魚が眠るとき 4

「だ―――っ!! このヘンタイ流川っ!!」
まだ薄暗い三号室に響き渡った清田の大声で、合宿三日目、最終日の朝が始まった。
小鳥の囀りも吹き飛ばす一騒ぎにぼんやりと目を開けた流川は、そのまま顔を持ち上げてすぐ、大声の理由を知った。
「あ………………」
冴えない寝ぼけ眼は瞬時に見開き、上体を起こしつつ後退り。空いていた自らの布団に、定位置であるそこに戻っては暫し凍りついた。彼はつい先程まで、隣の布団で眠る花形の胸を抱き枕のように抱えて眠っていたのだ。
流川はばつが悪そうに仰向けに眠る隣の先輩を見つめる。そして、そこに言い逃れできぬ証拠を、薄い白地ティーシャツの胸にくっきりと濡れた跡を見つけ、やるせなく後頭部を掻いた。
「あははは、唾まで垂らすとは、やるな流川。それ、花形さん起きる前に拭いちまいな」
続いて起きた仙道がカーテンを開けつつ、流川にティッシュ箱を投げ渡す。
「きったねぇ、寄るなよ流川」
清田が追い打ちをかけるが、流川から「っせー」の悪態は返ってこない。自身の染みを見下ろしては小さく舌打ちし、取り出した一枚で不器用に拭おうとした。が、その手が触れた瞬間、花形の眉間が寄せられた。
「ん……流川、おはよう。早いな」
目を擦りながらやおら上体を起こす仕草はどこか白々しく、奥の仙道がクスリと笑う。ティッシュを握る流川の手は一度固まってから、「ウス……」とさり気なく背中に回され、花形も染みに触れないことでこの一件は終わった。
「流川洗顔は?」
「まだ」
「じゃあ行こうか」
「じゃあ俺も行こっかな。信長くんは?」
「まだっすよ仙道さん」
「フーン」
「そ、そんな……」
「あははは、冗談。さあ行こうか」
小さな気遣いに和む平穏な三号室。今日も快晴の空が広がる合宿所で、最終日の練習が始まった。

監督勢の熱の篭った特訓も午前中で終了。各自部屋を掃除をして荷物を纏め、短くも有意義な三日間が幕を閉じた。
玄関前にはすでに到着したバスが、運転席横のドアを開けてメンバーの帰りを待っていた。
先に玄関から出て来たのは牧と赤木で、並んで荷物を抱えつつ、控えた地区予選での実戦的な会話を交わしながらバスの中へ。二人に続き花形も一人車内に乗り込み、真ん中辺りの窓際に着席した。
「そういや、赤木はなぜ湘北に入ったんだ?」
そんな牧の声が後部座席から聞こえる中、頬杖を着いた花形は黙って窓の外を見つめていた。徐々に座席が埋まっていく中、花形の隣の席は未だ空いたままだ。周りでは藤真や宮城が楽しそうに話をしていて、長谷川までも三井と並んで座っている。仙道の隣にはすっかり懐く清田がいた。
「カッカッカッ! いやぁ今朝の流川は笑えましたねぇ、仙道さん」
「え? 流川がどうしたって?」
「あ、神さん聞いてくださいよ実は……」
「信長くん、それはシーッ」
花形が地味に狼狽える中、今手前の通路に立ち止まった男から低い声が発せられる。
「いっすか?」
「あ、ああ」
最後に乗り込んだ流川が着席し、監督も乗り込んで程なくバスは発車した。
程々にざわつく車内に寝息やいびきも混じる中、今日もまた二人並ぶそこには見事な静寂が漂っていた。が、眠っているわけではない。
「今日は眠くないの?」
ふと、頬杖を解いた花形が話しかける。寝ていることを前提とした質問に流川がぼそぼそと応えた。
「結構寝たから」
花形は微笑みを漏らし、「疲れた?」と、無言で頷く流川に続けた。
「まあ、来年もがんばってね。決勝くらいは見に行くから」
流川に返事はなかった。今彼の耳には、花形の言った『来年』が余韻のように響いていて、それは暫く黙した後でまた、ボソリと発した。
「先輩、ビデオ」
「ああそうだったな」
合宿初日の会話を思い出した花形はややあって、約束を固めた。
「日曜だとありがたいけど、前もって言ってくれれば土曜も空けられるよ」
「日曜行くッス」
「悪いな。じゃあ、今度の日曜の……夕方でいい? 湘北も練習あるだろうし、詳しい時間はちょっとわからないから……そうだな」
メモとペンを取り出した花形はそこに電話番号を書き記し、それを流川に渡す。
「家出る前にここにかけてもらってもいい?」
受け取った流川は頷き、それを鞄にしまうと同時に彼の愛用品を取り出した。

やがてゆっくりと停車した車内で藤真が立ち上がる。
「さて、着いたか」
行きは最後だった翔陽高校に、今日は最初に到着した。
「じゃ、またな流川」
そう言って、通路に出た花形は藤真長谷川の後に続く。監督らに最後の挨拶をして、三人はバスを降りていった。
すぐにドアが閉まれば、窓を流れる景色は徐々に一定の速度を保つ。変わらずざわつくメンバーを乗せ、次の目的地へと走り始める。
流川は閉まったドアを暫く見つめ、空いた窓際の隣の席へ移動。返されたイヤホンの片方を装着し、車窓越しに翔陽高校周辺の街を眺めていた。徐々に重くなる瞼を閉じ、静かな寝息を立て始めた。
『lead in me and me in water〜♪※』
微かに漏れる音は挿しっ放しのイヤホンから。ゆっくりと頭を垂れ、深まりゆく寝息は今、夢の入り口に立ったようだ。
『またな流川……』
どこからか響いた穏やかな声が水面から、それは天仰ぎ寝そべる流川にまた、安らかな波を与えていた。

 

それから一週間が経ったその日、部活から帰ったジャージ姿の流川は玄関に上がってすぐ、鞄からメモを取り出すと右手に受話器を持った。
「もしもし花形でございますが」
受話器から漏れたのはやや早口な女性の声。
「あ……っと……」
「はい、どちらさまでしょう?」
流川は受話器片手にしゃがみ込むと慌てて鞄を漁り、奥から国大メンバーリストを取り出した。翔陽メンバーの欄にその名を確認した。
「透さん、お願いします」
「はい……少々お待ちを……」
言っては消えた受話器の声に流川はホッと息を吐く。程なく声は替わり……
「流川か?」
「ウス」
「フッ、名前くらい名乗れよ。練習終わったか?」
「終わったッス」
「そっか。じゃあそうだな、一時間後くらいに駅で待ってるから、ゆっくりおいで」
……と受話器を置かれそうになったところでもう一つ。
「あ、先輩」
「ん?」
「デッキ、壊れたんすけど……」
「デッキ……? ああ、じゃあ持ち帰っても見られないってこと?」
その後受話器を置いた流川はティーシャツに着替え、自転車に跨り駅へと向かった。

一方、受話器を置いた花形は玄関で一人、嘆かわしく溜息を吐いていた。浮かない顔で階段を上がり、そこでハァ、とまたも溜息を落とす。重そうな額を片手に支え、「来るのか……」と階段を上り切ろうとしたところで、前方の廊下から腰にチェーンを下げた金髪の男が我が物顔で近付いてきた。
「今日は帰ってくるのか?」
花形が声を掛けると、それは視線も合わさぬまま無言で擦れ違う。高さの近い肩同士が軽くぶつかるが、そのまま階段を下り、玄関のドアをバタンと音を立て、彼は家を出て行った。花形は今一度頭を抱えた。




※:oily water
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