夕食と入浴を各自自由に済ませる中、食器を返却した翔陽メンバーは揃って食堂を出た。首にタオルを掛け、三人は練習着のまま横に並んで歩く。廊下でスリッパをペタペタ鳴らしながら、中央の藤真が三人の監督について、今日体験したそれぞれの指導スタイルを翔陽監督視点で二人に語り出した。
「高頭監督はなんと言っても実戦に長けてるよな。正にコート上から見てる。戦術も豊富ながら指示出すタイミングも然り。まあ、海南だからな。田岡さんは如何にも厳しいが、やる気ある奴はああいうのに着いた途端、ぐんぐん伸びるぞ。あの熱意と向き合うことで精神面も養われる。理想的だな。……そして安西監督だ。何もしてないって思ったけど、あの人が一番人を見てた。一志も最後言われただろ?」
「ああ。一度PGやれと言われた」
ボソリと低い声を発した長谷川に、そういうことかと藤真は頷く。 続いて花形にも問いかければ、腕を組みつつ歩く彼は難しく顰めた顔で言った。
「……俺は、全く意味がわからない」
「何言われたんだ?」
「君は、後輩の指導と練習を両立しなさいと……」
「後輩の指導?」
藤真もまた眉根を寄せた。
「一応やってはいるんだがな。一体何が言いたいのか……」
「…………ああ。そうか」
一人納得する藤真を両脇が覗き込むと、彼は安西監督から自らへのお告げを意味深長に明かした。
「俺はな、練習でのキャプテンはしばらく花形にまかせて、時間掛けてじっくりSFも身に付けろって言われたんだ。一人で打ち込めって。……知ってるだろ俺の3P。見極めてんだあの人は。伊達に元全日本謳ってないな」
そうして階段を上り終えた三人はそれぞれの部屋へと帰っていった。また、と背中を向けた花形は三号室の前へ、その静かな引戸を開けた。
明るくも無人の八畳に踏み入り、壁に寄せられた四つの鞄の前に膝を着き、着替えを取り出す。開けっ放しの二つはすでに風呂へ向かった様子だ。
そこに、背後の戸がスッと開いた。
「……? 流川か」
花形が振り向くと、練習着の流川がタオル片手に、引戸の前に立っていた。
「ご飯、済ませた?」
「食いました」
ボソリと呟く丁寧な返事。花形はフッと微笑み、「風呂はまだ?」頷く流川に一緒に行くかと促せば、再び無愛想な反応が返ってきた。そんな流川の準備を待ち、程なく揃って部屋を出た。花形を先頭に流川が大人しくその背中をついていった。
行き着いた脱衣場は、湯気を漂わせた数人が出て来れば、奥の浴室からはシャワーの音が響くまで。立ち並ぶロッカーの前で花形がティーシャツを脱いでいると、すでに全裸となった流川が無言でその様子を見つめていた。何を言うでもなく、隣に突っ立ったままただただ無表情に見つめていた。
射るような眼差しに気付いた花形は、ん?と隣を見やると同時に、百八十七センチの裸体を目の当たりにする。あまり雄の匂わない肌の白さ、線のしなやかな筋肉が黒縁のレンズに映り込む。
「流川は、色白だな」
花形は視線をそのまま、茫然と零していた。
「せ、先輩も……」
またボソリと返された言葉に、花形は自身の半裸に目を落とす。そっか、と苦笑を零し、浴室にも二人で入った。
それから部屋に戻る時も一緒。口下手なだけで別に嫌な人間ではないこと、無愛想なりにきちんと声を返してくれると知った花形は、今も香り立つ湯気と共に、砕け出した先入観も蒸発させていった。
声の漏れる三号室の戸を開けると、中では仙道と清田がキャッキャと騒いでいた。布団に腰を下ろした清田は仙道の下ろした髪を指差し、ゲラゲラ笑いながらこう言う。
「いっすよ仙道さん、そっちもいけますって」
調子よく煽てる後輩に仙道も調子よく応える。
「あはは、やっぱり? さすが海南のルーキーはわかってるねぇ」
花形は見ていた。立ったままの入り口から、仙道に向けられた羨望の眼差しを――――。
翔陽と同じインターハイ不出場組であるものの、仙道は別格の評価を受ける。次期神奈川ナンバーワンと称され、雑誌にも載ったことですでに全国から注目を浴びていた。そんな仙道をいつか越えてやろうと、中でも流川が目を光らせているのは周知に等しい。
そんな仙道が二人に言った。
「あ、二人の分の布団も勝手に敷いときましたよ」
「ああ、ありがとう」
現ナンバーワンの帝王にはない、やや抜け気味で気さくな風格。頼もしく憎めない笑顔が花形の目に眩しく映っていた。
その時、二人の立つ引戸の向こうから騒がしい声が届いた。藤真、神、宮城、桜木らが廊下で個々の笑い声を上げ、開いた戸から三井が覗き込んできた。
「これからトランプやるんだが、お前らもやるか? うま○棒争奪戦だ」
「あ、やるー」と立ち上がる仙道に続き、「じゃあ俺も行くっす!」と清田も揃って廊下に出ていく。続いて中を覗き込んだ藤真が残る二人を誘う。
「花形……と流川は?」
「俺は疲れたからいいよ」
花形に次いで、流川も「いっす」と首を振る。
そ、じゃぁなと戸が閉められ、おそらくバス後方組であろう彼らはぞろぞろと別の部屋へ向かっていった。
カーテンの隙間から蝉の鳴き声と僅かな涼を迎える中、特定の容易い笑い声が壁の向こうから漏れてくるほど、三号室は静かだ。ページを捲る微かな音は壁際の布団から、敷かれた布団に半身を埋めた花形がうつ伏せに洋楽雑誌を捲っている。頬杖を着き、並ぶ横文字を無言のレンズに映し続ける。
その隣の布団に流川が腰を下ろした。寝間着のジャージ姿で膝組み、濡れた黒髪をタオルで適当に散らしている。そして、枕元に置いたのは彼の必需品だ。携帯CDプレイヤーとCD二枚。流川はsynspilum と記されたその一枚を手に、パカッとケースの蓋を開けてはプレイヤーにセット。するとその音に反応して、花形が頭を上げた。彼は置かれたジャケットを目にするなり……
「好きなの……? synspilum」
目を丸くして尋ねると、横目をやった流川は無言で頷く。
「そうか……しかし偶然だな。俺も好きで、ビデオも結構あるんだ。俺もプレイヤー持ってくればよかったな」
思わぬ好みの一致に、流川の目の色が刹那に変わった。意思ある瞳が隣の眼鏡の奥をまじまじと見つめ、早速ビデオに食い付いたようだ。
「何の……すか?ビデオ」
稀にしか窺えない流川の貴重な感情が花形の口元に向けられていた。
花形は数瞬をおいた後、横文字のタイトルをいくつか並べた。
「それ、借してほしいんすけど……」
「ああ、構わないよ。そうだね、輸入版は置いてる店も限られてるからね。ただまあまあ量あるから…………じゃあ、合宿から帰ったら送ろうか?」
家もそれなりに遠いとした上での花形の適切な提案だった。が……
「いや、自分が行くっす」
健気な返事は、先輩後輩を弁えた流川なりの遠慮だろうか。
「まあ、構わないけど……翔陽方面わかる?」
流川が首を振り、「地図があれば」と付け足せば、花形もそのあまりの必死さには笑みを零さずにいられないようだ。
「はは、いいよ。じゃあ、H駅まで来てくれれば、そこで渡すから」
「すみません」
「意外だな、まさか流川と趣味が合うとは」
程なく隣の布団に入った流川はうつ伏せに、手にしたイヤホンを耳に挿そうとして、隣の雑誌を覗き込んだ。気付いた花形が開いたページを隣に寄せると、そこにはsynspilumの字が他のアーティスト名の中に埋もれていた。
「もう少し名前が出るようになれば、いずれ日本にも来るかな」
囁きにも似た花形の呟き。そこに返ってきたのは共感を伝える言葉ではなく、流川の片手だった。手にしたイヤホンの片一つが無言で差し出されたのだ。
花形は小首を傾げるが、真っ直ぐに見つめてくるその端正な顔立ちに、今朝バスで隣席してから趣味を共有するに至る急接近に、遅まきながら驚いていた。そして今もまた、更なる歩み寄りが齎されるのだろう。花形の口角が柔く持ち上がり、「いいの?」その片方を受け取った。
そのまま、ただただ静かな時が流れた。クリアな旋律が二人の片耳を癒やすだけ。先輩後輩を以っての無駄な気遣いというのも今は存在しないのは、きっと、互いに互いの無言を許容しているから。穏やかで緩い呼吸だけがその部屋に重なって響いた。
途中でふと、眼鏡を外した花形の横顔を流川は見つめていた。晒した裸眼の覗く顔立ちを間近に眺め、ほぼ同じ長さの黒髪と、ほぼ同じ高さの鼻と、視線を落とす優しい二重瞼……
もし、俺に兄がいたら……――――――――
流川はそっと瞳を閉じ、片頬をゆっくり枕に預ける。そして、溶け入るような深い寝息を花形の隣で立て始めた。
寝息に気付いた花形はプレイヤーを止め、イヤホンを外し、腰までしか掛かっていない流川の布団を肩まで掛けてやる。少しの間その寝顔を見つめながら、まるで、弟にでもしてやるように……。
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