魚が眠るとき 5

駅を出てすぐのロータリーで、手ぶらでやってきた流川は壁を背に立っていた。犇くバスやタクシーを見つめながら、車内の冷房に三十分近く曝されてきた、半袖から覗く薄く泡立つ片腕を摩った。
五時半を大きく示すビルの電子時計は徐々に陰り、黄金色の空に薄く雲が垂れ込めると、日を侵食する薄暗さにその無表情も染まりゆく。家を出る時は夏だったはずが、彼の睡眠は季節をも越してしまうらしい。
行き交う人々も空を仰ぎ雨の心配する中、程なくして、あまりにわかりやすい待ち人が正面からやってきた。
「早かったんだね。少し待たせたか?」
グレーのシャツを羽織った花形が流川の前に歩み寄ると、「平気っす」と流川の視線が持ち上がり、互いに一週間ぶりの再会を果たす。
「雨降りそうだな。行こうか」
いよいよ陰り出した雲を仰いだ花形の背中に、流川は大人しく着いて行った。
歩道を進みながら、主にデッキの故障について、花形がデッキのクリーニングを勧めると、「ああ……」という不自然な返事は流川から。レンタル屋に置いてあるという花形の補足で話は終わり、やがて新築の住宅街に行き着く。こっち、と促された高い塀の中は、シンプルなライトグレーの二階建てが手入れされた芝生の中央に建っていた。
重そうな玄関のドアにはセキュリティーのシールが貼られ、周囲の住宅に全く引けを取らないデザイン性、機能性を存分に覗かせていた。
「ただいま」
花形がドアを開けると、中にはスーツを纏った母親が丁度玄関を出ようとしていたところだ。
「あ、おかえり透」
「お邪魔します」
流川の無愛想ながらも丁寧な挨拶に、彼女は品の良い笑みで、早口で少しキツそうな口調で出迎えた。
「こんにちは。ゆっくりしていって頂戴ね」
そして息子には優しく告げるのだ。
「今日父さんと食事してくるから。戸締まり頼んだわよ。それと惺(さとる)は?」
「さっき出てったよ」
「ハァ、また帰ってこないつもりね」
呆れつつ玄関へ降りた母親はハイヒールに爪先を挿し入れ、足早に家を出て行った。
「お袋さん?」
「そう。俺は父親似だから、あまり似てないかな。母親は見たまま結構な教育ママだしね」
玄関に入ってすぐ正面の階段を上がり、廊下に差し掛かってまたすぐのドアが開けられる。花形に続いた流川はその一室に通された。
「じゃあ適当に掛けてて。お茶持ってくるから」
部屋に残された流川は一人、ぐるりと見渡せば、まずそれなりの広さを誇る整然とした八畳に驚いていた。
今流川が居るガラステーブルを中心に、ダークブルーの大きなベッド、窓、テレビ、棚、机と、全体的にシンプルであまり色味がなく、どこか落ち着いた大人の雰囲気がまだ十五歳の彼を閉じ込める。
そして、先程から微かに聞こえていたブクブクという音の正体に振り向く。……水槽だった。ブラックライトの青に照らし出された熱帯魚達が、まるで花弁の如く鮮やかに舞っていた。
流川は吸い込まれるようにしてそこの前に立つと、その場で暫し立ち尽くす。揺れる水面にブラックライトの光が射し込むそこは、まるでそう……――――。硝子に映る彼の瞳に、目の前の小さな海が封じられる。中の住民が不気味がる程、魅了されたその眼差しはじっと食い入るばかりだ。
ガチャッとドアが開き、カップの乗るトレーを持った部屋の主が戻った。待ち人を探す視線が入ってすぐ傍の水槽に辿り着いた。
「好き? 熱帯魚」
そう言って、依然として硝子に張り付く流川の背中へ歩み寄る。後ろからそっと、水槽の住人を紹介した。
「この一番大きいのがプラチナエンゼル。あれがジャパンブルーで、隣がアクアマリンネオンタキシード。奥のは……」
流川はしっかりと目で追っていた。顔に波模様を映す彼を、青くたゆたう光と穏やかな声が優しく囲っていた。
「綺麗………」
それはいくら眺めようと飽きない。何者にも変え難い癒し。
そう、流川が思っていたところ……
「飽きないし、癒されるだろ?」
流川はハッと顔を上げた。映る硝子越しに後ろを窺うが、すでに声の主はいなかった。聞こえてきたのは聞き慣れた洋楽で、花形がビデオを再生していた。
流川は硝子テーブルに置かれた紅茶の前に腰を下ろし、アーティストが奏でる画面を見入る。それは流川の所持していない初期のライヴビデオで、クリアなメロディーの中にも心地良い毒が刻まれ、最近は毎日のように聞き入っていた。彼の愛用必需品に、それは常にセットされていた。
「流川、そこじゃ画面近すぎて見辛いから、こっちに掛けるといい」
顔を真横に向けての視聴を気遣う声は、ベッドの縁に腰掛けていた花形から。そのベッドとテレビの間にテーブルが配置されているが、ベッドの大きさ故、その距離はあまり適していなかった。
流川もそれを察したか、立ち上がると素直に促されたベッドへ、先輩の隣に腰掛ける。そう、先日のバスと同じように。そこに二人の間を隔てていた肘掛けはなかった。大人しく視聴に没頭する流川の横で、花形は俯いた先の床へ、嘆息を零した。
こんなはずじゃなかった……。
後輩を気遣った結果、ベッドの上でこうして肩を並べている。額を拳の親指で深く支える姿は、彼の優秀な頭で以ってしても困難な際に表れるものだ。
それなら……と、花形が席を離れようとした時だった。その落ち着かない隣の様子を窺うよう、流川が下から覗き込んできた。テーブルにあったビデオのケースを手に、肩すれすれまで顔を近付け、花形に尋ねた。
「これ、意味何すか?」
これ、と指された指先に花形の視線が転じる。
「ああこれは……消えゆくって意味」
流川は次のタイトルに指を移し……
「これは?」
「これは……直訳だと、他のいかなる方法もない。他に道はない」
それで納得したのか、流川は上体を正面に戻し、再び画面を見つめた。
急な接近にたじろいだ花形もホッとして、「トイレ行ってくる」と早くも席を立った。部屋を出た彼はドアを背に、今日何度目かのそれを深く吐き出していた。
階段を下りた彼は、トイレには入らずリビングへ出向く。誰もいないそこでソファに腰を下ろし、一頻り頭を抱える。先の流川の行動を勘繰るべく思考を巡らす。
だいたい、訳を聞くのだってあんなに近寄る必要ないだろう。隣に促したところであんなに密着することないだろう。では何故……? と問い、その心情を探るべく至ったのは流川の表情だ。無愛想な無表情で、緊張も戸惑いもなく声色すら揺れることのない……つまり、答えなどなかった。
掌いっぱいに顔を覆った彼は執拗に呼吸を整えた。それは冷静を欲す彼の試合前と同様の姿で、これまでもこうして、彼なりに様々な壁を乗り越えてきた。




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