インターハイは終わった。引退を決めた安田は長かったバスケ三昧の日々から解放され、気持ちを受験勉強へと切り替えた。受験生らしく自室で専ら机に向かい、過去問と睨み合う日々。よって暫くバスケ部にも顔を出さなかった。
そして久々の休日を迎えた今日、カレンダーに『11時、駅』のメモが記されたその日、彼は朝からそわそわしていた。インターハイが終わったらと、前々から約束していた初デートが待っていたのだ。
自室のスタンドミラーの前で幾度と着替えを繰り返した安田はやがて家を出ると、電車に乗り二駅を跨いで待ち合わせの駅に降り立った。
夏休み終盤の駅前は賑わいが絶えず、平日には少ない若者たちが盛んに往来。出入り口から僅かに人気を避けた隅で、壁を背にした安田は肩身を狭そうにして彼女を待っていた。
「ちょっと早く来すぎたかな……」
確認した腕時計は十時三十五分。緊張と退屈を塗した吐息が人ごみに掻き消された。
……一方、そんな安田の姿を偶然にも眺める男の姿があった。駅の向かいのファストフード店、その二階の窓から、ガソリンスタンドのロゴが入ったつなぎを着た洋平がブラック片手に頬杖をつき、安田を見下ろしていたのだ。
「デートの待ち合わせかこりゃ」
早くも察しては苦笑を漏らし、そして悠長にコップを傾けたあとで、窓の方へ身を乗り出した彼はぐっと目を凝らす。
「…………恐喝か?」
公衆の視線が絶えぬ駅前で、安田のいた辺りを四、五人の柄の悪い連中がぐるりと囲んでいたのだ。ともなれば、安田のような軟弱そうな学生は格好の餌だ。周囲を行き交う人々は当然助けようとせず、寧ろ避けるように先を行く。連中の隙間から覗いた安田は困り果て、首を横に振るばかりだった。助けが必要だというのに、関わりを恐れる人たちにそれはどうにも伝わらない。
連中が更に詰め寄ったことでとうとう安田の姿は見えなくなった。が、すぐ苦悶の顔が宙に浮かんだ。中央の一人によって胸ぐらを掴まれ、ぐいと持ち上げられていた。
「助けて……誰か…………」
洋平のいるところまでその声こそ届かないが、早く逃して、やめて、痛い、お願いだから、だから許して…………という、酷く窮した安田の顔は洋平のよく知るものだ。いつかの部室に始まり、長らく通い詰めたトイレで覚醒されたそれが今、公衆の面前に晒されていた。痛いくらいの愛撫を知った身体が、ヤツらの玩具にされていた。
「ハァ…………ったく」
洋平は席を立った。階段を駆け下り、人を擦り抜け横断歩道を渡り、そっと連中の背後に立つ。奥に身悶える安田を確認すると静かに息を吸い、胸ぐらを掴み上げる男の背中に強力なパンチを送り込んだ。そして地面にぶっ倒れた男と同時に振り返った連中に、「来な」とだけ促すまでの一連の流れは周囲の目も惹く鮮やかさだった。
「よ、洋平くん……?」
尻もちを着いた安田は顔を上げるなり、救世主の、正義の味方のまさかの登場に目をパチクリさせていた。そんな安田にはすでに誰も目もくれず、洋平を主眼とした連中は一様に殺気立っていて、安田が面喰らっているその間にも洋平が連中を引き連れていく。ざわめく人だかりを後に、より人気のない路地へと向かっていく。つまり、これから喧嘩をする――――安田とて察しがついた。しかし何故だろう…………。
安田は考える。現に安田は洋平をフったに等しく、冗談といえ仮にも受けた告白に返事をしないどころか、笑顔で嘘を吐いた。裏切った。女子との甘酸っぱい恋愛に溺れ、今日もこれから初めてのデートが待っている。見かけによらず最低な男だ。
しかしそんな洋平が今安田を助け、連中の矛先を自らに仕向け、安田のために、これから喧嘩を買おうとしているのだ。まるでそう……いつかバスケ部の危機を救った時のように。
洋平は喧嘩が強い。それは目の前で見たことから安田も知る事実だ。しかし今日の相手は五人で、身に付けたアクセサリーはゴテゴテとした学生らしからぬもの。おそらく年上だろう。まして白昼堂々恐喝をするような悪者に、洋平一人が敵うものなのか――――。
ふと見上げた駅の時計は十時五十五分。
安田は、洋平の後を追った。
洋平を先頭にして、行き着いた先は陰気な路地裏で、立ち止まった洋平がくるりと向きを返る。対面して睨みを買うと、それが始まりの合図だった。まずは洋平に殴られ怒りに震えていた鼻ピアスの男が真っ先に殴りにかかり、透かさず躱されたことで続いて次の男が、二人三人と襲いかかる。忽ち黄色い砂埃が舞い、暴力を売っては買う言葉までが拳と共に飛ぶ。
その物々しい光景を安田は建物の陰から見つめていた。度々目を覆いながらも徐々に身を乗り出し、洋平が拳を喰らう度に痛々しく顔を歪ませる。時折上がる呻き声、怒号、飛び散る鼻血に伴い、連中がバタバタとと倒れていく様に震える両の拳を握り締める。拳骨が肉を叩き打つ音でまた一人が倒れ、一度は羽交い締めにされながらも一発を喰らうと同時に後ろの男に肘打ちを仕掛け、怯んだ隙に更なる一発を放った。遂に最後の一人となれば洋平も笑っていて、楽勝とばかりに殴りにかかった。――――が、今、洋平の背後でもぞもぞと蠢く男の姿がある。うつ伏せから上体を起こした彼は鼻ピアスを血で汚した、最初に洋平のパンチを食らった男で、憎しみに満ちた顔を上げると透かさず洋平に襲いかかった。
「洋平くんっ! 後ろ!」
すると洋平が振り向くより先に、声を荒げた安田が二人の間に飛び出す。 「来んなっ」
洋平はすぐに一喝するが…………遅かった。洋平が受けるはずの一発を食らった安田を洋平が自らの傍へ引き戻し、残るくたばり損ないを片付けた。それでも……と反撃を図る輩には、洋平の鋭利な眼差しが最後に復讐の芽を摘み、やがて拳を緩めるに至る。
隣で立ち上がった安田が傷だらけの洋平を労った。
「ごめん、洋平くん。ありがとう……」
切に告げる安田の頬もまた、赤く腫れ上がっていた。
「いやあ、それより安田さん、顔……」
「ああ、このくらい平気だよ」
「結構腫れますよ。早めに冷やさねーと」
洋平はパッパと汚れを払いつつ、自らの腕時計を見やる。十一時十五分を見ては安田に今日の予定を質す。
「つーか安田さん、いいの?」
「何が?」
「待ち合わせしてたんじゃないの?」
「ああ………………うん…………」
充分な間を置いた安田の煮え切らない返事だった。徐々に視線を落とす安田だが、俄然、顔を持ち上げてはにっこりと話を続けた。
「洋平くんは、今日何してたの?」
「俺はバイトっすよ。ああ、もう戻るわ」
「バイトどこなの?」
「そこのスタンド」
「そう。じゃあ帰り待っててもいい?」
なんで……? と言わんばかりの視線を向ける洋平だが……。
「まあ、いいけど。じゃあ行ってくるわ」
洋平が走り去ったあと、安田も今日の待ち合わせ場所に急いで戻って行った。
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