眠れぬ森 1

白く閉ざされた部屋の中、流川は一人、唯一開放感を放つ窓に向かって呟いた。
「あ、机の上………」
鳥の囀り溢るそこから柔らかな日差しを片頬に受け、上体を起こしたベッドの上で何かを思い出していた。

――入院初日。
一時間前、学校から連絡を受けただろう彼の母親が急遽ここへ駆け付けたが、すぐに去って行った。医師の話を聞いた後で入院の手続きを済ませ、最低限の荷物をここへ運び、明日また来るとだけ息子に伝えたまでだ。あとは今朝流川の着ていた、袖の汚れた学ランを持ち帰っていった。
その後部屋に一人となった流川はただただ漫然と過ごした。そして、「机の上……」と思い立ったようにベッドを出たジャージの彼は、病室を出るとエレベーターに乗り、一階の公衆電話前に立つ。しかし取った受話器に話しかけることなく、それを置くなり長い溜息を吐いた。
平日の、病人や見舞客で賑わうロビーの片隅で、悄然と肩を落とした彼が無気力のまま戻ってきたのは三階の304号室だった。十畳程のスペースにはもう一つ空のベッドがあるだけで、他に誰も居ない。棚やテレビ、冷蔵庫も個別に備えられ、隅にはトイレとシャワーもあってはなかなか充実している。
しかしドアの向こうは何かと人の行き交う物音が絶えず、横になった彼は専ら寝返りを繰り返していた。シワもない、清潔の過ぎる白の中で、微睡みにすらない彼は実にらしくなかった。最初は閉じていた目もすっかり冴え渡り、一度うつ伏せに、浮かない表情を横に向けた彼は、憂鬱の目で壁を見つめていた。
そして再びだるそうな上体を起こすと、傍のテーブルにある紙袋から愛用品を取り出した。いや……それは大きく開いたままの蓋が今にも外れそうで、側面には深い掠り傷があり液晶も割れている。もう一つ取り出した裸のCDも、大きくヒビ入った裏面はすでに再生不可能だろう。プレイヤーからぶら下がるイヤホンだけが唯一傷を逃れたようだ。
「クソッ……!」
流川は不機嫌に吐き捨て、取り出した相棒を袋の奥へ投げ入れた。中からはガシャッと砕けた音が鳴り、持ち主と共に過ごしてきた充実の機械生命を儚く絶たれたところだ。
彼は俯く額を右手に支え、その陰りから今日数度目の嘆息を吐いた。そして、見事に腫れ上がった左手の甲を冷ややかに見つめていた。

その頃、放課後の翔陽高校体育館にて、藤真の持ってきた冬の選抜予選トーナメント表に、張り付けられた壁際に、集合した部員が隈なく目を凝らしていた。
「決勝まで当たらないんだな」
他の部員から頭一つ二つ浮かせ、呟いたのは眼鏡の彼だ。そのレンズには翔陽と真逆ブロックにある湘北が映り込む。
――そう、あの国大が終わってから、二人は一度連絡を取ったきりだった。
その際、はっきりと次を尋ねた流川には穏やかに頷く花形だったが、高校三年生の彼は進学を控えていることもあり、まず時間が合わずにいたのだ。いや、彼にはもう一つ深い理由があったわけだが……
「いいか? 決勝まで行かないことには、俺たちは夏の屈辱を晴らせないんだ。まず海南を倒さなきゃな。何が言いたいかわかるか?」
大勢の部員の前で、キャプテン兼監督の彼が壁をバンっと叩き、逞しい男の声を張り上げていた。
「ウオッス!」
威勢の良い返事が揃ったところで、翔陽のその日の部活は始まった。苦汁を飲まされたあの夏の涙……彼等は復讐の意気でボールを手にした。

その晩、帰宅した花形は真っ先に受話器を取った。玄関先で、SHOYOの上着を羽織りSHOYOのカバンを提げたまま、応答を待っていた。
「……………」
無機質な呼び出し音が数回リピートしたところで受話器を置いた。
「まだ、帰らないか……」
その後浴室を出た花形は、十時を指す壁時計を見上げもう一度受話器を手にする。が、彼は帰宅後と同様、数回の呼び出し音の後でそれを置いた。
親すら出ないことには奇妙に感じながら、彼は十時を数分回った壁時計を見上げ、小難しく顔を顰めた。
「この時期に家族旅行……?」
いやまさか、と小さく笑い、階段を上って行った。
彼の自室は何ら変わらず、無愛想な彼をも癒した水槽の住人が部屋の主を出迎えた。
「また明日、かけてみればいい」
水槽へ歩み寄り、独り言を漏らす部屋の主を揺蕩う水面の奥に見上げる魚たち。そこに花びらのような夕食が今日も天から恵まれるのだ。

 

――翌日、入院二日目。
午前中、医師から手術の説明を受けた流川は、今日も上体を起こしたベッドの上でぼんやりしていた。
今日は明日の手術に備え、一日安静とのこと。安静とは彼にとって普段と同様、つまり眠ることだ。
しかし今日も微睡みにないのは、傍らで彼の母親が忙しく荷物を整理している所為だろう。
「まったくあんたの部屋は何がどこにあるのかさっぱりわかんないんだから。大体なんで教科書とパンツが一緒に入ってんのよ。わからなくて結局夜に買い物行ってきちゃったわよ、もう!」
棚に荷物を押し込みながら早口でまくし立てる母親は、無口とされるその息子とはあまり似つかない。
「夜も電話したけど出なかった」
という、ぼそぼそとした息子の声には好い加減苛立っていたようだ。
「だから、夜に買い物行ったって今言ったばかりでしょ! 他にも色々買い揃えてたら夜中になっちゃったのよ」
そう口を酸っぱくした後で、「で、何なの?」と電話の用件を柔らかく質した。
「俺の机に紙挟んであるから、それ持ってきて」
「無理」
きっぱりと否む彼女に、息子はただ閉口していた。
「言ったでしょ? 今からまた父さんとこ戻らなきゃなんないって。まったくあの人もだらしないんだから。あんたのそういうとこは父さん似だわね」
「………」
余計な一言にもいつもの無神経を貫く流川だが、今日はより、声を発した。
「戻んのいつ?」
「そうねぇ、いつかしら? 来週には戻るわよ」
「来週………?」
呟いたきり、息子は押し黙った。
「何よ、そんなに大事な物なの? それなら昨日言えばよかったじゃない」
「それを電話で……」
「入院って言ったってたった高々六日なんだから、そのくらい我慢なさいな」
大きな子供を叱りつける言い振りに、視線を落とした流川はまるで、いじけた子供の如く口を尖らせていた。
そして最後にもう一つだけ、彼の低く切ない声が母親の背中に縋る。
「あと、ボール……」
母親はふと、手を止めた。程なく振り返った彼女は優しく微笑んでから、そっと息子の髪に触れた。
「それが……お医者さんに訊いたけどダメなんだって」
その詳細はこうだった。
「二年前にも、バスケしてた高校生がここに入院したらしいの。彼もすごくバスケが好きだったみたいなんだけど、完治しないうちに勝手に復帰して、余計悪化させたみたいで……。だから先生が、くれぐれも関連するものは置かないようにって」
流川は顎を指に乗せ、確か……と宙を仰いでから、「ああ、あれ」一人納得した。
そして漸く、母の無駄にテキパキとした手つきが落ち着いたのだった。
「フーッ、じゃあもう行くわね。何かあったら父さんとこ連絡ちょうだい。じゃあもう行かなきゃ。ああ忙しい」
そうして小言の嵐が今日も忙しく去って行ったことで、忽ちそこは静まり返った。
白いドアがバタンと閉まり、残る流川は一人、昨日に続く溜め息を吐いてはらしくない表情を浮かべていた。外の枯葉を見つめては、竦めたうなじが薄く粟立ち、立ち上がった彼はそっとレースのカーテンを引いた。冬もすぐそこまでやって来た今、着古したサテンのジャージはやや薄地のようだ。
彼は肩口から、いつか抱擁を受けた背中にそっと手を伸ばし、ほんのり目を蕩めかせ、やがて横になった。




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