眠れぬ森 2


その晩のこと、昨日に続き応答のない受話器を置いた花形は、その場で考え込んでいた。
こんな時間に連日誰もいないということは、やはり家族旅行だろうか。しかし冬の選抜を控えた今旅行に出るとは考え難い。電話機の故障、若しくは夜逃げという不穏な憶測までちらつく。まずあり得ない話だが、彼は流川宅の事情を何も知らないのだ。
更に悪い方へ考えるなら、あの時確かに繋がったはずの何かが今は一方的に切られているのかもしれない。次を望んだ流川を信じたいが、連絡も取れない今は確認のしようがなかった。
漸く不安を抱いた花形は翌日、部活が始まる前にキャプテンへ申し出た。
「藤真、明日の午後予定が出来たんだが……」
「明日は土曜か……ま、仕方ないな」
キャプテンの許しを得た副キャプテンは、その日の練習にも、残り僅かな指導にも熱心に取り組んだ。

一方、入院三日目のその日。
午後一番で手術を終えた流川は、今日もベッドでの安静を言い渡されていた。
「痛ってぇ………」
……と、指も伸び切らないその左手首を強く握り締める。
今彼は、徐々に麻酔の切れ始める痛みにひたすら耐えていたのだ。それは中手骨骨折という、バスケ復帰には完治絶対の怪我だった。負傷から先程まで、その病状を全く窺わせない程の見事な無神経ぶり、いやいつもの彼だったが、中からも固定されている今はそうもいかないらしい。顔を歪め歯を食い縛り、一人治療と闘っていた。
数分前のこと、学校が終わっただろうその時間に、退屈も静寂も吹き飛ばす某親衛隊がなんとここ病院に登場した。が、人数の多さとあまりの傍若無人ぶりに、疎ましく舌打ちした流川はすぐに看護婦へ申し出た。おかげで今、304号室前には面会謝絶の札が掛けられ、そこはあるべき病室の姿を取り戻したところだ。
面会謝絶……その白いドアの中で、静寂を好く患者が待ち望むのはたった一人だった。

そして、その夜のことだった。深い緑に満ちた森の奥で、雨上がりの新鮮な霧の漂うその中に流川は一人、佇んでいた。
早朝だろうか。まだ陽の昇らない、空の白を吸った朝露がそこら中の青葉に小さく座っていた。つうと葉脈を滑り落ちる一滴には、今遠くへ去りゆく大きな背中が小さく封じられる。ぽたりと割れたその雫の向こうを、流川はじっと見つめていた。まるで緑に埋もるように、無言で消えゆくその背中に、彼はすぐにも呼びかける。
「先輩……!」
声に満たない声は酷く掠れ、追い駆けるべく手を伸ばすも、意気込んだ一歩は絡まった草に阻まれる。もがけばもがくほど締め上げる緑の鎖に、彼の膝は遂に崩れ落ちてしまった。
しかしそうしている間にも、声の届かない背中は静かに静かに去っていく。少しも振り向くことなく、顔も見せず声も発さず、徐々に小さくなって、やがて、消えてしまう……
「待って……!」
消えてもまだ、流川は延々追い続けた。
「先輩…………」
「待って……」

「せん、ぱ………………」

バサッ、と布団を叩き付けるように、慌てて上体を起こした流川は、あの鋭い目をカッと剥いては呼吸に努めていた。その異様な眼光は、一面の暗闇に白く浮かび上がった。
呼吸を不器用に整える途中で咳き込み、胸元を押さえ込む。窓の向こうの外灯に、首筋に吹き出た無数の汗が淡く照っていた。
「夢………?」
夜景もおぼろげな暗い窓へ、振り向いた流川は呼吸の合間に呟く。あとは茫然と、閉め忘れたカーテンに気付きもせず、呼吸が落ち着くまで深く上体を屈めていた。
温度計が冬を指すそこで、一筋の汗がじっとりと這い降りた背中へ、彼は今日も片手を伸ばした。

 

――翌日、四日目。
流川のいない湘北体育館は、今日も若い汗と熱気が激しくぶつかり合う。その出入り口には決まって応援に顔を連ねる軍団がいた。
「花道ー、今のは蚊でも追ってたのかぁ」
桜木の下手なフェイクをおちょくっては、逐一怒る姿にもまた腹を抱えて涙を零す。類なき天才バスケットマンに盛大なる友情を捧げていた。
すると今、出入り口を封鎖するよう並んだそんな彼らの背後から、桜木より大きな影が静かに忍び寄ってきて……
「失礼」
穏やかに放つ影の主に洋平が振り向いた。
「……? っと………」
高く仰ぎ見た彼はまず考え込んだ。
「確か、翔陽の………」
緑のSの上着を羽織った、いつか割れたはずの眼鏡を訝し気に見つめていたところ、「あ、翔陽のメガネだ!」と正解を言ったのは隣の大楠だ。桜木が初めてダンクを決めた、いや決め損ねた相手を彼等はしっかりと覚えていた。
メガネこと花形は苦笑ってから、「流川、いるかな?」と彼らに質す。
「流川……?」
まさかの流川を訪ねてくる、しかも男……益々怪訝な目で花形を見つめた洋平は、一瞥した館内にその訪ね人がいない理由を明かした。
「流川、こないだ事故ったんすよ。それで手ぇ怪我したみたいで、今入院中」
「え…………? 入院?」
いつまでも繋がらない電話の真相を知った花形が驚きの声を上げたところに、練習を見ていた彩子が漸くその存在に気付いた。
「あれー? 花形さんじゃないですか。やだ偵察ですかぁ?」
そうニヤニヤとハリセン片手に出入り口へと歩み寄る。
「いや、流川に連絡を取りたかったんだが、今入院中と」
「あはは、そーなんすよ。全く困ったわよねこの時期に。あの子本っ当無神経だから、どーせまた寝てたんでしょう。自業自得よ」
グラマラスな彼女の男勝りな口振りには花形もやや圧倒されていた。
「で、せっかく来てもらったのに流川いませんけど」
そう彩子の言う通りなのだ。今日花形は練習をさぼり、電車に乗ってせっかく湘北まで出向いたというのに、訪ね人はいなかった。彼は「うん……」と視線を落とすが、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、病院教えてもらえるかな」
「確か野口総合病院って聞いたわ。ここから向かうとすれば少しかかるけど……」
言葉の詰まる彩子の愁眉は、つまり徒歩では無理だと言っている。
「そっか……」
肩を落とした花形は、床に吸い付くバッシュの音、床を打ち付けるボールの音を聞いてはいよいよ顔を陰らせた。きっと今頃翔陽でも同じ音が響いているのだろうと、対湘北戦を想定し、湘北以上の厳しい練習に精を出しているのだろうと、決め損ねたシュートを前に益々俯いた。
すると、そんな花形に声がかかった。
「そんなに用あんなら、俺乗っけてきます?」
あまりに気さくなその声は、花形の様子を傍目に見ていた洋平だった。
振り向いた花形は今一度、学ランの彼の身なりを、セットしたヤンキー特有の髪型と短い眉を見つめる。
「一旦ウチ寄るようだけど、原付でよければ裏乗っけますよ?」
「原付って、あの……?」
洋平は、大きな花形の言わんとしていることを察したようだ。
「大丈夫だって。こいつら一遍に乗っけても走ったんだ」
こいつら……と親指で指されたのは大楠、野間、そして高宮の三人。花形は唖然としていた。
「どうします?」
遊ぶ指先に鍵を引っ掛ける洋平に、花形は少し間を置いてから願い出る。
「じゃあ、頼むよ」
じゃ、こっち……とにこやかに誘う洋平の、その背中に導かれていった花形は、あの激励試合以来の湘北を後にした。そしてこのまま路地裏に連れてかれ、殴られたりしないよな……とは心の中で、彼はまだその外見を疑っているようだ。




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