ハリネズミ 2


今、前方奥に人の足を捉える。壁を背に座っているのだろうが柱の影で特定には至らず、放り出された足のバッシュからそいつはバスケ部員というだけだ。中では皆が練習に励んでるというのに、まさか誰もいないこんな所で一人だけさぼってるっつーのか? 
俺は躊躇せず歩み寄った。その足音で気付いたのだろう、男は正面に立った俺を先に見上げていた。
「て、テメェ……」
「あ、ミッチーじゃん」
ここで対象者に会ってしまうとは、なんとも誂え向き掛けな展開だ。が、どういうことだろう――。立ち止まり向き合った瞬間、その瞳からは確かな一筋が頬に零れ落ちたのだから、暫く理解に至らなかった。
彼自身が気付いたのも俺より僅かに遅く、目が合って数秒、はっとした彼は頬に手をやり、濡れた掌を見つめてから慌てて目元を一拭きしたのだ。
ミッチーは視線を逸らし、悪態を吐いた。
「笑えよ」
「笑わねぇよ」
「笑ってるじゃねぇか」
「はは、ワリィワリィ」
まさかミッチーが泣いていたとは。いや、本当に泣いてたのか? 今はもう拭いきったか、瞳がうっすら潤んでるぐらい。つまり泣いていたわけで、正に来てはいけない場面に足を踏み入れてしまった。
俺が悪いわけじゃないが、人のプライベートに立ち入っといてじゃあねと立ち去るわけにもいかず、今ここで目的を果たすわけにもいかず、目の前にしゃがみこんではそれとなく様子を窺った。
「で、どったの? オジサンに話してみ?」
テメェ……と睨むその目はさすが元不良というだけあるが、二度も涙を見られた元不良は苦り切るに留まる。
「ったく、年下だろテメェ」
「そうですよ先輩」
「や、オメェが後輩っつーのも気持ちわりぃな」
「ああ、ミッチー幼いからね」
「メェぶっ殺す!」
「はは、ほらほら。コーヒーあげるから許して」
本当のことを言うとすぐ怒る。なんともわかりやすい先輩に冷えた一缶を差し出せば、「いい」と無下に拒むついでに、俺のチャームポイントにまでケチ付けてきた。
「ったく、オメェは親父クセェんだよ。髭生やしてコーヒー飲んでんじゃねぇよ、ったく」
「よく言われんねぇ」
「桜木もいねーのにバスケ部覗きやがって」
「それも花道を想ってってやつよ」
「オメェら纏めて桜木の保護者か」
「まあそんな感じ」
当然すぎて何の痛みもない口撃なら、語気もそこまで乱暴じゃない。
「……楽しいんだろ?」
寧ろ、とミッチーに言われた通り、俺らは俺らで楽しくやってる。そこはお互い様だ。
「まあね。でもミッチーだって保護者いるっしょ?」
「あ?」
「あんなデカイ旗まで作って、逞しい応援団長いるっしょ」
「あいつは……アイツは、まあ、そんな目で見てんだろな」
「いいじゃない。悪くないんだろ?」
「…………」
思えば差しで話すのは初めてで、こんな間近でその顔を見るのも初めてだ。長い睫毛に陰る伏せた目と、閉ざした唇を見ればより三井寿が見えてしまう。
「ミッチーは、一匹狼にはなれねぇな」
「ああよ。脆いろくでなしだ」
「二度と踏み外さないように見張られてっからね」
「…………」
「強力な有刺鉄線だ。乗り越えるのは、不可能だな」
「…………だな」
俺はすっかり頬杖をつきながら、ずっと気になってたことを尋ねてみた。
「ミッチー昔なにしてたの?」
「大したことしてねぇよ。酒と女スロット喧嘩に留まった。あとは恐喝か。薬は……一回だけ」
そこは重い後悔を前面に、正直に白状した。
「はー、悪いねぇ」
「テメェらだってそんぐらいやってんだろ?」
「いやぁ、俺らはまず女すら寄ってこないから。そこは水戸さんの一人勝ちですから」
「ああ、アイツか」
「ミッチー殴ったのも洋平だったな」
嫌な記憶を掘り起こせば、彼は再び俯いてしまう。顎の傷跡はまだ残るが、でも、今は違うじゃないか。
「ミッチーはもう立派なバスケ部のスターだ。みんなに期待されて応援されて、格好いい〜」
「そうだな」
「羨ましいねぇ」
「…………」
「ん?」
やけに素っ気ないどころかまたも口を閉ざす彼だが、一度弱音を吐き出してしまえば意外と素直に、年下のオジサンにぼそぼそと零してくれた。
「俺はまだ、吹っ切れちゃいねぇ」
「……? そなの?」
「なんつーか、手放しでバスケやんにはまだ痞えがあんだ。あいつらが快く受け入れてくれるほど自分が憎くなる」
……なるほど。彼は今も後悔と自責の念に苛まれていた。あの体育館襲撃事件からまだ三ヶ月も経っていないというのに、今はもうなかったことにされている、そうしてくれる人達ばかりだから、さっき泣いていたのだろうか。胸に刺さるほどの優しさを持った人間がこんなにも近くにいること……この男は充分に恵まれてる。
「ゴリとかメガネくんとか?」
「全員だ。メンバーも徳男もオメェらも」
「……? 俺も?」
「ああ」
「じゃあ俺だけミッチー応援しない」
「なんだそれ」
「だって俺ミッチー嫌いだもん」
「あっそ」
「ま、偶には踏み外すのもいんじゃない?」
「もうしねーよ。ったく、何なんだ」
そこで何も言い返さなければ少しの沈黙が生じ、その間、俺はミッチーの顔を下からじっと見つめていた。無駄だと切り捨てた過去を壁の向こうに覗く遠目を、それでも忘れられない仲間を思う瞳を、俺は抱いた疑念を奥に留め、その口が自らの開くのを待ってた。
手前に立つサルスベリで蝉が鳴き出し、漸く視線に気付いた彼は、舌打ちして立ち上がった。何がどうあれ、ミッチーは俺を受け入れてくれたようだ。
「テメェ暇ならパス出ししろ」
「へいへい」
涙はどこへいったのやら、これもバスケ部応援団の役割か。ま、機嫌が直っただけでもよしとしよう。目的もそろそろ果たそうと、ミッチーの背中について二人で体育館に戻った。
館内に立ち彼がボールを持った瞬間から、唯一引退を避けた三年生の威厳が放たれ、入ってすぐのコートの半面から部員が遠ざかってゆく。
スリーポイントラインからのシュート練習は早速始まり、間合いを取って横からパスを出せば、それは瞬く間にネットを擦り抜けた。
「おっ、さすがミッチ〜」
「一々うるせーよ」
「じゃあ下手くそ」
「テメェ、うっせーっつってんだろ?」
……まただ。一投目から褒めてやったってのに、一々噛み付くのはそっちじゃねーか。これじゃ花道よりヒデェ、周囲が甘やかしすぎなんだと、俺はちょっと言ってやった。
「結局、ミッチーは煽てられたいんでしょ?」
……っと。拾ったボールを俺もリングに放る。
あれ? なんだあっさり入っちまった。よって益々ミッチーを苛立たせたようだ。
「テメェ……なんなんださっきから? 俺をからかいに来たのか?」
「いんや」
「もうやめだ出てけ」
「やなこった」
「ああもう、クソッタレ」
詰め寄られそっぽ向かれ冷たく背中向けられ、ここまで嫌われると俺も相手すんのが面倒になる。見ちゃったから、折角優しくしてやろうと思ったのに、本来の目的もなんだかどうでもよくなってきて、いっそのこと、もっとこの男を打ちのめしたくなったのはなんでだろう? 甘ったれの先輩を叩き直してやりたい。鼻っ柱を折ってやりたい。ちょっと触れただけで全身から無数のハリを突き立てる、そんなハリネズミを指で弾き飛ばしてみたい。
「まあ怒んなってミッチー。いーからちょっとだけ、俺の話聞いてくんない?」
「あ? なんだよさっさと言えよ」
俺はボールを拾いがてらミッチーのすぐ隣まで駆け寄ると、その耳元に唇を寄せ、耳打ちした。
「ミッチーさ、本当は女なんて抱いてないだろ?」
ミッチーは目を剥き、みるみる顔真っ赤にしていった。確信した通りだ。なんとわかりやすいことか。もうこれで決まりだ。
無数の青筋を立てて案の定彼はキレた。
「貴様……ぶっ殺す!」
「はいはい喧嘩禁止〜。ていうかミッチー怒っちゃダメだって。怒ったら認めたことになっちゃうから」
今にも俺に振りかざさんばかりの拳をにこやかに押さえ付けると、ミッチーは逆の手で俺を突き飛ばした。
「いーからもう出てけ、ったくなんなんだ! 俺ぁ朝五時からここ来て疲れてんだよ!」
二度も出てけと言われたら仕方ない。出て行くさ。しかしその前に俺の役割も果たしておかねば。本来の目的はメガネくんなのだ。
「いやもいっこだけ、ちょっと訊きたいの! ミッチーお願い!」
仰々しく手を合わせて頭を下げれば、ミッチーはその場に留まってくれた。
「なんだ早くしろよ」
「メガネくんってさ、彼女いんの? エッチしちゃったとか聞いた時ある?」
「は? 俺がんなこと知るわけねーだろ?」
「なーんだ。これでゴリも知らねっつったらもう賭けになんねーじゃん」
恐らく、この分だとゴリも知らないだろう。とがっくりする隣でミッチーがまた怒ってた。
「テメェ賭けてやがったんか? つっーことはあいつらもその辺にいんだな? おい出てこいテメェら!」
色をなす先輩を見て騒めく部員らをよそに、先輩は館内を見渡しながらドスの効いた声を張り上げた。しかし残〜念♪
「いないって。あいつらはゴリに言質とり行ったから。メガネくんのことわかんないなら、代わりにミッチーは白で報告するまでよ」
「言うのかテメェ!」
直ちに胸ぐらを掴みかかってくるこの男は、本当に自責の念とやらに苛まれているのだろうか。どこが大人になったやらだ。
「知られたくない?」
「っつーか俺は童貞じゃねーよ!」
「いいや。嘘はいけないね」
そう、ミッチーは洋平と違う。嘘を吐く資格がない。
そして俺は、そんな洋平に微かな羨望を持ってたりする。
「テメェが俺の何知ってんだよ?」
「わかるんだよ、オッサンには」
「ったく、好きにしろ」
俺は言われた通り、「了解」と大人しく踵を返し、ミッチーの許を離れた。体育館の中央に立ち、これから今日の俺の苛々を全てミッチーにぶつけようと思う。急速に湧き上がったこの理不尽な衝動……きっと、殴られたから殴り返すのとなんら変わらない。仕返しを繰り出すまでだ。
それぞれがボールを手に努める、出入り口では女子生徒も覗き込むそこで、両手を口の脇に当てた俺は大きく息を吸った。それを、一思いに吐き出した。
「皆さーん、えーミッチーこと三井寿は、実は……」
突如後ろから口を塞がれ、羽交い締めにされる。そして当然のようにどやされる。
「貴様何する気だ! ふざけんな!」
「ミッチーが好きにしろっつったんだけど」
「誰も人に言えなんて言ってねーよ」
「じゃあ認める?」
「は?」
「童貞」
「…………」
正解だけど認めない、っつーかそもそもなんでここでそんなことバラされなきゃなんねーんだ! ん? っつーか木暮で賭けてたのか? つまり俺は木暮のついでで、俺より木暮のが大人だって言いたかったわけか? クソォ、腹立つ! でもこの衆目の最中で手は出せねー。あーでも腹立つ殴りてぇ!
……とでもミッチーは言いたいのだろう。握り締めた拳を下に、何度も唇を噛み締めていた。
まだまだ青いねぇ、とは年下の俺がここで言っちゃいけないのだろう。でも言いたい。言ってからかいたくなるのは、もっと怒らせたくなるのは、さてなんでだろう。
……決まってる。すごく愉しいからだ。おちょくっては殴られる、殴り返す、その繰り返し。相手もまたガキだから成立するガキ同士の遊び。まだまだ大人になれないガキの愉しみでしかない。つまり大人じゃないから、ここは自らも戒めるべきだ。
依然として視線を合わせようとしない、ブツブツぼやくミッチーの肩に手を置いて、俺は真正面から真心込めて和解を図った。
「まあいーじゃん? セックスしたからって何が偉いわけでもないし、そんなのコーヒー飲めるかみたいなもんだ。ミッチーみたいにバスケで輝いてる方がナンボか素敵よ」
「なんだそれ褒めてんのか?」
「勿論」
「そーゆーテメェはどうなんだよ?」
「俺? 童貞かって? 内〜緒♪」
両の人差し指で自らの両頬を指し、にこっと傾けたチャーミングな笑顔を、そんな大人の余裕を見せてもミッチーはご機嫌斜めだった。
「人を散々コケにしといて何隠してんだ。ま、どーせ童貞だろ? 髭面の一年坊に女が引っかかるかっつーの」
「知りたい?」
「別に。そもそも、俺もテメェも本当に童貞かどーかは調べようがねーだろ? ずいぶんとインチキな賭けだな」
……っと拾い上げたボールをミッチーがリングに収める横で、俺の中の邪な悪魔がとうとう出てきちまった。悪巧みを隠しきれないニヤニヤとした顔で何やら囁きかけてきて、俺はそいつに言われるがままミッチーに言った。
「まあ童貞かを判断すんのは簡単さ」
「な、何だよそれ? あんのかそんな方法?」
悪魔の囁いた通りだ。ミッチーは次のボールを両手に留め、興味深そうに身を乗り出してきた。目を見開いたその顔に落ち着いた大人の余裕などなかった。
俺もミッチーも、ちゃんとメガネくん見習って大人になるべきなのに、なれないのは経験が浅く乏しいからだ。そう悪魔が言っていた。ならば二人でその経験とやらを埋めなさいと、言われるがまま、俺は大人への一歩を施した。
「こーすんの」
正面から、ブチュッと一発かましてやった。
ミッチーは一時硬直したが、沸々と怒りが頂点に達する、その直前に俺は素早く逃げ出した。
「ワハハハハハ! 好きよミッチー♪」
後ろからドタバタギャーギャー騒ぐ声がして、ボールが三つ四つ飛んでくるが、飛んで跳ねて躱して逃げる。
まったく、あいつら戻ってくんのが遅せーんだよ。見てないのが惜しいくらい、なんて愉快で楽しい瞬間だ。俺の中に飼ってる悪魔はいつもそこに導いてくれる。今は一緒に喜んでる。これだから一生、俺は大人になれない気がする……。
俺は、その足でつい家に帰っちまった。アイツらからかかってきた電話に早速帰ったことを責められた。
結果として、ゴリもメガネくんのことは知らないと、そもそも酒を持ってくる連中を家には入れられない、メガネくんの住所も勝手に教えるわけにはいかないと言われて賭けは無効となったのだった。




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