妖艶の煙 5


仙道が体育館に現れてから二日後、洋平はいつも通り登校した。流川はその姿を朝からずっと凝視していた。
これまで洋平は授業を抜けてサボることはあっても、学校を休むことはなかった。その稀な欠席がよりにもよって仙道が現れた翌日だったのだ。
流川の行動は早かった。午前中の休み時間、怠そうに机に項垂れる洋平の前に回り、その正面から黒い影を落とし、「水戸……」と声をかけた。
「ん……? 何だ流川か」
寝ぼけ眼で顔を上げた洋平に、「来い」とだけ告げるとそのまま廊下へ、億劫そうにのんびりと席を立った洋平の足音を後ろに、階段を下り校舎を出て、やがて足を止めたのはまたも部室だった。
日中の誰もいない部室で、洋平が入るとすぐドアを、鍵を閉めた流川は早速問い質した。
「仙道と何があった?」
ドアの前に立つ洋平を囲うように両手をドアに着き、その惚けた面を見下ろし、「言え」と咎める。
ポケットに手を突っ込んだまま突っ立った洋平は、ハァ、と溜息を吐いたあとで漸く口を開けた。
「オメーさ、一体何がしてーの?」
「言え!」
怒鳴りつつ更に洋平に迫った流川がその襟首を掴み上げた途端、それは一層怒りを増す結果となってしまった。今、流川の両手に開かれた襟の奥から無数のキスマークが覗いていたのだ。
「水戸……テメェ…………」
「仙道さんとセックスしてきた。そんだけ。もーいい?」
悪気のない洋平の態度に流川の怒りが収まる気配はなく、より鋭い目で睨め付ける。
「ダメだ。俺ともしろ。じゃねーと気が済まねぇ」
洋平は呆れて笑った。
「ははは、俺はオメーの何なんだよ。大体、どこでするってんだ? 仙道さんは一人暮らしだ。準備がいい」
どこ……と言われ流川も困った様子だ。煙草の件で今も宮城の気が立っていてはまたここでというわけにもいかず、暫く悩んだ末に流川は答えを出した。
「テメーんち」
「は…………?」
「テメーんちでする」
「な、何で俺んちなんだよ?」
一方的且つ急な提案に洋平は狼狽えるが、流川の想いを裏切った彼に拒否権はないようだ。
「親いつ居ねー?」
「……はぁもう、お前ってほんっと強引だよなー」
「言え」
「親は昼間しか居ねぇよ」
「じゃあ今日」
「は?」
「今日テメーんちでする。帰り待ってろ」
「な、何だそれ……」
今日の放課後、洋平の家で、と約束が結ばれたところで折しも休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。流川は「ぜってー待ってろ」とだけ告げると、先に部室を出て行った。
「……はー、バカばっか」
一人ぼやいた洋平は、静まり返った部室を後にすると、そのままトイレに向かっていった。

その日、午後から雨が降った。暗くなるにつれ雨は強まり、次第に雷も鳴り始めたので今日の部活は早目に終わる予定だ。
今日も気の入らない流川はぼんやりと、いつもは居るはずの体育館出入り口を見つめていた。
「帰ったか……?」
部活が終わってもそれは姿を現さなかった。着替えを済ませ体育館を出た流川は傘もささず、ずぶ濡れになった肩を悄然と落としたまま、とぼとぼ駐輪場に向かっていた。すると……――――
「お疲れ」
背後の声に振り向けば、ビニール傘を差した洋平が駐輪場の脇に立っていた。が、ほんの少し肩が濡れて白いシャツが透けていた。
「風邪ひくぞ」
「ははは、平気だ。こっち。行こーぜ」
瞬く間に流川の顔が晴れ渡る。二人は相合い傘で学校を後にした。
流川にとって初めての徒歩下校はしとしとと降り続く雨の下、いつもと逆の道を行く。途中、洋平が流川に甘えてくる。
「並ぶとやっぱ流川もでけーな。傘持つのだりーぜ」
身長差で傘の位置を合わせるのに苦労していたらしく、流川がやや強引に傘を奪う。
「俺が持つ」
「はは、悪いね」
「いや…………」
……悪くなんて、と言わんばかりの顔が同じビニール傘の青に染まっていた。傘を持つ流川に歩幅が揃えば足取りは徐々に軽く……そう、ピッチピッチ、チャプチャプ、ランランランなリズムに横から洋平の白い目が突き刺さった。
その後コンビニでの買い物を済ませ、到着した洋平宅は、下校中に洋平が語った通りの二階建てアパートだ。2DKでお袋と二人暮らしと言っていたが、あまりその存在感はない。まるで越してきたばかりのように物が少なく、生活必需品がそれぞれ置かれただけで、唯一生活感があるといえば洗濯機前の洗濯物程度だ。女性物の下着がきちんとネットに入れられていた。
それともう一つ、玄関を開けた瞬間からやはり臭っていた。きっと洗濯しても取れない臭いがこの部屋には染み付いていて、壁がうっすら黄ばんでいる。他にも準必需品ともいえるカレンダーや時計もない、テーブルクロスすら掛かっていないキッチン前のダイニングテーブルを見て、茫然としていた流川に声がかかった。
「ん? 上がんねーの?」
「いや……なんつーか、なんもねーな」
「今朝ゴミ出したばっかだからな。こんなもんだろ。でも仙道さんちの方が綺麗だったぜ?」
流川の露骨なふくれっ面をよそに、洋平が二つあるドアのうちの右の部屋に通した。踏み入った六畳のそこは先程と同様簡素なものだが、ぐるりと見回す流川の目に留まったのは中央のローテーブル、上に置かれた灰皿の吸いさしだ。その苦い香りが部屋中に充満していて、勿論、壁際に寄せられたベッドにも染み付いている。洋平がベッドの縁に座った途端、ふわりと漂った。眉を顰める流川だったが、ふと洋平の許へ、ベッドに歩み寄った彼はその隣に腰掛けるなり、だらりと寝そべる。
「もう眠いのかよ」
洋平の突っ込みも気にせず、フゥ、と一息。うつ伏せに寝転んではそっと瞳を閉じ、少しへこんだ枕に顔を、鼻先をぐりぐりと擦り付けた。そこだけは少し別の香りが、あの夢の中の香りがした。
「なーにやってんだよ」
洋平の呆れた声ではっと目を見開いた流川は上体を起こすなり、同じベッドの上にいる洋平に後ろから抱き付く。逸る唇が早速洋平のうなじを這うが、洋平の右手がそれを否した。
「待て流川、飯」
先程コンビニで買ってきた弁当を急いでたいらげる流川と、のんびりテレビを眺めつつところどころ箸を止める洋平。漸く空になったのを見届けた流川だが、すっくと立ち上がった洋平は「の前に風呂」とシャワーを浴びに行ってしまった。またもおあずけを食らった流川は今一度ベッドへ、その枕に執着していた。
三十分後、「ふーっ」と浴室を出た洋平が満足気に浴室から戻ってきたことで、流川はがばっと上体を起こす。漂う湯上りの香りにはっと目を剥いていた。夢の中で知った香りが今、ここにあったのだ。加えて洗ったばかりの何も手入れをしていない髪が、掻き上げただけの前髪が無造作に垂れ落ち、学校では見ることのない姿を目の当たりにした。
「水戸…………!」
大きく生唾を呑み込んだ流川は、首に掛けたタオルで髪を拭っていた洋平のその手を引っ張り、無理矢理ベッドに押し倒した。何の抵抗も見せない洋平へ速やかに口付けを落とした。教科書という名のAVで見た、舌を絡めるキスをごく自然に施す。口を濯いできたのか、あの苦辛味のないキスは長らく続いた。
唇に吸い付いたまま優しく洋平の上体を起こし、そのタンクトップを脱がす。トランクスを下ろすと、一糸纏わぬ洋平は流川より一回りも二回りも小さく、それでいてしっかりと付いた筋肉はあの腕っ節を想起させる。しかし首筋から胸元にかけて散らばるキスマークは未だ消えず、その薄く赤い無数の痕跡を消すよう指先でなぞりながら、流川は再度口付けた。次第に胸の頂に行き着けば始めて反応が、それまで人形の様だった洋平の身がピクッと跳ねた。ビデオの女優までとはいかないが、微かに悶えるような表情まで浮かべていた。
「……っし!」
手応えを掴んだ流川は勢いに乗り、早速ビデオで得たテクニックに挑んだ。焦らす様に胸の中心を避け、しばらくその周りギリギリにのみ刺激を与え、忘れた頃に突起を口に含むという素人にない技を為したのだ。すると、喉奥に留めた甘い声が「ンッ……」と微かに響いた。
流川は何度も繰り返した。その度に洋平はびくびくと身を震わせ、声を小さく響かせた。
「……んっ、ン……ハァ……流川……」
「……?」
身悶える合間にはっきりと名前を発せられたことで流川は愛撫を中断、顔を上げる。
程なく上体を起こした洋平は一息を置くと、何事かと答えを待つ流川の目を見つめ、先程の妙技に至る真相をずばり言い当てた。
「流川さ、AV見たの?」
「…………」
途端に視線を逸らした流川は正に図星と言っていた。
「ははは、それでまた俺んとこくるってことは、やっぱオメーに女は無理なんだな」
その通り……何もかも見透かされているようで流川が何も言い返せずにいると、洋平の手が流川の頭に優しく触れた。呆れ返ってばかりの口が珍しく流川を褒めた。
「いーぜ流川。一途なヤツは大好きだ」
その言葉が本心かどうかはさて置き、面と向かって放たれた『大好き』に流川の目は輝いた。…………が、それも一瞬のこと。
「さてと、一服すっか」
洋平の一言に流川は幾度と振り回され、一喜一憂を繰り返す。洋平にその自覚はないのか、彼はあの時と同様、先程までの艶っぽさが嘘のように、無表情に煙草を蒸かしていた。もくもくと音もなく、筋を描いて昇り立つ白い煙により、浴室を出てすぐの清潔な香りは次第に毒と化してゆく。閉め切った部屋に充満すれば、必然的に流川の肺まで届こうとしていた。
しかし今更煙草ごときでめげない流川は再び洋平の脚の間に入り、中心に生えたソレを手に、その萎えた先端を口内に咥え込む。AV女優を彷彿とさせる舌遣いで自らの喉奥まで含んでは頭を上下させるが、どんなに忙しく口を動かそうとわざとらしく音を立てようと、一向に勃起する気配はない。まるで洋平の表情そのままを体現していた。
チッ、と舌打ちを漏らした流川もまた上体を起こすと、洋平に眼前に詰め寄る。きっとコレの所為だとばかりに鋭い目つきでその忌々しい一本を、赤い先端を目がけきっぱりと言い放った。
「煙草、後にしろ」
洋平はそれに動じることなく改めてスゥと吸い、短くなった一本を口から離してすぐ、流川の顔の中心目掛けプハーッと煙を解き放った。直に毒を吸い込んだ流川はゲホゲホと咽り出し、目を潤ませ、口を抑えた。そこに「嫌だ」とだけ洋平が冷たく答えた。
流川はキッと睨め付けるが、その怒りを自ら抑制した。これまでならすでにぶん殴っていたわけだが、今日は両の拳を強く握り締めることで堪えている。決して切り離せない洋平と煙草、それが愛しいが故の憎さと相成った。深く吸って長く吐き、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
その様子を黙って見ていた洋平はテーブルの灰皿に手を伸ばし、そこに残した三分の一のを処分する。そして今度は洋平が誘う。
「んなことよりさ、もう挿れてよ流川」
流川は先の憎しみなど忘れたように数瞬の間洋平を見つめ、がばっと抱き竦めた。首筋への愛撫はその興奮を伝えるよう、右手に握った洋平のソレが微かに熱を帯びてきたのを捉えると、洋平を押し倒した。仰向けの洋平の両脚を抱え込み、我慢ばかり強いられた流川のソレをあてがい、いざ一思いに貫こうとしたその瞬間…………洋平の悲鳴が上がった。
「痛っっってっ!! オメー少しは解せよ! ったく」
不満の一喝に、流川が素直に謝る。
「ゴ……ゴメン……」
改めて洋平の両脚を抱え込み、更に持ち上げると天を仰いだ尻の中心部に流川はそっと舌を這わした。すると怒ったばかりの洋平のソコがヒクヒクと収縮する。充分に湿らせたとこで流川は舌先を挿し入れ、掻き乱した。
「んぁっっ……は……っ」
程なく直立した洋平のソレを、流川の右手が丁寧に扱く。同時に舌を挿し入れしながら、握り締めた掌で膨張を始めたソレに更なる摩擦を送れば熱く脈を打ち始める。先端は濡れそぼり、扱く度に水分を含む音が響き渡り、洋平の絶頂を促す。
「る、流川……あっ、も……出る」
余裕のない素直な申し出が喉奥から絞り出された。流川は中心部の愛撫を止め、空かさず洋平のソレを口に含んだ。
「ハッ、いッ……イ…………!」
口内いっぱいに発射された味を数回に分けて飲み込む。更に口に含み切れなかった分も、内腿に付着した数滴も丁寧に舌で掬い取ると、これには洋平も満足気だ。
「はは、気に入った」
やけに無邪気な笑顔と流川の口に残る苦味……今、流川の口角がほんの少し持ち上がった。またも煙草を手にする洋平を諌めようともせず、どこか清々しい顔で悦びと安堵の息を吐いていた。
そんな流川を垣間見た洋平が、まだ数ミリしか減っていない煙草を処理しつつ、再開を申し出る。
「フッ、余韻に浸るのは後にして、早くくれよソレ」
流川は意気揚々と洋平の両脚を押さえつけ、あてがったその先端を少しずつ洋平の中に埋め込んでいった。
「ンン……」
流川のソレが入り込む度に洋平の顔が歪む。洋平の膝裏を深く押さえ付ける両手と違い、ゆっくりを試みる挿入に苦痛が訴えられることなく、難なく奥まで貫いてゆく。
「……ハァ……あっ……」
――――流川にとって、これが初体験だ。初めてのセックスを洋平と迎えたなら流川にはそれがセックスとなる。この先どれだけの人とどれ程の経験を積むかはわからないが、洋平以上のセックスがない限り、それはきっと流川にとってのセックスにならない。洋平以上……きっと、熱で浮かされたように専ら腰を打ち付ける今の流川にはまだ何も見えていない。
「ん……、ハァ……んっあ、ル、かッ……」
絶えぬ律動に身を揺すられ、覚束ない声を発しながら、それでも名を呼ぼうとする洋平の頭を片手に抱き締めた。
「水戸……洋平…………」
流川もまた、切ない声で名を呼びつつ首筋を愛撫、残る赤い痕跡を上書きすべくそこに更なる口付を落とし、余した左手で胸の突起を弾けば洋平の声も掠れ出す。喘ぎ喘ぎの呼吸も止まぬ律動で狂い出し、捩る身を体重で押さえるが、それでも身悶える洋平は間もなく快楽に呑まれた。
「流か……あッ……、クッ……――――」
体をビクビクと痙攣させ、顔を薄紅く歪ませて洋平は果ててしまった。流川もすぐ洋平の中に放出した。
その後暫くの休憩を、呼吸を整え、ティッシュで身体やシーツを拭き取る。辺りはすっかり真っ暗で、立ち上がった洋平はカーテンを閉めると、その足で浴室に向かっていった。
そして戻ってきた洋平を流川が透かさず抱き締める。
「水戸……」
「なんだ?」
「好き。もっと」
「へー」
立ったまま抱き合う二人の温度差は依然、縮まることはない。しかし今日結ばれたこともまた事実で、それを意中の男と迎えた流川にとっては特別以外のなんでもない。よって彼は我儘を言う。
「今日泊まる」
「帰れ」
「やだ」
急に図々しくなった流川に、洋平は腕の中からじっと視線だけを持ち上げた。
「……? 何なのお前?」
調子に乗るな、の目に流川は真顔で回答する。
「テメェの恋人」
「はぁ?」
「さっきしたから恋人」
「んだソレ? わりぃが、オメーより上は居るんだよ」
上……と聞いた流川は次第に顔を背けた。
洋平がずばり言った。
「流川はまだ仙道さんにゃ及ばねぇ」
……それはいつか、望むアメリカ行きを打ち明けた流川に安西監督言った言葉だ。忽ち憎しみを孕む目で睨む流川だが、負けず嫌いでもある彼は寧ろ闘志が湧いたようだ。
「じゃあ俺がそいつより上になる」
「あっそ、がんばれな」
結局、その日流川は泊まった。狭い、を理由にベッドで共に寝ることはなかったが、それでも不満をぶつける素振りすらなかった。硬い床の上で、薄闇にあどけない寝顔が覗けばいっそ満足したようだ。





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