犬猿の鎖 3

背中と後頭部がゴリゴリとしてなんとも夢心地が悪い……。慣れぬ痛みと不快感に藻掻きつつ、はっとして目を覚ませば淡い蜜柑色の空がどこまでも広がっていた。夏とはいえ日中に比べれば肌寒い屋外で、俺は雑草の茂る石砂利の上に横たわっていたのだ。そしてゆっくりと上体を起せば、徐々にありありと浮かび上がる視界に廃墟と化した巨大な建物――――。
「一体、どこなんだここは……?」
夢がまだ覚めていないような、どことなく奇妙な雰囲気に周囲を見回そうと腰を捻れば全身に強烈な痛みが走る。……おかげで今思い出した。俺は確か二人組の男に拉致暴行、強制猥褻を食らったのだ。南と岸本の顔までありありと記憶が蘇ったところでものすごく嫌な予感がした。心なしか尻に違和感が――――
「ってまさかな。まさか…………だよな。おし、おし!」
気の所為だと言い聞かせつつもここに二人がいないこと、手縄が掛かっていないこと、服を着ていることを確認。そしたらすぐにでも家に帰りたいが、ここで一つ気付いたことがある。
「あれ……?」
下げていたはずの鞄がなかった。
そこに折しも後方の車道から一台の車が走ってきて、どういうわけか俺の目の前で停車する。運転席から降りてきた男は茶髪にピアスといった若々しい装いで、バスケットボールを手にしたまま俺の許へ歩み寄ってきた。
「あ、気付いたんすか?」
初対面の俺を訝ることなく、依然としてバックバージンを案ずる俺の手前で立ち止まる。
「ああ、まあ……で、ここはどこだ?」
尋ねると若者は俄然、不満を顕わに大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
「いやいや、ここはどこじゃねっしょあんた?」
「へ……?」
うっかりタメ口を聞いたのがまずかったのか。他にも自らの無礼を探るが、そういうことではなかったようだ。
「あんたさー、あんなとこで寝てんだもん。あのまま放置されてたら今頃いい餌食っすよ?」
「餌食……?」
「いい? 俺はそんなあんたを助けてやったの。道端でぶっ倒れてた重てぇあんたを態々ここに運んでやったの」
「ああ、それは……悪かった」
「命の恩人すよ? 悪かったじゃねーっしょ」
「はあ……」
きっと二人組に棄てられただろう俺を運んでくれたというなら、それは感謝の一言に尽きる。俺のバックバージンからも感謝する。しかし軽く頭を下げただけでは若者の不満は治まらないようだ。
若者はまたしても仰々しい溜め息。怠そうにしゃがんではずばり申し出た。
「誠意、見してくださいよ」
「誠意?」
「三万円」
……納得だ。これは謝礼を前提とした善意というタカリなのだ。なんとも卑しい若者であるがまあ仕方ない。財布を落とせば発見者に一割くれてやるのが礼儀。これもある意味経費といえる。だが……
「そうだ俺の鞄ねーんだった」
そう言うと、若者は黙って俺の尻に視線を飛ばしていた。釣られて自らの尻を覗き込めば、「あ…………」何故か経費の入った封筒だけが尻のポケットに刺さっていたのだ。俺は仕方なくそれを抜き取り三枚を出そうとするが、果たしてどうしたことだろう。重みがない厚みがない、水戸から手渡された時のどっしりとした感覚が今もこの手に残っているが、それがこんなにも薄く軽くなっている。何より鞄にあったはずのそれが尻のポケットに入っていたのだから…………
「ちょ、なっ、疑ってんすか!? 助けてやった恩人を泥棒扱いすんの? うっわ最低だあんた」
俺の大きな確信を乗せた眼差しに若者の声は上擦っていた。
「別に疑ってるわけじゃねーが、にしても変だよなぁ……」
形成は逆転、盗人の言う誠意とやらをこれから見せてもらおうと目をすごませるが、立場はすぐ覆された。
素気なく立ち上がった若者が、ポケットから取り出した車の鍵をちらつかせていた。
「じゃあ、あんたがぶっ倒れてたとこにもう一回運んでやりますか?」
……いやいやそれは困る。カバンも地図もない今は、ここがどこかもわからない今は、早く帰りたい今はもうひれ伏すしかない。いや、誠意を見せるしかなかった。
立場を理解した俺は薄くなった封筒を今一度確認。
「一万……」
「一万五千」
「一万三千……」
「まいど」
差し出した一万を俺はすぐに手放さず、「駅はどっちだ?」若者もまた掴んだ指を離さぬまま「あっちっす」そう顎で示されるがその方角には林しか見えない。
「頼むから、乗せてってください」
いい年した迷子の俺にプライドも何もなかった。
若者は俺の封筒を一瞥。
「一万」
俺は帰りの電車賃を計算。
「五千円……」
「まあ、いっすよ」
そう言って、合計一万八千円を受け取った若者の首にはまたしても『2-MIYAGI』とある。
俺は最後にもう一つだけ、そのミヤギに願い出る。
「あと領収書だけ、頼む」
千切った封筒の端を渡した。
それから三十分ほどで駅に到着し、別れ際に受け取った領収書にはこう書かれていた。

【ローキュー会のえらい人へ 誠意と乗車賃 ¥18,000― 宮城リョータ】

そういえば、元メンバーのいるというこの地へ今日はメンバーハンティングへとやって来たわけだ。だとしたら今の宮城とやらも元狼球会のメンバーだったのか。といってもタカリ性なメンバーなどとてもお断りだと、俺は帰りの電車に揺られながらぼんやり夢と現の狭間を彷徨っていた。

やがて家に着くなり俺は真っ先に名刺の番号をダイヤルする。
「へーい、水戸っすー」
受話器の向こうからのかったるそうな声が今無性に腹立たしかった。
「水戸さん、あそこ一体何なんですか!」
「ああ、三井様でございましたか。早速行かれたんですね。どうでした? いいメンバー見つかりました?」
「ったくメンバーどこの話じゃねぇよ。男に追われて捕まって散々ぶっ叩かれて、挙げ句にはレイプされそーんなったし。金もたぶんスられちまったし、体育館どこじゃねぇよ! もうやってらんねぇよ!」
あの地を指定した水戸なら状況をわかってくれると、今日の災難を咎めるべくこのストレスを投げつけた。が、悠長な語り口を崩さぬ水戸の返事は他人となんら変わりなかった。
「ははは、三井さん、まさか暴漢に襲われたとでも言うんですか。まあ仮にそうだとしても、三井さんの素晴らしい脚力なら余裕で振り切れるでしょう。きっと、夢でもご覧になってたんですよ」
「夢じゃねぇ、本当だ。現に今俺の体はアザだらけだ!」
玄関先の鏡を見れば今朝とはまるで別人の俺がいた。髪はボサボサ、服には血や土が付着し顔だってやつれている。状況証拠がこの身にあるなら今からでも警察に……とついつい勇み立てば、やっと水戸が宥めてくれた。
「じゃあ三井さん、明日ワタクシがお迎えに上がりますから、明日はワタクシと共に参りましょう。一泊出来るよう宿抑えときますよ」
「あ、ああ……わかった」
電話を終え、受話器を置いた頃には冷静を取り戻しつつあった。最後の水戸の優しさに多少救われたのだろうか、今日の出来事がまさか本当に夢だったのではないかと思えてくるから不思議だ。ここまで災難詰めの一日が現実に起こりうるのだろうか。
過ぎてしまえば皆夢、水戸が同行する明日はきっと何かがわかるだろう。そしてメンバーハンティングさえ終えればバスケと金が手に入る。もういっそ誰でもいいから明日には終わらせてやる、と、あとは疲れ切った体をうんと休めることにした。




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