魚が眠るとき 7

花形が部屋のドアを開けると同時に壁のスイッチを弾き、そこに眩しいくらいの明るさが戻る。
「ついでに戸締まりしてたんだ。あ、ビデオ終わったんだな」
そう言って、花形が歩み寄ったベッドでは流川が気怠そうに起き上がったところ。薄掛けに包まったまま目をしぱしぱとさせている。
「平気か流川? さすがにそろそろ帰らなきゃ、家の人心配するだろ?」
「ヘーキ」
ぼんやりと口を動かす流川の、花形を見上げた目は虚ろだ。
「まさか……熱でも出たか?」
花形は忽ち床に膝を着くと、その正面からじっと奥の表情を見上げるが、「眠みぃだけっす」と放つ流川の本質というより体質を今日把握したようだ。
「そっか……」
微苦笑に留めた表情で呟くと、花形は手前の後輩の胸に頭から凭れかかった。今も眠気を放出するその身体へ、頭頂部を押し付けるようにして、愕然と表情を払った。
見下ろす流川の視線の先で、俯いた黒い頭が心臓の前で、また、懺悔の言葉が告げられたのだ。
「ゴメン、流川……」
先程謝るなとした流川はムッとするが、なお続く謝罪は決してその目を見ることなく、一方的に伝えられる。
「本当にゴメン……。なかったことに、してもらえる……?」
それは息を止めるよう、ギュウと詰まる声にも穏やかさを宿したまま。今日もこうして二人きりの時間を過ごしたことで、より深まった繋がりが、葛藤を乗り越えた末の戯れが、電気の復旧と共に瞬時に翻されたのだ。
流川と離れていた数分の間に理性を取り戻したのか、また罪悪感に捕らわれたのか。切ない怒りを目力に込める流川だが、依然として持ち上がることのない先輩の頭を見下ろしては、口端から嘆息を漏らす。先輩……とその肩に手を置き、漸く持ち上がった顔を正面に見据える。そして無言の唇にそっと口付けるが、それは抵抗するでも拒むでもなく、ただ時間が過ぎるのを待つようにじっとして動かなかった。柔く触れ合う唇まで無表情に徹していた。
離せばまた「ゴメン……」とだけ花形は口にする。
流川は無言で立ち上がった。手前の先輩を避けてすぐそこへ、手にしたのは先程まで再生されていたビデオのケースで、その中から取り出した一枚を花形の前に広げた。
「訳、教えて」
訳……? と受け取った花形が見上げれば、再びベッドの縁に座った流川が人差し指をその英文に置く。
花形は顰めた眉に疑問を残したまま、該当部の訳を述べた。
「僕を家に連れて帰って。一人にしないで。僕はそんなに上手くないけど、そんなに悪くもないから……
そこまで読み上げた花形はややあって、無表情を崩した。それは軽く卑猥な意味が込められていた上に、まるで…………
「あとは?」
真顔で続きを促す流川を、花形は疑わしい笑みを以って見つめる。
「あとは、わからない?」
首を横に振る流川に、花形は流暢な発音でその正解を読み上げた。
「you should try it……君もやってごらんよ。僕は……

――君もやってごらんよ
僕は保釈を食ってゴールドカードの心を持とう
人生の幸福はもうすぐそこに
いずれ皆同じなんだから
あとは、君一人だ……――

英文というのは、訳す人によって多少捉え方も変わってくる。なまじ詞ともなれば、その意味すら正確に読み取ることは難しい。
しかし、花形はそれで一体何を思ったか……。目を閉じ、あまりに情けない息を吐いては、その力ない落胆の笑みを片手に覆っていた。
「酷いな流川は」
顔から床へ滑り落ちた自らの片手を見つめ、引き攣る口端が再び嘲笑う。
「わかってるんだろう?」
続く一人言に、何が? と言わんばかりの流川は暫く様子を窺っていた。
花形は言った。
「ありがと流川。いいんだね?」
そして茫然としている流川に唐突な口付けが送られた。……それが、葛藤を繰り返した彼自身への答えだったようだ。
目をぱちぱちとさせる流川の腰に両腕が回る。程なく流川の両腕も絡み付き、また深い抱擁に発展しそうになったところで階下からドアの開く音が届いた。花形の両親が帰ってきた。

 

夜の駅は疲労を溜めた人で埋め尽くされていた。行き交う改札の手前で、花形は切符を買い流川に手渡す。
「悪かったな。こんな遅くまで」
いえ……と受け取った流川は今日花形の着ていたグレーの長袖を羽織り、提げた紙袋には数本のビデオテープが犇いていた。
「次は来週だな。頑張ろうな試合」
「ウス」
試合……その言葉で二人は俄然、国大選抜メンバーの姿へと切り替わる。
「傘持ってきな」
そう花形から差し出されたビニール傘には、持ち手に『オレの』とふざけた字で書かれている。
受け取った流川はスミマセン、と頭を下げ、踵を返した。
「あ、風邪ひくなよ」
花形の声に頷いた流川は改札を抜け、人でごった返すホームへと消えて行った。
「予選前、だから……」
早くも見えなくなる背中を、花形は一人、暫く見守っていた。




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