妖艶の煙 2                

――五月――
昨年同様、陵南高校との練習試合が湘北高校体育館にて行われる。湘北にとって、学年が変わり新入部員も加わった新湘北チームの大事な初試合だ。加えて今年のインターハイ出場両候補による試合となれば当然の様にたくさんの人集りが出来ていた。桜木軍団も花道の応援のため、あの流川親衛隊より見晴らしの良い応援席を、ゴールの真上を陣取っていた。
間もなく試合が始まった。
「花道ー、今年は退場ゼロ目指せよー」
開始早々、洋平の声が響いた途端に流川ははっと動きを止める。流川の名を連呼する親衛隊の声には相変わらず無反応であるのに対し、よりによって桜木を応援する声に反応しているのだ。無神経を通り越して図太い、いや鈍いとまで言われた男が、そのバスケ人生の中で今、初めて余所見をした。この大事な試合中、皆がディフェンスに徹する中でゴール上の応援席に目をやった。そこには花道を目で追い、拳を強く握る洋平の姿があった。
すると仙道が透かさず流川を抜きにかかり、まんまと先制点を与えてしまう。味方から、特に桜木からの散々な言われように流川も多少反省したか、桜木に食って掛かることはなかった。
――――とそこに、またも洋平の声が飛び込んだ。
「おいおい流川のヤツどうしちまったんだ?」
流川ははっと顔を上げた。流川のミスにより洋平の視線の的が流川に移ったのだ。ほんの数瞬だろう、洋平の案ずる視線と狼狽える流川の視線が確かにぶつかった。おかげでその後の流川は試合どころでなくなり、幾度と動きが止まる度にボールも止まり、試合の流れに躓きが生じミスが連発される。よってまさかの交代が告げられた。
流川の穴埋めとして花道が仙道をマークするが、とても抑えきれない。替わって福田が大量に点を取り、点差は大きく開いていった。最早打つ手なし、絶望的な光景を流川はベンチから眺めているが、その心そこに非ず。
安西先生は今日も置物のように深くベンチに腰掛けているが、そこに仏の顔はなかった。
「いいですか流川くん、一流の選手には、実力はもちろん、精神力も求められます。自分をコントロールできるのは、コントロールする方法を知るのは自分だけです。五分後にはまた試合に戻りますよ。その間に……出来ますね?」
流川に絶対の信頼を置いての鼓舞だった。
「ウス……」
素直に頷く流川もまた、その信頼を裏切る男ではない。五分後、交代で流川がコートに戻る。しかし試合終了の笛が鳴る頃には安西先生も頭を抱えていた。五十九対八十六……昨年の決勝戦には相応しくない結果だった。そして流川の不調は明らかだった。
「困りましたね……」
ぼやく安西監督の視線の先で、期待のエースが呆然と立ち尽くしていた。
やがて両校とも着替えを済ませ、湘北バスケ部は上機嫌の田岡率いる陵南バスケ部を見送りに校門に立つ。その間も上の空の流川だが、彼の前に歩み寄ってきた仙道の一言が、後に流川を行動へと走らせることとなる。
「おい流川、まさかお前、好きな子でもいるのか?」
「――――!」
図星、と言わんばかりのわかりやすい表情に、判明した流川の恋に、周囲も振り向くほどの高らかな笑い声が上がる。
「ははは。その調子じゃそっちの片が付くまで俺の相手になんねーな」
あくまで冗談、仙道によるいつもの挑発だと周囲の目には映ったが、当の本人は違ったようだ。
「片が、付く…………?」
はっと息を呑み、何やら思い立った様子の流川が仙道の前を遠ざかって行った。つまり片を付けようと、陵南一行が去った後で彼は早速行動に出たのだ。
「花道負けちまったな。でも今日のお前はまあまあだったぞ」
「っせーぞ高宮、今日は全部キツネがわりーんだ。オヤジだってそう言ってた」
いつもの体育館の出入り口付近でたむろしては、偉そうに試合を総評する桜木軍団がいる。そこに、どこか悟りきったような流川が顔を出した。
「ぬ……来たな流川! この大ぼけ野郎!」
今日の戦犯に透かさず突っ掛かる、いつもの桜木による罵倒を流川はいつも以上に聞いていなかった。何故ならそこに、意中の男がいるからだ。
「本当どーしちまったんだ流川? らしくなかったぜ今日は」
桜木と違い優しくフォローを入れる洋平に対し、面と向かった流川は今、初めて自ら声をかけた。
「水戸……」
「ん? どうした?」
「用がある」
「用? 俺にか?」
水戸本人のみならず軍団が揃って目を剥く中、先に食って掛かったのは桜木だ。
「なんだ流川? オメー洋平に何の用だ?」
「テメーは関係ねー」
桜木に対しては相変わらずだが、今日はいつもと違う流川を洋平なりに心配したのだろう。洋平は誘いを受け入れた。
「まあ一応クラスも同じだしよ、俺がクラスメートを代表して聞いてやるよ流川。おめーらは先帰ってろよ」
そうは言ったものの、軍団は楽しそうにワクワクと企む目をしている。
「おめーら跟ける気だな」
「あ、バレてる……」
ハァ、と溜め息を吐いた洋平は軍団に耳打ち。
「いーか? とりあえず今日は帰れ。明日話すからよ」
軍団は不満を露わに揃って校門へと向かっていった。
かくして今、静まり返った体育館で初めて流川と洋平が二人きりとなった。

一方、駅に到着した陵南バスケ部一行はホームにて電車を待っていたわけだが……。
「あれー? ねーな……」
肩にかけたスポーツバッグの中をひたすら掻き回す仙道に、隣の彦一が声をかける。
「どないしはったんですか仙道さん?」
「いやーそれが、ないんだよねー。ユニフォーム」
「そりゃあきまへんやーん、大事なユニフォームを」
「やっぱり? じゃあ俺戻って取ってくるわ」
暢気に引き返していく仙道を見て、腕組みをした田岡が言った。
「まったく、三年になってキャプテンになろうと、仙道はやはり抜けている」
しかし湘北に勝った今日は咎める気もないらしく、部員に夕食のご馳走を申し出るするゴキゲンぶりだった。

場所は戻って湘北、流川と洋平の二人はまだ体育館にいた。洋平は無言で壁に寄りかかり、腕を組んだ姿で手前の流川を見つめていた。流川から言葉を発するのを待っていたようだが、そよめく青葉も陽の傾きに焦らされるほどの沈黙はただ長かった。
「来て」
いつになく上擦った流川の声に、歩み出す流川の背中に洋平が着いていくと、そこはバスケ部の部室だった。桜木のロッカーだけが開いたままの、汗臭さの残るこざっぱりとした室内で洋平も漸く言葉を発した。
「やっぱわかんねーなー、オメー」
何が? と言いた気に振り向く流川に洋平が問う。
「全然読めねぇよ。だいたい、なんで俺なの?」
暗に、他に友達はいないのか、といった口ぶりだが、指に顎を乗せつつすっかり黙考する流川の答えはいつになっても出そうにない。諦めた洋平が改めて尋ねた。
「はは、いーよ。で、用って何?」
「俺は…………」
その主語に続く台詞は流川の頭の中でしか再生されなかった。洋平の溜息より先に「お疲れっしたー」と外から部活を引き上げる声が飛び込む。あとはまたも静まり返った部室で、怠そうに後頭部を掻いた洋平は事の解決を先決する、といった具合に流川への尋問を始めた。流川はそれに黙って頷いた。
「お前さー、今から言うこと、今日の試合と関係してたりすんの?」
「結構悩んじゃってんの?」
「はー。さてはオンナか流川」
ニヤリと確信を含む笑みが流川の首肯を誘ったが、流川はきっぱりと首を横に振った。
「じゃーなんだ。俺もう帰っぞ?」
さすがに呆れ果てた洋平に焦った流川は、「待て」と洋平の腕を掴む。同時に「あっ」と声を漏らした流川は、腕を掴んだ自らの右手に驚いたようだ。
対する洋平はいよいよ痺れを切らし、「何だよ?」と不機嫌を顔に出す。
「言うから待て」
「ハァ」
露骨に億劫を吐きだす洋平の溜息が、窮する流川を急かしていた。今、洋平の両肩を流川の両手がしっかりと捕らえた。流川は告げた。
「欲しい、お前が」
「は…………?」
呆気に取られた洋平はポカンと口を開けたまま、それでいてどこか見下したような目で正面の男を見上げている。そして続く強気な言葉には、さしもの洋平も顔を歪めた。
「触らせろ」
「……何言ってんだ流川? 頭大丈夫か?」
そう、一向に疑問しか投げかけない洋平には流川も苛立ちを覚えたらしく、彼は遂に行動に出た。洋平を両腕の内に抱き締めたのだ。
しかしどういうわけか、腕の中の洋平は何も言わない。微動だにせず、寧ろ静かに嘲笑する。
「……なんだよ流川。はは、マジなの?」
流川は素直に頷いた。同時に了承の返事を得た、洋平が自らの気持を受け入れてくれたと理解したのか、それなら……とキツく抱き付いたまま自らの欲求を満たすべく、首筋に鼻先を押し付けた。ぎこちなくその髪に触れ、襟に覗いた僅かなうなじに唇を押し付けた。
休日の今日は生徒も少ない、誰も見ていない二人きりの部室で、一方的な愛撫が暫く続いた。その間突っ立ったままの洋平は表情一つ変えることなく、棚に詰められた月刊バスケの裏表紙を見つめながら、流川の行為を受け入れていた。いつもの愛想などない、かといって拳を振り上げようともしない洋平の目は遠く、まるで血のない人形だ。洋平のシャツのボタンがすでに全て外されていた。
「座れ」
流川が中央のベンチへ促せば、かったるそうに頭を掻いた洋平は素直にそこに腰を下ろす。流川は透かさず口付けに走る。……流川にとって、初めてのキスだった。唇の感触を唇で確認する程であったが、微かに笑みらしきを零す流川には堪らなかったのだろう。ゆっくりと下りたキスは次に前開きのシャツの中へ、首筋から鎖骨へ、その周辺で舌先を這わせた。多少不慣れな様子は否めないが、離すまいと抱き締める流川の手はそっと背中を包み込むよう、指で優しく揉みしだくように。
すると突然、それまで静かだった洋平が急に口を開いた。
「悪りぃ流川、タバコ吸ってい?」
言いながらもすでにその手には一本があり、今ライターで火を点ける。黙って頷く流川だが、いざ洋平の吐く煙を直に吸い込んだ途端、ゲホゲホと咽り出した。
「窓、開けたら?」
悠長に煙草を吸う洋平が促した通り、立ち上がった流川はこの部室で唯一の小窓を開ける。ここが部室だということをすっかり忘れているらしく、再度洋平の許へ戻るとまた、愛撫に耽った。
『やめとけ流川……』
無抵抗に徹する洋平の心の声が響いた。
『知らねーぞ……』
続く警告は勿論、今の流川に伝わるはずもない。彼はとうとう、洋平の下半身にまで手を忍ばせていた。




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