尚怪訝に見上げていた。顎を指で支え小難しく顔を顰めてから、ニッコリと真意を質した。
「言われたの? 礼言えって」
すっかり悟られた流川は気まずそうに視線を外す。
「はは、まるで流川の兄貴みてぇだったな」
根はいい子だと聞いた彼に、洋平は続けた。
「仲良くしな。あんたのためにわざわざ翔陽から来たんだぜ?」
「………」
「野郎のためにそこまですんだから、狙われてっぞきっと」
ニヤリと言い得た洋平に、流川はますます視線を逸らした。
そこに「チュース!」の声が洋平の背後から、湘北メンバーが揃い出した。
「あ、流川! 戻ったんだな」
嬉々として呼びかける安田、潮崎が現れると、洋平は踵を返す。
「はは、冗談だ流川。じゃぁ俺バイトだから、手ー大事にしな」
洋平は片手を上げ、体育館を去っていった。





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