妖艶の煙 3

その頃、仙道は手厚く見送られたばかりの湘北体育館に再び辿り着いたところ。真っ先に体育館へ向かうがすでに誰もいない。しかし出入り口は開けっ放し、鍵がかかっていないならまだ部員が残っているということ。それなら、と辺りをうろつくが、薄暮の迫るこの時間、部活も終わる時間帯なのか見渡す限り人は居らず、少し困った様子だ。
「どうすっかなぁ……」
ユニフォームは更衣室に置いてきたわけだが、そこは仙道、更衣室の場所を忘れていた。とりあえず、と体育館から続く通路の奥へ回れば、別棟に一つだけ、僅かに開いた小窓がその目に留まった。歩み寄れば、中から一筋の白い煙が浮かんでは薄焼けの空に消えていく。
「なんだろ……?」
仙道はまるでその煙に誘われるよう、開けられたその小窓の前に立った。長身が故背伸びをせずとも覗いたそこから中の様子を窺ってみた、その瞬間、彼は言葉を失った。
「な……――――――」
喉を締め付けられた声は極々抑えられたもの。正に声を発してはいけないと察した場面は今も仙道の目を捉えて離さない。学校という場所からかけ離れた現実は、ずばり事の真っ最中だった。
白い煙は男の吸う煙草から、フゥ、と無気力に吐き出しつつ、淫らに胸元をはだけたリーゼントの男が脚を開いて座っている。その脚の間で、湘北バスケ部のジャージを着た男が忙しく貪りついていた。その後ろ姿というのが湘北には貴重な長身、ストレートな黒髪と、今微かに覗いた端正な横顔……明らかな下半身への奉仕が為されていた。
仙道は退くことも動くことも出来ず、無言で行われる淫行を見開くその目に映し続けた。そして再び声を漏らしそうになったのは、うっかり煙草をを持つリーゼントの男、水戸と目が合ったからだ。
水戸は一瞬、お? といった顔をしたものの、煙草を持つ手を軽く上げてはニッコリ微笑むまで。空中に漂う白い煙越しに、あまりに薄っぺらな会釈が仙道に投げかけられた。
「………………」
仙道がその場を離れたのは数瞬の間を経てから、表情を失ったまま、ユニフォームのことなど忘れたまま、脈打つ心臓を押さえるようにしてそそくさと湘北を後にした。

洋平の煙草が次第に短くなってきた頃、一向に頭を垂れたままのソレに依然として固執する流川を視界にも入れず、洋平は暢気に呟いた。
「もう買わなきゃねーや」
対する流川は、続く苦戦に最早悩み倦んでいた。自慰行為を基に考えれば、暫く刺激を与えさえすれば多少気分が乗らずとも辛うじて直立する。しかし今の洋平はあまりにも反応が無さ過ぎる。どれだけ刺激を与えようとビクともしない。あえて歯を立ててみれば舌打ちするだけで、甘い吐息の一つもないことに疑問を浮かべていた。それでも執心する理由は仙道の挑発にあるのかもしれないが、しかしそれより先に、洋平の煙草が尽きようとしていた。
「なぁ流川、もーやめねー?」
終わりを促す言葉が最後の煙と共に告げられた。流川が見上げる間にもさっさと立ち上がり、短い煙草を加えながら彼は身なりを整えていた。
そして言った。
「流川、童貞だろ?」
「だったらなんだ?」
口の周りを自らの唾液で濡らした流川がキッと睨みつけるも、シャツのボタンを閉めることに忙しい洋平は見向きもしない。ベルトを閉めながらダメ出しをする有様だ。
「ま、そんなんじゃ女も喜ばねぇだろーが、せめてそんなにヤリてーんだったらさ、少しは勉強してこいっつーの」
「……勉強、すればいいのか?」
「さーな、知らね」
真顔で聞き返す流川をフッ、と鼻で一蹴しつつ、ふと思い出したように付け足す。
「あと、さっき人が見てたぜ?」
「なっ……」
「確かお前のライバルだ。さてどーなっことやらな」
不安を煽る台詞とは裏腹に他人事といった笑みを浮かべ、煙草を携帯灰皿に処理しながら、洋平は部室を去って行った。
「じゃ、またな流川」
バタン、とドアが閉まれば紫煙だけが残るそこで、壁に片手を着いた流川はその場で大きく項垂れる。その手に残った感触と、胸に突き刺さったダメ出しを暫く一人噛みしめながらそっと拳を握り締める。そして漸く頭を持ち上げた彼は、たった一度の失敗でめげるような男ではなかった。
帰宅後、唯一何とか話の通じる叔父に彼は連絡を取った。夕食後、家を訪れた叔父から初めてのAVを手にした理由は、今日洋平の言った『勉強』以外にない。すでに部室を誰かに見られていたことなど頭になかったようだ。



翌日の休み時間。相変わらずかったるそうな洋平の周りは軍団に、晴子の許へ飛んでいった花道を除いた三人により隙間なく囲まれていた。後方の席から流川の視線が突き刺しているにも関わらず、ワクワクと胸躍らせた軍団が洋平に小声で問い詰めてきた。
「で、何だったんだよ昨日?」
「全然想像つかねーんだよなー」
「俺の全財産が賭かってんだぞ、頼むぜ洋平!」
むさ苦しい小声責めに洋平はニヤリと笑った。そしてこう答えた。
「ああ、あいつなー、ホモなんだ」
……一瞬にして凍り付く軍団と、その周りのクラスメート。そして後方からキッと睨みつける流川。洋平の放ったその声は寧ろクラス中に聞こえる程によく通ったものだった。
軍団は揃って顔を引き攣らせていたが、すぐに調子を取り戻す。
「おい洋平、もう少しマシな嘘つけよ」
「俺の全財産が賭かってるって聞こえなかったか?」
洋平は言った。
「だったら本人に聞けよ、なあ流川?」
……と、流川にだけくるっと振り向いた洋平の笑みはまるで悪魔だ。青筋を立てた流川は両の拳を強く握り締めるあまりその場でわなわなと震えていた。怒りのまま立ち上がることもせず、とうとう机に突っ伏した。
見ていた軍団は行き過ぎた言動に少し焦っている。
「おい、洋平が変な冗談言うから怒っちまったぞ」
「そんなこと言ったらあいつファン減るぜ?」
「まああんなにいれば少し減るくらい何でもないだろうがな」
間もなく休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、不服そうな軍団はぞろぞろと引き上げていった。
そして次の五組の授業は理科だ。理科室にいる二人は今日も席順通り、並んで座っている。授業中とはいえ若干騒がしい中、流川は洋平の後頭部にボソボソと不満をぶつけた。
「テメー、何言いやがる」
頬杖を着いた洋平は背中を向けたまま答えた。
「俺言っちゃダメなんて聞いてねーぜ? あれも貰ってねーし」
言ってはにっこり後ろへ振り向き、「アレ……?」と疑問を浮かべる流川の唇を人差し指なぞりながら……
「決まってるだろ? 口止め料だよ」
言ってはまた頬杖を付き、流川の顔を下から見つめ上げた。数瞬のあいだ視線も呼吸も止まった流川を面白そうに眺めては、また余計なことを言って流川を嘲弄した。
「流川ってホント綺麗な顔してんのに、もったいねーよなー。はは、何だったら余った女貰ってやってもいーぜ?」
流川が尋ねる。
「オマエは女が好きか?」
「そりゃ嫌いじゃねーけど、お前も案外嫌いじゃねーぜ」
「…………」
再び固まる流川をホモだと貶すでもなく、おちょくるでもなく、にこやかに笑い続ける洋平の心は誰もわからない。
「まさかオメーがなぁ、本当もったいねーよな」
鎌をかけるような口ぶりに、流川は決心を改めたようだ。
「勉強、する……」
唐突な流川の宣言の意味を一瞬理解し損ねた洋平だが、すぐに昨日を思い出したようだ。
「ははははは、まじかよ」
「そしたらまた……」
「ああ、いーぜ」
洋平もとうとう受容を示した。俯き気味だった流川の目がカッと見開いた。今夜から早速、流川の『お勉強』は始まるのだ。
――――が、その前に…………。
「誰だ! 部室でタバコなんか吸いやがったヤツは!」
放課後の体育館にはキャプテン宮城の怒声が飛び散っていた。新湘北バスケ部内で起きた最初の事件に、心当たりがあるのは桜木だった。
「ぬっ? 確か昨日最後に出たヤツは……あーっ! キツネテメーじゃねーか!」
「流川が?」「え? 流川が?」「先輩がタバコ!?」
花道の言葉に部員がざわつき、宮城は尋問の矛先を流川に向ける。
「流川、お前なのか? 大体タバコなんて吸えんのかお前」
名指しされて皆が注目する中、ずっと黙していた流川がとうとう重い口を開いた。
「せ……線香ッス」
「は…………?」
ふざけた答えに目が点になる部員たちと、宮城はややキレ気味だ。
「線香なわけねーだろ? 臭いがちげーんだよ。大体部室で線香焚く必要ねーだろーが、あぁ?!」
しかし犯人は無神経を通り越して図太い、いや鈍い男だ。
「線香、吸ったッス」
再度目を点にする部員と、暴走する宮城。
「テメー俺をおちょくってんのか流川! 何だよ線香吸うって! もっとマシな嘘つけやコラ!」
なんとか宮城を部員らで宥め事は落ち着いたが、その日の宮城は流川にだけ超鬼キャプテンを全うした。
一応、部室での煙草がバレるとマズいのでなかったことにするバスケ部であった。




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