闇を色濃く吸い込んだ窓に、大量の雨が激しく叩きつけられる。叩きつけられては流れゆく一連の水音は、バスケどころか洋楽とも切り離されてしまった彼の耳を癒してくれる。
真っ暗なベッドの上で、すでに仕切りカーテンを引いた中で、流川はうつ伏せに横たわっていた。小さな簡易ライトの照らす手許には、今日彼がここに来た証が、一枚のCDジャケットがぼんやりと明かりに浮かんでいた。
海へダイブする瞬間の足のみが写った滑稽な図柄だ。試聴こそ出来ないが、彼は裏面から曲順まで、アルファベットの羅列までどこまでも見つめていた。
やがてそれを手にしたまま、彼はジャケット同様、海の中へダイブするよう枕に顔を埋める。深い眠りの淵へと落ちていけば、そこに安らかな寝息が響き渡る。
しかし、落ちた先は海ではなかった。
……二人は今、深い森の奥にいた。流川は何やら塔のような、古い西洋風の石垣の空間に閉じ込められている。唯一外を見渡せる穴からはしとしと降り続ける雨と、やはり緑一色の森が延々と広がっていた。彼はそこから手を伸ばし、漂う霧の冷気に触れては「また……」と肩を落としてぼやく。それは先日の夢と同じ、あの不思議の森の中だった。
しかし今日は塔の中にいて、下の方からは何やら奇妙な物音が響いてくる。流川は穴から身を乗り出し、音のするその下の方を覗き込んでみた。
そこには確かに誰かがいた。奇妙な物音も間違いなくその人物によるもの。ブチブチと何かを引き千切るような音と共に、下で人影が蠢いている。しかし塔に巻き付く太い蔓に遮られ、そこで誰が何をしているのかはわからなかった。
「変な夢」
流川はすっかり呆れていた。
一方、花形は今、目の前にある塔のその扉を開けるのに必死だった。緑に囲われたそこは幾重にも蔓が絡まり、奥の扉に触れることを許さない。蔓は切っても折っても減る気配がなく、正に無駄な労を費やしているが、彼はその手を休めなかった。
ブチブチと先程の奇妙な音を立て、腕には無数の切り傷を作り専ら引き千切る。止まない氷雨に全身を濡らし、掴み取った一本一本を確実に裂いていった。
そして苦労の末、漸く奥の扉に手が届いた。が…………
「なに……?」
彼は愕然と、暫しその場で色を失った。
そのレンズに映る扉の前に、『面 会 謝 絶』の文字が掲げられていたのだ。
「またか……」
彼はがっくり項垂れ、ぼやきに似た溜め息を吐くと、とうとう踵を返した。そのまま雨に打たれながら、今日も深緑の中へ去って行った。
そしてその濡れた背中を今、流川が見つけたところだった。
「先輩…………!」
そう手を差し伸べ、先の穴から発した声は今日も酷く掠れている。何よりそれは、寧ろ掻き消すほどに一層降り続く雨の中で届くはずがなかった。
「待って……」
指先に乗る小さな背中へ、流川は身を乗り出し縋るような声を出すが、それもすぐ雨に埋もる。溶ける水彩のように緑が歪み、無言の背中は森の奥へと消えていった。
振り返った流川は、「クソッ」と後ろの壁を叩き、力なくその場にへたり込む。深く頭を抱え、夢の中をいいことに零した切ない泣き言……。
「声……わかんねぇ……」
それから三日後だった。病院から自宅に帰った流川は今、子機を片手に自室の前に立ったところ。ドアを開け、パチッと明かりを点ければ、そこには小綺麗に整頓された彼の城が広がっていた。
彼は真っ直ぐ机の前に立った。机の上の、デスクマットに挟んだ忘れ物をやっと手にしたのだ。
カーテンを閉め、左手を気遣うようゆっくりとベッドへ横たわり、肘を着きうつ伏せになる。そして手にした忘れ物の、記された番号を子機に打ち込んだ。
「もしもし花形でございます」
数回の呼び出し音の後に聞いた声はあの母親のものだった。今日の流川は慌てることなく、「透さん、お願いします」その名を口にした。そして、漸くその声を聞くに至った。
「流川か?」
流川は耳を当てたまま、そのまま少しの間目を閉じていた。
「ん? 流川じゃない……?」
「あ、先輩」
「ああ、よかった。まずは名を名乗れと言ったろ?」
あ……と発した受話器の向こうで、玄関前にて母親と入れ替わった花形が静かに微笑んでいた。
「退院したのか?」
「した」
「心配したんだ。電話しても誰も出ないから。流川の親は何してるんだ?」
「オヤジの単身赴任にお袋ついてってる」
「え……? じゃあ兄弟は?」
「俺一人」
いつもの素っ気無い返事に、花形は暫し考え込んだ。
「……ということは、流川普段から一人?」
「そう」
「まさか今も? 手怪我したばかりなのに、平気なのか? ご飯は?」
動揺を隠しきれない様子だが、「もう食った。お袋今日はいる」の返事で安堵を取り戻す。
「もし一人が大変な時は、うちに来たらいいよ」
流川は受話器を耳に当てたままだらりと仰向けに寝返り、一呼吸を置いてから、「行く……」仰ぐ天井に、遠く電話の向こうを眺めていた。そして、なんとも情けない声で呼びかけた。
「先輩……」
「ん?」
「会ってくんねぇの?」
そう強気に発した受話器が、花形の大きな手から滑り落ちそうになった。彼はしっかり握り直し、棚の卓上カレンダーに目をやった。
「流川、今週は選抜予選が始まる」
言った彼には、対湘北を睨む副キャプテンの顔が滲んでいた。が……
「ああだが、流川は出られるのか?」
「無理」
「だよな……。じゃあ次に流川のプレイが見られるのは、俺が大学に行ってからになるのか」
予選を控えた敵を案ずる声が、受話器の向こうへ切実に送られた。
「腕が落ちたらまた先輩に教わる」
「ああ、ありがとう」
痛みを帯びた微笑をその掌に伏せると、受話器の向こうからも不器用な感謝の言葉が返ってきた。
「先輩も、CD……」
「ああ、受け取ってくれたんだな。困ったよ、面会謝絶があったから」
「あれは、うっせぇのが来たから」
「人気者だな流川は」
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