「……んぁ、ハッ……せ、イク…………」
「洋平くん、俺も、いーい?」
「あぁ」
「…………っ!!」
最初に仙道宅での一夜を迎えた日から、洋平は偶にそこを訪れていた。洋平にとって一人暮らしをする気さくな年上の存在はなかなか居心地が良いのだろう。
今日もコトも済ませた二人はベッドの上で、シーツは乱れたまま服も着ぬまま談笑に花を咲かせていた。
「……したらさ、流川のヤツトイレにまで付いて来てよ。結局トイレで一発やっちまった」
「トイレ? はは、それは楽しそうだなぁ」
「狭いし嫌だって。このでけぇベッドのがマシ」
「そう? トイレも試したいけど」
「……あんたは変な趣味走んないでくださいよ仙道さん。変態は流川で十分だ」
「あはははは! 変態って、ひどいなぁ洋平くん」
「この前ウチ来た時だって、明らかにAV見て来たようなことしやがって、まあ悪くはなかったけど」
「えっ、流川家に呼んだの?」
それまでヘラヘラとしていた仙道が食い付いたのはそこだった。
「帰れっつったのに、流川のヤツ泊まりやがった」
「洋平くん、今度俺も行きたい」
「あんたも? 花道来て流川来てあんたまで来たら、お袋ビックリするじゃねーか。日本の平均身長疑うぜ?」
「あはははは、じゃあ木曜日でいい?」
「あ、本当に来んの?」
「うん、湘北と違ってウチは予選真っ最中だから、その日くらいしかないんだよねぇ」
「いや、無理しなくていっすよ。バスケ優先してください」
「うん、じゃあ木曜日ね」
……流川と仙道は意外と似ている。強引に我を通すか漫然と我を通すかの違いだが、すでに力ずくで我を通す桜木の存在があっては洋平にとっても手慣れたもの。今更呆れる素振りすら見せず、それよりも……と申し出た。
「まぁ別に構わねーけど、仙道さんタバコいい?」
「うん、いいよ」
肯くと、仙道は決まって洋平の許を離れ、窓を開けては戻らない。窓際とベッドの数歩の間隔で、喫煙者と嫌煙者が別々に過ごすこの時間はあの日から何も変わらなかった。が、今日の洋平は違った。
「……仙道さん、やっぱ今日はやめる」
そう言って、口にしようとした一本を宙に留める洋平には仙道も驚いていた。
「えっ? 別に構わないのに」
「俺も本当はやめてぇんだ」
「体に悪いからね」
「みんな嫌うしさ。花道も……やっぱスポーツマンに煙草はダメなんだな……」
ベッドの上で背中に薄掛けを羽織っただけの全裸の洋平が、一本を箱を押し込むその表情は仙道の初めて見るものだった。何やら察した仙道はベッドに戻ると、静かに力強く、洋平の背中を抱き竦めた。するとそれに応えるよう、洋平が唇を差し出した。
それから徐々にではあるが、仙道といる時は確実に本数が減っていった。洋平にとって仙道との出会いは少し特別だったようだ。年上の包容力により、洋平の禁煙は叶うかもしれない。
「このまま、やめられっかな……」
呟いた洋平は、一度は箱を握り潰した。
三日後、二年五組の教室には今日もだらしなく机に頬杖をつく洋平がいる。そして今、その背後からのっそりと巨大な影が忍び寄ってくる。
「水戸……」
「……!? なんだ流川か。オメー怖ぇよ」
唐突な流川の登場にがばっと上体を起こす洋平だが、その瞬間、流川はある違和感に気付いた。
「最近、タバコ吸ってねーの?」
「まあ……。わかんの?」
「臭いでわかる」
「犬かオメーは」
犬ではない流川でもわかるほど洋平の禁煙は進んでいたようだ。しかしあれほど煙草を忌み嫌っていた流川は今、どういうわけかむくれていた。
「何? 嬉しくねーの?」
「いや……」
「で、用件は?」
「今日またお前んち行く」
またも唐突な流川の誘いに、洋平はノーを返した。理由はそう……。
「今日って……アレ? 木曜か。じゃー無理だ。今日は仙道がウチ来んだ」
その名前が発せられた途端、流川の目は大きく剥いた。
「湘北と違って予選あるから今日くらいしかねーっつってた。まあ俺はもちろん湘北応援してっからよ、がんばれな流川」
正当な理由を以て断られた以上、流川は無理を通すことをせず黙って席に戻っていった。
正当な理由……流川にとって超えなければいけない壁は、知らぬ間に更に高くなっていたようだ。
その日の放課後も、流川の練習は毎度のこと上の空。ぼんやりと見つめるその先は決まって体育館の出入り口だ。しかし当然、今日予定があるという洋平の姿はそこにない。流川の欲しかったものはとりあえず手に入ったというのに、今日が駄目でもまた誘えば洋平はきっと応えてくれるというのに、それでも気付けば追っている。洋平を…………いや、あの煙の匂いを――――。
そんな流川に対する宮城の鞭撻は日に日に厳しくなっていた。
「またかよ、流川テメー!」
今年三年の彼にとって、最近の流川の態度はまるで挑発でしかないのだ。予選も終われば試合はすぐ、キャプテンとして先輩として、仲間として、流川の尻を引っぱたく必要があった。
「オメェ今日はもう帰れ、練習の邪魔だ」
バスケはチームプレイ、一人の不調によって全体に影響があってはならないという、当然の命令だった。
それは流川自身も重々わかっていることで、勿論何も反論はない。彼は言われた通り大人しく体育館を去ろうとした。
「おい流川……!」
真っ先にその背中を呼び止めたのは桜木だった。意外……とでも思ったのだろう。一度は足を止めた流川だったが、振り向くことなくまた去ってゆく。その背中を見つめ、桜木は深く項垂れた。震える拳で壁を殴った。
「クソッ、ダメだったか……」
消え入りそうな嘆きの霧は流川の背中を追うようにして、その姿を見失い、黄昏の風に霞んでいった。
今、流川が足早に進む方向は自らの家とは逆だ。家にも帰らず部活を放り出してまで一人黙々と歩を進める彼の目は、今日の蒸し暑い湿気を模したように虚ろだった。後ろに長く伸びた影はあの煙が罹ったように歪み、まるで毒を帯びていた。
一方、仙道と洋平はすでに洋平の部屋で、ベッドの上で戯れていた。
「洋平くん、お袋さんはいつ帰ってくるの?」
「夜中」
「そうなんだ。じゃ……」
仙道は洋平の頭を片手を回し、早速ディープキスを仕掛ける。洋平のシャツのボタンを二、三外し、下のベルトにも手をかけようとしたその時だった。突如ガタンッと開くドアの音に二人は慌てて手を止めた。
「お母さん、帰ってきた?」
「いや、今日は仕事のはず……」
そう話している間にも足音は近付き、今、洋平の部屋のドアレバーがガチャっと回り、扉が開いた。
「流川――――!?」
悪びれず部屋の入口に立ち尽くす招かれざる客を見上げ、二人は唖然としていたが、まずは洋平がその不法侵入を咎めた。
「オメーさ……ったく、人んち勝手にあがんなよ」
「人んちじゃねぇ、恋人の」
「…………」
場違いな科白も度を越せば外の空気までうすら寒く、ほんのり雲も垂れ込める。洋平はすっかり言葉を失っていた。
三角関係を築く男三人が今改めて顔を合わせたわけだが、三人がそれを承知でこの関係を続けていたとしても、今のこの状況はさっさと流されるべきだろう。一人でも気安く笑みを零せるような朗らかな空気はここにないのだから。そしてその空気を作った原因は言う間でもなく流川にあり、あえて修羅場を作った彼にはこの状況を何かしら解決へと導く責任があるにも関わらず、無責任に立ち尽くす彼はこの場においても無神経を貫く。それぞれの溜息や舌打ちに交錯した想いが入り混じり、益々雰囲気は悪化した。
……バスケにおいて、このように何かしら良くない場面を打破するのもエースの役割だという。ここにエースは二人いるが、すでに毒を帯びた一人の眼が映すのは恋人のみ。素直に謝り立ち去ろうとする気配は微塵もない。
そうなれば残る一人に役割は委ねられる。今、突如無言で立ち上がったのは仙道だった。無表情に部屋の入口まで歩み寄ると……………………流川を殴った。
ほんの数瞬の出来事で、左頬にもろ拳を喰らった流川はその場に倒れ込んだ。立ち上がると直ぐ反撃を仕掛け、洋平の目の前で今、醜い殴り合いが始まってしまった。狭い室内でバタバタと、二人の大男が暴れればそこは当然騒がしくなり、テーブルがひっくり返り灰皿が床に零れ落ち、そこら中に埃が舞う。
仙道とて、今日の流川の登場は面白くなかったのだろう。殴り返しつつ苦言を呈した。
「流川、せめてルールは守れよ」
ベッドの上の洋平もまた、苛々していた。それは依然殴り合いを続ける二人に対し…………いや、流川にだ。
「流川やめろ」
洋平の一声で振り上げたばかりの流川の拳が一時宙に止まるが、すぐに仙道めがけ振り下ろす彼の目に、冷静の二文字はない。倒れた仙道の上に馬乗りになった流川に対し、洋平が再度、低く据わった声を発した。
「流川、出てけ」
流川は再び色をなすが、それが先に攻撃した仙道ではなく、流川に対する忠告であることに、徐々に力なくゆっくりと拳を下ろしていった。大人しく仙道の上を離れ、上体を起こそうとする仙道を睨めつける目には、流川の知らない二人の時間が映しだされていた。
洋平は再び流川に言った。
「出ねぇのか?」
とても恋人に向けるものではない冷酷な眼差しだ。当然ながら今ここを出て行くのは流川だと、だから早く出て行けと、氷の目で諭された流川はクッ……と歯噛みする。それでも負けず嫌い故か、悄然と視線を落としたままそこを去ろうとせず、佇んでいた。痛々しく頬を押さえつつ立ち上がった仙道もまた、苦虫を噛み潰したような顔で二人の間に立ち尽くしていた。両のエースは寧ろ状況を悪化させたのだ。
「じゃあ俺が出るわ。二人で遊んでろよ」
見兼ねた洋平が俄然ベッドを下りると、その場に二人を残したまま部屋を、アパートをさっさと出て行く。
「巨人同士の喧嘩なんて、巻き込まれたら命ねぇよ」
一人捨て台詞を吐き、シャツのボタンも開いたまま、かっ怠そうな足取りで薄暮れの住宅街を歩いて行った。
一方、洋平の部屋に残された二人の間には長く静かな沈黙が続く。遠のく洋平の足音も消え、やがて二人の呼吸も落ち着くと、仙道が先に口を開いた。
「流川悪い。殴ったのは謝る」
ハァ、と落とした溜息に今日の疲労を宿し、主の消えたベッドに腰を下ろすと、いつものおおらかな先輩として流川に話しかけた。
「ビックリしたよ。お前も結構本気なんだな?」
それでも無言の流川にはもう一つ……。
「今日、俺がいること知ってて来たのか?」
頷くだけの返事に「そっか」とだけ笑い、そしてまた暫く黙った後、「じゃ、俺帰るわ」そう言って、身支度を始めた。
そしてその帰り際、依然立ち尽くしたままの流川と擦れ違いざま……――――
「……流川、タバコの煙だけは気をつけろよ」
直後、バタンとドアが閉まり、雑然と散らかった部屋には流川一人が残された。そんな彼の目はずっと虚ろなまま、視線の先には床に転がった洋平の吸いさしがある。彼はそうっと、その一本を拾い上げた。
――煙草は体に悪い。吸う本人も、副流煙を吸う周囲の人間にも害がある。そう幼少の頃から口煩く習う。
しかし流川の親父も昔から煙草を吸うが、その所為でバスケに影響が出たことは一度もなかった。
「じゃあ、何が違う……?」
流川の頭はまたも白い煙に覆われ、そのまま暫く洋平を待ったが、その日、その人が帰ってくることはなかった。
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