魚が眠るとき 6

一方、取り残された流川はぼんやりと、開いた両膝に頬杖をついていた。晒した腕が再び粟立ち、先程まで隣にあった温もりもすっかり冷めている。画面に夢中だったはずの視線は窓へ転じ、闇に染まりつつある空の向こうからはサーッと音が近付いてきて、間も無く窓を叩き出した。夏の夕立が、物憂いにある遠い眼差しを激しく遮った。
流川はふと、後ろを振り向いた。広いベッドの上で残り香仄めく枕を見つめ、そろそろと上体を倒すとそこに頬を預けてみる。軽く頬を擦り付け、そのままぼーっと横になれば、甘くない苦くもない澄んだ大人の香りがダークブルーの生地から漂う。そこに好きなメロディが常に流れていて、嵐のような雨音が刻み、水槽からのブクブクという効果音まで響いては、まるでそう…………。
やがてドアが開き、出ていった時と何ら変わりない花形が戻ってきた。流川は慌てることなく起き上がり、点いた明かりの眩しさに目を擦っていた。
「眠くなった?」
花形はまず窓へ出向き、カーテンを閉めながら問う。
「雨降ってきたけど、時間は? 家は大丈夫?」
「ヘーキ」
「今日、どこまで見てく?」
「全部」
「全部か。そしたら一泊はするようだな」
花形がにこやかに言うと、「泊まる……」そう答えた流川は無愛想な無表情、というより、未だ夢と現の境にあるようだ。
「流川、部活はどうするんだ?」
顔を横に振ることで眠気を振り払った流川は、あとビデオ一本だけ、夜には帰るとした。
その後、今年受験を控えた花形は少し勉強をすると、壁にもたれて参考書を眺めていた。といってもそこは同じベッドの上で、手を伸ばせばすぐに届く距離に居る。
流川は次のビデオを眺め、今もベッドの縁に腰掛けていた。出された菓子も口にせず、じっと前屈みを保っていたが、ふと……
「寒みぃ」
打ち付ける雨音の合間に、消え入りそうな小さな声が流川の口から零れ出た。
「大丈夫か? 上着貸そうか」
参考書を置いた花形が背中を起こすと、「や、平気っす」というにべない遠慮は花形に背を向けたまま。
花形は膝で立つと、ベッドの足元へ腕を伸ばし、取った薄掛けを薄地の背中に広げた。
「これ掛けてな」
背中から、両手に持った端と端を流川の前へ、包み込むように、夜の寒さをいたわった、あの合宿の夜と同じように…………
花形は抱き締めていた。
覗いたうなじの白やかな肌を、他校の後輩を優しく覆った。無言を貫く彼の前で伸ばした両腕を絡ませた。
二人を閉じ込めた二階の一角で、窓を狙い打った数滴が滴り、カーテンの隙間から漏れる明かりを、ガラス越しの奥の二人を雨色に歪める。
騒音を極力封じるその中で、画面に一方通行だった瞳は未だ見開いたまま、身も竦めたまま何も言わず、シーツに置いた指を少し浮かし、宙をさまよっていた。
そこに、水槽の中の一匹が水をピチャッと跳ねた音で流川は瞬きを一つ。強張っていた肩の力を落とし、再び呟いた。
「あったけぇ」
花形はハッと顔を上げ、瞬時にそこを離れていった。
る…………と声を詰まらせ、速やかに退き後ろに手を着き、すぐに姿勢を改めては後悔と謝罪に励む。
「流川すまない……その……あー、うっかりだ」
頭を抱え、落とした視線の先に詫び入る声は実に情けない。無言の背中を前に極端に肩を落とし、俯いた額を深く押さえ込んでいた。全てを塞ぎ込むべく視界を覆っていた。
もうダメだ…………。
降参を決めた花形は怠そうに顔を上げ、流川にはっきりと告げた。
「流川。悪いがやっぱり、ビデオ持って帰ってくれるか?何というかその……頭がおかしいんだ」
頬を目一杯ひきつらせた花形の笑顔は酷く歪んでいる。そんな先輩の先輩らしからぬ言動にこれまでの穏やかさはなく、冷静さも優しさもなく、流川の睨みを買った。流川の無神経を大きく揺さぶっていた。
「先輩……!」
流川は呼んで振り返り、花形の脚を手で跨ぐ。鋭利な眼差しでギロリと睨め付け、瞠目する花形の真正面から、花形の唇を塞いだ――――。
有無を言わさぬ唐突な接近から逃れる術はなかった。焦る表情そのままで固まった花形は、喉仏を揺らし、重なった黒い頭の間で専ら呼吸を止め続けた。後ろに着いた手に僅かばかりの力を込める程度で、遠退く視線は流川の先の更に向こうに飛ばされる。
外で車が水溜りをバシャッと踏みしめる音がして、帰ってきた花形の視線はテーブルの上に置かれたままのビデオケースに、先程訳を問われた曲のタイトルに行き着いた。
確かこう解いたはず……他のいかなる方法もない。他に道はない。
本当にないとしたら、このままどこに行き着くのだろう……。
花形の意識が薄らいできたところで、押し当てられていた唇が漸く離れていった。同時に呼吸を取り戻した花形は忙しく蘇生に努め、未だ苦しさを患った顔で流川を見つめる。が、その真意を咎める以上に流川は怒っているのだ。今も花形をじっと睨み据える彼は、不機嫌に言い放った。
「謝んのやめて。ムカつくから」
他校の先輩へ不意のキスを仕掛けたと思えば苦々しくタメ口を聞き、剰え暴言を吐いたのだ。
花形は数瞬の後、その小難しい顔に片手を貼り付けていた。こうして不満を返されては質すことも咎めることも、逃げることすら叶わず、正に道を失っては、こうして大袈裟なまでに肩を落とす他ないのだ。
そして、今度はその姿を慰めるべく、後輩が甘え出したから不満を零すことも叶わなかった。黒い頭が先輩の肩に凭れ掛かり、行き着いた花形の首筋へ再び唇が押し当てられる。グレーの襟の内側へ、不器用に啄むキスがぎこちなく潜り込む。
「流川、その……いいのかこんな……」
きっと様々な疑問を詰め込んだ問いが、微かに震えた声で発せられた。ふと流川が見上げれば、眉を顰めたレンズの奥は困惑と怪訝の間を往来する。が、流川は無言で先輩の胸に自らの額を押し付ける。自然と入り込んだその人の内側で、瞳を閉じ、まだ解消出来ずにいる不満の一息を吐き付ける。片頬を擦り付ければ、確かな鼓動はドクドクと語り掛けてきて、今にも閉じそうな薄目を開けながら、流川は密やかに甘えていた。
大きくて優しい胸に、あの合宿の夜と同じ安らぎが、今日も流川の瞼を一層重くしていたようだ。
後ろにあった花形の手が持ち上がり、そんな流川の頭をやんわりと包んだ。悲痛を帯びた切ない視線と共に艶めく黒髪を撫でつつ、『消えゆく』……先程問われた和訳がまたも花形の頭を過った。
未だ止みそうにない激しい雨によって、合宿で抱いてしまった想いへの背徳が、罪悪感が正に消えていきそうだった。
咄嗟に肩を押し離し、間近に見つめた後輩はのぼせたように頬を薄紅く染めている。潤みを帯びた切れ長の目が、まるで何かを訴えかけている。
花形は、他校の後輩である彼をその場に押し倒した。ベッドが弾み、ギシ……と中のバネが軋み、邪険にされた薄掛けの布団が二人の足に踏まれる。
上から肩を押さえ付けた手が、その影の真下にある輪郭へ伸びると、丸みの薄いその線の美しさが大きな掌に封じられた。返ってきたのはただただ見つめ返す上気した視線で、そこに、今度は花形が口付けを施した。倒された背中に片手が回り、先程とは違う大人のキスが捧げられた。角度を変えつつ、合わせた唇が巧みに弄む。挟み込んだ口唇をなぞるよう、小さく吸っては紅く濡らす。また角度を変えては繰り返す甘い戯れ……。
天井の白のLEDが、流川の黒目にぼやけて映った。覚束ない足の向こうで、水槽がブクブク囁いていた。
「寒い?」
ふと上体を起こした花形がティーシャツ一枚の彼を案じ、流川が小さく首を振る。
花形は足元の薄掛けの端を取り、それを背中に羽織ると再び上から傾れ込んだ。同時に薄く粟立った首へ唇を落とし、横に反れた首筋を数回のキスでなぞった。
微かに震える身を抱き竦め、大人しい彼の耳元へ、吐息混じりの声で囁く。
「流川は、俺が好きなの……?」
すると、突然ひび入った雷鳴は窓の外から。バリバリと雨雲を割り、激しい雨音を瞬時に切り裂いた。
プツン――と電源の落ちる音はテレビと水槽から、辺りは一瞬にして真っ暗闇と化したのだ。
あ……と上体を起こそうとする花形だが、それは巻き付けられた腕によって遮られた。下からその首を抱えた両手が強引に頭を押し戻し、唇へと誘導、キスを強制した。
よって深く押しつけられた間から、流れる曲で封じられていた音が漏れ出す。忙しく啄み合う、水分の交わる音が絶えず囀るよう、息のぶつかる音までが甘美に響き、射し込んだ稲光がストロボの如くそれを照らし出した。
やがて低い機械音がして、暫し戸惑いにあった水槽の彼らに恵みの酸素が戻る。それでもまだ真っ暗な部屋に、水を隔てたブラックライトの灯りが突如として浮かび上がった。
青く揺らめく水面がゴソゴソ蠢く薄掛けを照らし、重なる二人をより深い海へと導く、海の底へと誘い込む。それは今、どんな間接照明より妖しく波打っていた。
「ちょっと待ってて」
ふと起き上がった花形が「ブレーカー見てくるから」と部屋を出て行った。
取り残された流川はまずはゆっくり上体を起こし、カーテンの隙間に覗く外の雨に顔を向けた。
そこに再び起動音が鳴る。まだ天井の証明は反応しない中でバチっとテレビが映ると、チラチラと光る画面が停電時の曲から再生された。
『Blew it all away〜♪
それは流川もよく耳にした曲だった。元気な曲調の中に微かな虚しさが浮かび上がり、そこから何とも不思議なパワーが湧き出る。
もちろん、今画面と向き返った彼に歌の意味はわからない。眩しそうな目で画面を追うだけだが、そんな彼の耳に魔法の言葉が響き渡った。
『Oh you should try it!〜♪
程なく流れていたクレジットも終わり、ビデオは静かに止まった。
「遅っせぇ」
一人呟き、今一度ベッドに倒れ込んだ。

 


※:on your own
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