魚が眠るとき 3



翌日は監督勢の都合により、昼食後から三時まで監督不在の自主練習がメンバーに告げられていた。となると、大方三年生が後輩の指導に当たるのが主流となる。一方では清田に懐かれた仙道と、同じPGの宮城による次期キャプテン対決が始まる。三井と神の3P対決には、ぜひそれを身に付けたい福田が混ざり、高砂、長谷川がディフェンス役として支えていた。桜木に至っては怪我の影響と期待の表れからか、四校のキャプテンによる総指導という、ある意味一番豪華な特訓が待っていた。
そんな彼らを尻目に、休憩後皆より出遅れて来た花形は、隅のリングへ一人淡々とボールを放っていた。落ちたボールを一人拾っては、ふと騒がしい周囲を見やり、また黙々とシュートを重ねる。誰の練習に加わるでもなく、誰に声をかけられるでもなく、ウォーミングアップ程度に軽く汗を流すに留めていた。そこに、背後から例の声が届いた。
「先輩……」
無表情の彼はボールを一つ抱え、花形の後ろに突っ立っていた。そして、振り向いた花形に言った。
「フェイダウェイ、見て欲しんすけど」
「フェイダウェイ……?」
それは以前、インターハイ前に湘北で行った激励試合で流川が花形相手に決めた技だ。すでに高い完成度を誇るそれは、未だ皆の記憶に新しい。
「流川はもう、俺に教わることなんてないだろう」
涼やかに言い切った花形の口元は僅かに引き攣っていた。が、無言で首を横に振る流川の熱意に折れたようだ。
「じゃあ、ディフェンスやるから」
二人は早速間合いを取った。腰を落としドリブルを始めた流川は今か今かとタイミングを計り、右、左と視線を散らす途中で咄嗟にリングを狙った。
フェイク……!
動じないディフェンスに顔を顰めるが、それに緩んだ一瞬の隙へ流川が透かさず切り込むと、早くもシュート体制に入った彼の前に花形が大きく立ちはだかった。宙に浮く瞬間を、一九七センチがどこまでも塞いでいた。
程なく流川は後ろに飛び、迫る掌を避けつつリングを狙い打つ。花形は長身を生かし、何とか届いた指先で軽くボールを弾けば同時に軌道が乱れ、リングに弾かれた。
「惜しかったな」
後ろに飛んで尻餅を着いた流川に右手が差し伸べられる。取った流川は、立ち上がるなり落ちたボールを拾い……
「もう一回」
「ああ、いいよ」
花形は快く胸を貸した。そんな二人の特訓は気付けば周りも見入るほどに白熱し、「おっ、やったな流川」休憩がてらの三井も微笑ましく見守っていた。
結果としては五分五分といったところか。流川のテクニックはほぼ完璧なのだが、対する花形の壁はやはり高かったようだ。
それから一度外で水分を流し込んだ後、絶えずシューズの摩擦音が響く館内に二人は戻った。首に掛けたタオルで汗を拭いながら、日差しを避けた奥の隅へ、壁を背に揃って腰を下ろし、並んで皆の練習を見守っていた。ディフェンスを避けた福田から放たれた3Pを目で追いつつ、花形が言った。
「フォームもそこに入り込むまでのポジションも完璧だよ。後は放るタイミングかな? こればかりは相手にも寄るし、やはり経験だよな」
そう先程の特訓を評価した上で、流川を讃えた。
「でも一年でそこまで出来るんだから、本当大したもんだ。流川がウチに入ってたら……てとこだな」
福田のシュートに続き、奥のコートでもバサッとネットを潜る瞬間、三井と長谷川によるハイタッチが夏の日差しに反射していた。
流川がウチに入ってたら……――――。
それは、翔陽で何度も持ち上がった話題だった。今年入った新入生にあまり期待出来なかったこともあり、もし流川が翔陽に入っていたなら、今年もインターハイに出場できたのではないか。海南にも勝てたのではないか。湘北への嫉妬にも近い声が絶えず三年生の間で交わされていた。
「先輩……」
花形の話を聞いていたのかいなかったのか、無表情の彼が問い掛けた。
「卒業したらどうすんすか?」
何故、突然そんなことを、と尋ねんばかりの顔で花形は流川を覗き込むが、素直に答える。
「俺は大学行くよ。もちろんバスケはやめない。まあ大して力入れてるようなとこではないが」
「どこ?」
「いや、地元のだよ。……なんで?」
「いや」
そんな流川の視線はずっと、正面奥のゴール下に立つ、赤い髪を追っていた。赤木を始め、牧や藤真にも細かく指導を受ける後ろ姿を。忽ち三井や宮城も集い、未だに奥だ手前だと言い争いになるまでを見届けていた。
――過去、他を寄せ付けない流川の性格と有り余る実力は、適当な指導者をも寄せ付けなかった。この先伸びると踏んで何かと口を出す指導者は皆、流川の性格にも触れてきたからだ。部活でもスポーツクラブでも、それはバスケの育成を兼ねた子供の育成でもあるからだ。
一度忠告を無視された指導者は一様に告げる。
「バスケはチームプレイだ。個人競技ではない」
高校に上がってからは、形はどうあれいつも先輩に可愛がられる桜木が隣にいた。羨望の眼差しこそ見せない彼だが、個人練習を積むだけが成長に繋がるわけではない。バスケは1on1の個人競技ではないと、改めて気付いたのは最近のインターハイだった――。
流川は再度、花形に申し出た。
「先輩のフェイダウェイ、見して欲しんすけど」
コロコロ変わる流川の話に呆然とする花形だが、フッと微笑み、立てた片膝から立ち上がった。
「じゃあ、交代だ」
そうしていざ、流川が目の当たりにした花形のフェイダウェイショット――。先程花形の口からから出た『経験』を彷彿とさせる身の捌き。後方に傾きディフェンスを避けた後の、ボールを放つタイミングにまるで迷いがない。程なくボールはリングをくぐる。
柔のセンターと称されるそのしなやかな動きは、バスケの技術云々は別に、どこか芸術的な美しさが滲み出ていた。
流川は拾い上げたボールを再び差し出した。
「もう一回」
腰低くディフェンスに徹する。花形が切り込みシュート体勢に入ると、待ち構えていた流川はここぞと飛んだ。シュートコースを大きく妨害する、その手前で花形が後ろへ飛び……――――
傍らで見守っていた藤真が長谷川に言った。
「花形って意外と面倒見いいよな。頼られるとまず断れないタイプだぜ?」
「ああ。湘北戦ときちょっと思った」
光る汗が舞い散る中、流川は見事それをブロックした。タイミングを巧く読んだハエタタキが的中し、ボールが勢いよく床へ叩き落とされた。同時に花形も後ろへ倒れ込み、すぐ駆け寄った流川の手が先輩に差し伸べられた。
「すまないな」
その手を取った花形は、ずれた黒縁を微調整しながら呟く。
「ディフェンスも、大分成長したんだな……」
起き上がった彼の、嬉しくも寂しくも取れる表情が陰りが覗いていた。
そんな後半戦の結果は七割ほどだろうか。やはり花形の経験が若干モノを言ったところで監督らが戻ってきた。

その夜。二日目の練習はさすがに応えたか、すでに真っ暗な三号室にはそれぞれの寝息が響いていた。が、畳んだ眼鏡が枕元に置かれた右端の布団で、裸眼を晒した彼だけが天井を仰いでいた。遠く蝉の声が響く闇の中に、花形は今日を顧みていた。
一年にしてベストファイブに、全日本ジュニアにも選ばれた流川が自分に指導を申し出てくれたこと。だからこそ負けられなかった。大人げないと思いながらも後輩相手に本気でぶつかった。先輩としての余裕などなかった。しかし何とか結果は出たものの、それはほんの僅差。もし、流川が本気を出していたら……そう思うと、少し自信をなくしそうだった。
頭の後ろに手を組み、隣で眠る横顔を見つめる。それは小さな寝息を立てるだけで、ボールを持たない無防備な彼は、今はまだ十五歳の幼さを漂わす。少しだけ開いた唇がカーテン越しの月明かりに浮かび、嫉妬に達しそうだった花形の心も気付けば溶けて消えようとした、その次の瞬間だった――――。
流川が大きく布団を蹴り、ばっ、と音を立てて豪快に寝返りを打つと、なんと勢いそのままに花形の布団へ潜り込んできたのだ。仰向けのままただただ目を瞠る花形の脇に、バクバク打ち鳴らす心臓のすぐ傍に、初日のバス同様その頭がぴったりと寄り添っていた。
間も無く流川の寝相は納まり、再び寝息をぶつける彼に花形はすっかり硬直する。額から無言の冷や汗が零れ落ちる。闇に冴え渡る裸眼すら微動だにせず、硬く不自然な寝相を専ら保つことで夜の静けさに混じ入った。
一方で、寝息を打ち消す激しい鼓動は鳴り止むことがなかった。しかしそれは、徐々に別の音へと変わっていった。ドクドクと熱く息づく音が微かに乱れる呼吸を伴い、隣接する夢の中へ、何かを訴えかけていた。
皆が深い眠りにある今、それは、他校の後輩から愛しい何かに変わろうとしていた。
……が、仮にも今は合宿中。剰え許されぬ想いが叶うわけもなく、一度冷静に返った花形は軽く上体を起こす。寄り添う流川のはみ出た肩に布団を掛けてやり、再び布団に着こうとしじまに衣擦れの音を響かせた。すると、流川の身がビクッと揺れた。頭に違和感を捉えたのだろう。二人で満員の布団をもぞもぞとさせながら、それは、遂に目を覚ましてしまったらしい。
流川はムクッと起き上がり、頭をボリボリ掻きながら、寝ぼけ眼で寝ていた場所を確認していた。
その様子を薄目を開けて見ていた花形は、すぐに隣の布団に戻るだろうと寧ろ安心していた。
が………どういうわけだろう。流川がそのまま、今、仰向けで寝る隣の胸に大きく抱き付いてしまう。
すっかり狐に摘まれたようだ。流川の腕が胸囲を測るようにしっかりと絡み付いて、なまじ脇に額を擦り付けてくれば、先程の感情を更にと呼び起こしている感さえある。
寝ている肩に一度手を掛けた花形だが、途端、不機嫌に顰める寝顔を見ては思い直す。
「まあ、いっか……」
小さく呟き、手を離した。
「流川、そんなに俺が好き?」
唇だけで囁いては今にも声を漏らしそうに笑い、やがて、花形も漸く眠りに就いた。

一方で、流川は今、深い海の底。揺蕩う波に揺られながら、ぼんやりと仰ぐ水面へ深い息を吐く。天から降り注ぐ柔らかな陽射しにそっと瞼を閉じ、また、安らかな寝息を立て始めた。フゥ、と吐いた気泡がぶくぶくと、澄んだ水中を上っていった。





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