犬猿の鎖 6

不思議な感触で俺は目を覚ました。目の前には見慣れぬ天井、仰向けの俺に布団が被さり、自分の物ではないガウンを纏っている。そして、ずっと胸の辺りに感じていたモシャモシャした感触。目の冴えるような赤だった…………
「って、髪――――!?」
見下ろした先に見えた人の頭、横顔にぶったまげて跳ね起きれば、赤頭もまたゴシゴシと目を擦る。こいつは俺に寄り添って寝ていたというのか、赤い坊主頭の男は裸、いやパンツ一枚で首輪をしていた。
そこに手前のドアが開き、確か俺を助けてくれたあの無表情な男が顔を出す。第一声はまた不愛想なものだった。
「どけ、どあほう」
どあほう……?と俺が顔を顰める横で反応したのは赤坊主だ。その男に怯えるよう、赤坊主がそそくさと俺の背中に身を潜める。すると男が右手に持った鎖をグイと引くことで鎖の繋がれた首輪で赤坊主の首が締まる。赤坊主は部屋の外へと放り出されていった。
「………………」
やはり変人だらけだと確信した。
布団を出た俺は男にリビングへ、奥のソファに掛けるよう素っ気なく促される。並んだ家具や最新のAV機器を見回しては、それなりに金のある生活が窺える。間もなくリビングに戻った男の身なりも清潔、彼はテーブルにコーヒーカップを二つ置くと、俺の隣に腰かけた。ソファの広さに比べ、やや間隔が狭いのが気になったところ。
「誰だテメェ」
開口一番、まるで恨みの籠もった鋭い視線が俺の頬に突き刺さる。
「はあ、ああ、三井です……」
「三井。下は」
「ああ、寿です」
「寿……」
男は意味深長な間を置き、ご丁寧に名乗り出す。
「俺は流川」
「はあ、るかわさん」
「流れる川だ」
「あ、そうですか……」
「で、テメェはあそこで何してやがった」
「実は、一緒に来た連れが途中でぶっ倒れて、公衆電話探してたら迷っちまって……」
そこまで口にして俺は水戸のことを思い出した。
「あ、電話貸してもらえますか?」
携帯にかけてみて、せめて安否だけでも確認したい。
そこだ、と男に顎で促された壁際へ、電話の受話器を手にしたところ…………
「でも電話引いてねぇ」
「…………」
憮然として受話器を置く。仕方ない、水戸のことは諦めた。今日のところはとりあえずは帰るしかなさそうだ。
「あの、流川さん」
「呼び捨てにしろ」
「じゃあその流川、俺帰りてぇんだ。悪いけど、駅まで乗せてってもらえねぇですか? 乗車賃ならあとで経費で……」
「金はいらねぇ。だがもう電車はねぇぞ」
言われて見上げた壁の時計はすでに十二時を回っていた。雨で身を冷やした所為で長らく寝てしまったようだ。つまり今夜は帰れない。ハァ……とわかりやすく肩を落としていると、またも男が救ってくれた。
「明日俺が送ってやる。だから今日は泊まってけ」
「あ、すいません……」
外はまだまだ雨、それでも帰りたいと身勝手をいえばこの男にも迷惑がかかる。他に選択肢はないのだ。
この町にいる限り嫌な予感は拭えないが、この男に関しては今のところ無愛想なのと、赤坊主を飼っている以外におかしな点はない。俺は今日、ここで世話になることに決めた。
男は今、コーヒーカップを下げにリビングを出ていったところ。そこに先程のどあほうがやってきて、どういうわけか俺の膝に擦り寄ってきた。餌付けしたわけでもない、ただ一緒に寝ただけだというのにこんなにも懐かれてしまったようだ。とはいっても体格のいい男であることは間違いないが、それでも気のせいだろうか……首輪を繋がれたまま、甘えるように寄り添う赤坊主を少しばかり可愛く思う。悪い気はしない。流川の気持ちもわからんでもない、と感じる俺もそろそろ変態が伝染ったか。
「おいで」
右手を伸ばしては更に身を寄せてきたどあほうの、その赤い髪を撫でてみた。
すると次の瞬間、どあほうは一気に引き離されていった。
「どきやがれどあほう」
不機嫌な流川が鎖を引いていたのだ。どあほうは苦しそうに喉を押さえ、流川が鎖を離すと同時に逃げていってしまう。
「おい、可哀想だろうそんなことしたら。首が締まれば人は死ぬぞ」
俺がどあほうを心配すると、流川は的外れな反論をする。
「アイツは猿だ。犬じゃねぇ」
「は……?」
「赤毛科だ」
「いや、人間だろ?」
「赤毛猿だ」
もう犬でも猿でもどうでも良いが、流川にはしっかり言っておきたい。
「猿は構わねぇが、あんなに引っ張ったら可哀想だろ? 苦しそうにしてたじゃねぇか」
すると流川の顔色が変わった。鋭い気迫で目の前に詰め寄ってきたから、俺は身動きできなかった。また暴力を振るわれるのかと堅く身構えたが……
「好きなのか? どあほうが」
「いや、そういうわけじゃ……」
流川が隣に離れてくれたから妙な不安は消えたものの、それは頬杖をついたまま黙り込んでしまった。明らかに不機嫌な表情を浮かべじっと俺を睨み付けている。なんとも気まずいこの沈黙……俺は親しげに語りかけることで空気の打開を図った。
「いやあ、今日スゲェ巨大な仏像を観光してきてさ……」
「…………ああ、あれ」
沈黙は破れた。
「寿はあの仏像、どう思う?」
「俺は……まあ少し変わってるとは思うが、それもまたセンスだ。仏像はまず拝むことに意味がある。だからとりあえず拝みはした」
先ほどのこともあり、俺はうっかりこの男の逆鱗に触れぬよう、無難な答えを並べたつもりだ。何せここは流川の家、流川に追い出されたらもう行くところがないのだから。
しかし流川は尚不機嫌だった。
「……あれはどあほうだ」
俺の気遣いを一切無視したまさかの一刀両断、思わず言葉に詰まる。それでもまた沈黙は困ると、ここはいっそ大袈裟な程に同調するしかなかった。
「ああ、俺もビックリしたぜ。大体なんだよあれ、仏像だっつーのに太ったオヤジだぜ? でかけりゃいいってもんでもねーし、金に銀ときたもんだ。ふざけんのもいい加減にしろっつんだよな? 本当どあほうだ。一体どんなどあほうがモデルんなんだか、一度この目で見てやりてーわ」
精一杯の空世辞。ここまで気が合う友達を装っておけばどうにか明日まで持つだろうと、横目で隣を窺い見れば流川は無表情のまま、一点を見据え一向に口を開こうとしない。だからといって、先ほどのように怒り出すわけでもない。沈黙が再び訪れた。
……さあどうすべきか。二人きりのリビング、呼吸も聞こえるこの間隔で外はザーザーと雨が降りしきる中、俺もただ黙るしかなかった。出会ったばかりの他人の家で過ごす長い夜、時刻は一時を回ろうとしていた。
やがて、口を切ったのは流川の方。
「モデルは、俺の恩師だ――――」
真っ白な稲光。直後、稲妻が落下する瞬間を見た。




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