妖艶の煙 1 |
――2年5組―― 進級後、クラス替えがあってから一週間。授業中にも関わらず今日も机に突っ伏す流川は、毎日のようにそれを見つめていた。数列後ろから、あの黒いリーゼントを――――。 いつか夢にも出てきたそれを流川も一度はその手に触れた。一見硬く重く見えるそれは空気が混じりふんわりしていて、整髪料の雄臭さではなく、不思議と色気のある香りを漂わせていた。 たった今、流川はそれとすれ違った。夢ではない、しっかりと目を開けた流川のいるこの机の横をただ通り過ぎていったわけだが、それは夢の中の香りとは違い、苦み走った煙草の臭いを撒き散らしていた。 流川の漏らした舌打ちが、新しい教室内の雰囲気を早くも残念なものにした。 翌日、五組の午後の授業は毒々しいアルコールの香り漂う理科室で、進級して最初の理科の、その班決めが行われた。当然のように無関心な流川は、実験など誰としようが同じだと、そもそも参加すらしないと、教卓にあるお手製クジを引いては黒板に番号の書かれたその席に名を記し、さっさと後方の席に着いた。そして早速頬杖を着く流川の耳に、あの声が飛び込んできたのだ。 「お、流川の隣かよ。はは、いーんだか悪りぃんだか」 クジを引いた洋平が教卓の前で苦笑していた。 程なく、流川の許に煙草の臭いが近付いてきたことで流川は露骨に表情を歪めるが、洋平が隣の席に着くなりふと顔を顰める。……匂いが違ったのだ。煙草こそ臭うものの、夢の中の匂いと混じりそれは不思議な香りに変わった。これはどんな科学か。それは香料という人工的な香りではなく、今目の前にある洋平のうなじから漂う極自然のもの。初めての香りを知った流川はそのままじっと、目の前の洋平のうなじを見つめていた。 席は隣だが、四人で机を囲う形なので、授業中の位置関係は前後になる。その白いシャツの襟から僅かに覗く無防備な肌色が目と鼻の先に、手を伸ばせばすぐ触れられる位置に、ならばいっそ……と右手を浮かべるが、まるでそれを察したように洋平が後頭部を掻いた。はっと手を止めた流川のもどかしさを無視するよう、授業は終盤へと流れていった。 チャイムの鳴る少し前には徐々に騒がしくなり、周囲のおしゃべりで皆の気も緩み出す中、それに乗じたように突如、洋平がくるっと後ろを向いた。 「なー流川」 じっと見つめていた流川とはすぐに視線がぶつかり、馴れ馴れしいその態度に流川は不意打ちを食らう。 「はは、なーにビックリしてんだ」 「…………」 「まさかお前の隣なんてなー。花道に言ったら何つーかなー」 「また、アイツ……」 零れ出た流川の小声は正に事実で、洋平の二言目はいつも花道だ。桜木と別のクラスになった今も休み時間は何かと互いの許を行き来していた。 「あ、流川今日差し入れで欲しいのある? 花道に頼まれたのあっからついでに買ってってやるぞ?」 洋平の口からまたもその名が発せられ、「いらねぇ」とだけ返す流川は不機嫌、いや、傍から見ればいつも通りだ。洋平もまた、流川の不愛想ぶりを逐一咎めるほどお人好しではない。 「そっか。まぁがんばれよ」 授業の終わりを告げる教師の挨拶と共に洋平は前を向き直し、だらしなく低い頬杖を付いた洋平のうなじがまた、流川の視界の中心となった。先ほどより少し襟が下がり、肌色の面積が増えただけで流川の耳まで赤く染まる。再びその手が浮き上がるが、折しもチャイムが鳴り、流川にとって特別となった理科の授業が終わった。その目の前からうなじが、あの香りが遠退いていった。流川の吐いた溜め息が洋平の姿を追うようにして、やがて消えた。 |
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