犬猿の鎖 8

一時間も車を走らせればあの町も抜け出せたことだろう。行き着いたコンビニで途中休憩をと、車内にあった流川の小銭で地図と軽食、飲み物を買った。
夜も明けたところで少し早めの朝食だ。少し離れた公園のベンチでどあほうと並んで座った。
「ほら、食いな」
隣のどあほうにサンドイッチを差し出してやる。
すると、パンツ一枚のままで喜んでかぶり付いた素直などあほうがやはり、可愛かった。あの町を抜けた所為か、ずっと淀んでいたどあほうの表情は心なしか晴れやかだ。しかしそんなどあほうにも首筋にあの記があり、「お前、サクラギって言うのか?」俺の問いに、どあほうはもぐもぐと口を動かしながら頷いていた。
「そっか……じゃあお前も、元狼球会のメンバーなんだな」
胃に納めては頭も動き出したところで、他にも溜め込んでいたわだかまりを一つずつ解消したい。まず一つ目。
「とりあえず、お前服着ねーとな。大体なんで裸なんだよ?」
「それでいろっつわれたから」
――俺は咀嚼を止めた。俺は今、初めてサクラギの口から発せられたその声を聞いたのだ。
「な……お前喋れんのかよ!? なんで今まで喋んなかった」
「他のやつとは喋んなっつわれた」
ということは……
「流川か?」
「ウン」
「お前あいつの何なんだ?」
「犬じゃねぇ、猿」
「いや、そうじゃねぇ。んー……と…………」
無理もない、サクラギは首輪を付けられ裸でいることを命じられ、長い間猿扱いされてきたのだ。
俺は深く頭を抱え込むことで謎だらけの状況を整理。まずは事の根幹から問うことにした。
「そもそも、狼球会はなぜ解散した?」
ずっと気になっていたことの一つだった。あれだけの超有名常勝クラブがいきなり解散したことにはそれなりの理由があったはずだ。
サクラギは俺の視線から顔を背け、両膝に置いた両手を握りつつその真相を語り出した。
「みんな、ストレス溜まってたんだ。だから体育館を燃やした」
「燃やした?」
「埋め込まれたIDで行動を管理された俺らは、試合以外で町の外に出ることは絶対に許されなかった。毎日が練習練習でストレスを溜めた俺らはとうとう気が狂っちまって、それでIDを管理するコンピューターがある、あの体育館を燃やしたんだ」
燃やされた体育館と聞いて俺は一つ思い出した。宮城と出会ったあの場所、廃墟と化したあの大きな建物のことだ。きっと、あれが燃やしたという狼球体育館だったのだろう。それに、超有名クラブにも関わらずあまりその内情が公に出なかったことにも合点がいった。
次の質問。
「で、なんでオメェは流川に飼われてんだ」
顔を上げたサクラギの目は涼しかった。朽ちた狼球会を見つめるその瞳にはうっすらと涙が浮かび、やがて重い口を開いた。
「体育館を燃やす前、厳しい練習で溜めたストレスの捌け口として男同士でセックスするやつが出て来た。バスケには口出すだけの上役のヤツばっか金を毟って、俺たちは女に触れることすら許されなかった結果だ。自然と皆が求めてた。けど、だからってケツを差し出す野郎はそういねぇ。それで更にストレス溜まって、気が狂って体育館を燃やした」
男同士でセックス……思いがけない単語が飛び出したことで俺は絶句すると同時に、南や流川の行動に納得がいった。そして水戸ら上役の連中への憤りを共感した。拝金主義者というヤツは皆がそうで、下に仕える人間をまるで人間扱いしない。俺はあの町であったことを咎める気になれない。深い同情が芽生えていた。
続いてサクラギが語ったのは、体育館が燃やされた後のことだ。
「そんでみんな一度は町の外に出たんだ。逃亡を知った上役がすぐに女用意したけど、それを聞いて戻ってきたヤツは数人だ。俺たちにとってすでに女は別の生きもんだったみてぇで。…………でも、結局みんな戻ってきた。生活出来なかったんだ。バスケ一辺倒だった俺らには普通の仕事すら出来なかった。何より狂っちまったせいで社会にも溶け込めなくて、もう生きる道はないって、みんなが自然とあの町に戻ってきた。IDチップ引き抜いてさ……」
「……なるほどな」
体育館が焼かれたことでIDが管理できず、水戸らはメンバーを探せなかった。それが狼球会解散の理由だったのだ。
「で、流川は?」
「流川はあの時逃げなかった。一軍でトップスターだった流川は監督のお気に入りで、みんなより贅沢与えられてた。だが町から出れねぇのは流川も同じで、ストレス溜め込んだ挙句に求めたのは男だったんだ。……いや、猿だった。生活に困って町に戻った俺はすぐ流川に捕まっちまった。そして言われたんだ。俺の下で生活させてやるから猿になれって」
「うわっ、サイテーだなアイツ」
「でもメンバーの管理出来なくなった会はすでに解散してて、身内もいない俺はそれに縋るしかなかった。だから」
……可哀想な話だ。流川の餌食となったサクラギを心底哀れに思い、俺はそんなサクラギの赤頭をよしよしと撫でてやった。しかし流川も今となってはその安否すらわからないわけだ。
「どうなったんだかな、流川のヤツ……」
ぼそり呟けば、この火事の真相もサクラギによって明かされた。
「あれ、俺が火ー点けた」
「え?」
「あんたが嫌がってたから、俺が……」
つまりあの火事はサクラギが、俺のために…………――――――?
唐突に胸が痛み出した。隣にあるその凛とした瞳、真っ直ぐで幼気で献身的なあまり哀れなサクラギが、愛おしくて堪らなかった。……忘れていたこの感覚、今にも嗚咽が零れそうになるこの苦しさ、切なさが、隣にいる裸の男によって引き出されてしまった。
詰まり出す胸を押さえつつ、俺はサクラギを真っ直ぐ見つめ、そして力強く言い聞かせた。
「サクラギ、俺は今度復活する新狼球会のメンバーとしてすでに選出されてんだ。そのメンバーを選ぶ権利が俺にはある。水戸は死んだかわかんねーけど、もう上役に搾取はさせねぇよ。IDで管理なんか絶対にさせねぇ。約束する。……だから、サクラギもまた、一緒にバスケやろうぜ。一緒に、頑張って共に生き抜いてやろう」
とは言っても簡単には頷けないサクラギに、心に傷を負った男に惚れた俺は、俺も今が人生どん底であることを明かすことで共感という親近感を、同情という愛情を深く求めていたのかもしれない。
「俺も今家を追い出されそうになってて、今すぐ金を手にしなきゃ帰るところもなくなっちまうんだ。正に崖っぷちだったところに、水戸から今度の話をもらった。だから俺……本気なんだよ。今はそのためにも早くメンバーを集めたい。自分のためにも、サクラギのためにもだ。だから、俺に着いてきてくれ。俺はお前を幸せにする」
歯の浮くような告白もサクラギの前で恥じらいはなかった。それだけ本気でこの気持ちを受け取めてほしかった。
「わかった……」
俺はすぐにサクラギを車に乗せ、とりあえず一度家へ帰ることにした。

二時間ほどで見慣れた街の景色が流れ、早くサクラギに服を着せようと俺はサクラギを連れてそそくさと車を降りるが、さて何故だろう…………
「あ、あれ……?」
車からコンビニで買った地図を、それを開きあえて住所を確認するが、そこに住み慣れた我が家がない。ゴミを溜めるだけ溜めてどの家とも見紛うはずのないあの汚家がない。綺麗な更地となっていた。
「………………」
言葉もなく愕然と立ち尽くしていると、そこに聞き覚えのあるダミ声が背中に飛んできた。
「おい、なんだその裸は!」
振り返けば、それはやはりまだ怪我の完治しない赤木だ。首輪をしたパンツ一枚のサクラギに不審な目を向けている。見慣れた俺には自然体でも傍から見れば変態、気まずい俺はサクラギを隠すようにその前に立つが、今はそんなことより今は家だ。
「赤木家は?」
「ああ、処分した」
「は?」
「大体あのゴミ屋敷のどこが家だ!」
「いやでも、荷物は……」
「あれで荷物もゴミも区別出来るか! 全て処分してやったわこのタワケ!」
「な…………、そりゃヒデぇだろ!」
怒りのあまり食って掛かったが、軽く否した赤木は一つだけ、「ああ、これだけはとっといたぞ」と俺の荷物を返してくれる。
「これ……って…………」
何が貴重なわけでもない、今や懐かしき三井姓の郵便受けだった。

車に戻ると、俺はまずサクラギに詫びる。
「悪いなサクラギ。知っての通り家も服も処分されちまった。なんとかすっから、少し我慢してくれっか?」
「別に、平気」
「平気なわけねぇだろ?」
衣食住の衣も叶わないなど、俺には耐え難い屈辱だ。人間扱いされていない、犬も同然、いや猿だったか。
せめてこの首輪だけでも解いてやりたいと、俺は助手席に掛けるサクラギの、依然として締められた首輪を優しく外してやった。サクラギはそんな俺の目を真正面から見つめていた。
きっと流川に縋ったように、今度は俺にも縋ってくれるのだろう。しかし俺は、流川ではない。こうして首輪を解いては視線で優しく愛でてやる、額に頬を擦り付け、掌で髪を撫でてやれば、やんわり目を細める男が目の前にいる。一見して野蛮そうなサクラギの、怒ると火を点けるという少し厄介な性格を持つ彼の非力な眼差しだった。
人差し指ですっと唇をなぞれば、サクラギはそっと瞼を閉じる。そのまま俺の口付けを受け入れてくれた。
――――遂に全てを失った夏の終わりの昼下がりだ。気が狂いそうな毎日を経て、漸く静かな時を迎えられた。全てを失ったことで迎えられた心安らかな時間だった。
「サクラギ……」
名残惜しく唇を離れ、俺は決意を改める。
「待ってろサクラギ、俺が何とかするからな」
そしてふと、唯一残った荷物である郵便受けを手にした俺は、雑駁に詰め込まれた中の郵便物を探った。といっても、請求書ばかりで溜め息しか出ないわけだが一つだけ……差出人名水戸洋平。すぐに封を開けた。

≪拝啓、三井様――
 三井さんと連絡が取れず何かと困り申し上げております。
 お変わりなければ何よりですが、今一度御一報いただけますと幸いに存じます。
 電話 xxx-xxxxxxxx  ――水戸洋平≫

「あの野郎……生きてやがったか…………」
俺は近くの公衆電話を探し出し、水戸にダイヤル。
「へい、水戸っすー」
…………あの軽薄な声は健在だった。
「水戸さん……」
「ああ、三井さんでいらっしゃいましたか。驚きましたよ三井さん、あの日いきなりいなくなってしまって、いやあ参ったもんです」
相変わらずのこの調子の良い声がものすごく腹立たしかった。
「参ったじゃねぇよ、あんた死んでなかったのかよ」
「ワタクシが死ぬ? はははは、三井さんたらまたご冗談を。それより、メンバーは見つかりました?」
「ああ、一人」
「それはおめでとうございます。ちなみにそのお名前は」
「サクラギ」
「サクラギ……はい、わかりました。ではあと四人ほど、最低でも三人はお願いしますよ」
そう言って、あっさり切られそうになった電話を、受話器の向こうの首謀者を俺は慌てて引き留めた。
記憶の中に浮かんだ顔のいい男を二人、名前を憶えている限りで告げた。
「ああ水戸さん、二人はこの間のフジマとハナガタでいーです。屋外のコートでバスケやってましたから。だからあと一人、なるべく安全そうなの、いませんかねぇ?」
水戸が生きていたなら尚更、俺は急ぎたかった。家のない今は、愛しいサクラギに服を与えたい今は、そして水戸になんらかの逆襲を企む今はメンバーハンティングだけでもすぐ終わらせたかった。
「そうですねぇ。これは噂に過ぎませんが、【陵南釣具店】という店に一人いるとかいないとかの情報がございまして」
「わかった。その辺の住所たのんます」




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