隠語と云われる様々な単語にも触れ、多様な愛の形に随分と寛容になった頃、晴子にバスケ部の見学へ誘われたことで普通の女子高生に戻ってみた。
当然ながら高校の体育館に受けも攻めもないわけで、そこは熱い気合と若い汗の飛び交う極めて健全な世界。私も少し前まではそこにいたのに、今はもう、ふとした瞬間に妙な妄想が散らついちゃうほど重症化してた。
「そこ! 体で止めやがれ!」
桜木くんの指示にすらとんでもない場面が浮かび上がり、出入り口から覗いていた私はそれを振り切ろうとかぶりを振る。すると隣にいた松井ちゃんにどうしたかと心配され、大丈夫だよ、とは言いつつも、顔を合わせられないでいた。自身の両頬に当てた掌に高熱を知った。
こんな副作用があったなんて……。後悔しても仕方ない。教えてほしいとせがんだのは私なんだから、誰にも文句なんて言えない。そもそもここまで重症なのは私だけかも……。
空想と現実がグニャグニャに歪む中、現実への脱出を試みて、ふと思い立ったのが後ろの席の彼と元彼のことだった。
あくまで他人事、他人の空想話として様々なボーイズラブに触れてきただけど、もしあの噂が本当なら、それは最早現実に、しかもこれほど身近に実在してしまうだなんて……。
だって、つまりあれよ? あんな卑猥な台詞をあの安田さんが、そこにあんなキスを水戸くんが……だってそんな、えっ? なっ、だって…………!
「ちょ、ちょっと待って! そんなぁ……!」
かぁっと火照る顔を覆い尽くしつつしゃがみ込むと、松井ちゃんにはとうとう保健室へ連れて行かれそうになった。その友情だけを申し訳なく受け取って、私は俯いたままそそくさと帰ろうとして、そして、流川くんとぶつかっちゃった。
「あっ、ご、ごめんなさい!!」
体育館からの渡り廊下で走ってた私の肩がぶつかり、その衝撃で持っていた鞄が宙に飛んだ。同時にその中身まで散らばってしまい、落とした数冊をなんと流川くんが拾って、立ち竦む私には手渡してくれた……!
「ゴメン」
「ん、んーん! こっちこそ!」
流川くんの「ゴメン……」に思わずときめいたのも束の間、差し出された表紙を見て愕然とした。そこに流川くんの視線も突き刺さってたことに尚愕然として、微妙な間を経た後でそっと受け取った数冊を、その表紙を伏せた。
流川くんは何やら考え込むように、頭を捻ったまま体育館へと去っていった。
「流川くんゴメン……」
その背中にこっそり詫びると共に、今一度先の「ゴメン……」を顧みては今も止まないときめきを知った。
自分は優しくて落ち着いた人が好きだと思い込んでたから、無愛想で冷たそうな彼を恋愛対象としてみたことがなかった。しかし今のゴメンは意外に素直というか、彼の優しさを垣間見た気がして……。
晴子ゴメン。やっぱり私は普通の女の子だった。そう確信した。いや、この時点ではそうしたい気持ちがまだ残ってたのかな……。
帰ったらあとはいつも通り、閉め切った部屋で机に座り、受験勉強と称し広げた教材の上で悶々と過ごした。悶々と…………ダメ! やっぱり考えちゃう。
もうここまで来たらすごく気になるじゃない。結局安田さんのあの噂は本当なの? 本当なら、どっちが受けだっていうの? 好きになったのが安田さんなら、安田さんが攻めってこと? ウウン、そうとは限らない。一方的に愛する受けだってこの前借りた漫画で読んだし、それにリバーシブルなんて美味しい展開もあるはず。この下敷きとノートだって謂わば表裏一体というもの…………。
……まただ。私、また勉強してない。受験勉強という避けられない言葉を最近忘れかけてた。学校でも塾でも家でもそこら中で目にするのに、目が霞んで見えなくなった。きっとBLの読みすぎで少し目が疲れがちなのと、やはりこの噂の所為……。そもそもこの噂の発端は? 根拠は? 発信源は?
考え出したらキリがないけど、たった今、一つ思い出したのが去年の卒業アルバムだった。確か安田さんのクラスの文集にランキングがあって、あの噂の所為で安田さんが一位になってたはず。やはり何かしらの信憑性があったのかな……と睨んだ私は、翌日から動いた。
「澤田さんのお姉さん、去年五組だったよね?」
その先輩の妹に声を掛け、文集のことを訊いてもらった。その翌日に返ってきた答えはバレー部の後輩で、私と同じ学年の彼女が噂の提供者だという。
「折崎さんね……わかった」
その折崎さんは確か、去年水戸くんと同じクラスだった。ちなみに桜木くんとも同じクラスで、桜木くんが宮城さんに惚れてるという噂も彼女から聞いたという。
二組の教室を訪れた私は真っ先に彼女の机へ、こっそりと廊下へ呼び出し、真相を尋ねてみた。彼女はあっけらかんと話してくれた。
「あれは水戸くん本人が言ったのよ。安田さんって先輩にいつも言い寄られて困ってるって。俺の尻が狙われてるって」
「え? し、ししし尻……!?」
周囲には他の生徒の往来する公然の場で、突として齎されたボーイズラブに思わず取り乱したけど、私は顔を赤らめるに留める。
そしてもう一つの噂もまた、あの後ろの席の彼が発信者だったそうだ。
「桜木くんのことだって、あいつ宮城さんのこと大好きだかんなーって。ありゃ突然抱き付いてもおかしくねーわ。宮城さん卒業したら泣いちまうんじゃねーの? って言ってたから、私もその宮城さんと安田さんが気になって、部活中に先輩に訊いたのよ。そしたらまさかランキングに載ってるなんて」
「なるほど……」
桜木くんの件については少し違う気がするけど、それはそれで素敵……! と思ったのは内緒の話。根拠こそ見えてこないけど、でも発信源は確定した。まさか本人だったなんて……。
そしてその日のホームルームの時間、私は最後の賭けに出た。もし水戸くんの言った話が本当なら、水戸くんはこれから何らかの反応を示すはず。今のところCP表記は安→洋で、安田さんの一方通行を水戸くんは疎ましげに言いふらしてたわけだから、その通りなら露骨に嫌悪するだろう。今はどっぷりな私ですら、初めて知った時は酷く動揺したんだから、まずは「えっ……?」と驚きの一つでも上げてくれるかもしれない。
……わざとだった。私は水戸くんを試そうと、今日も彼の前に着席しては机との距離を広めに取り、机の中から僅かに覗く本の角に手を掛けた。
やがて先生が起立の声を発し、後ろの彼の怠そうな溜息が「ハァ……」と聞こえたと同時に、私はそれを引き出した。彼にしか見えないように本を傾け、男の肌色が絡みつく表紙を彼に見せつけた。
勿論、こんな趣味をしてるんだと言いふらされるリスクもあるけど、正義の味方である彼がそんなことをするわけない。女子はそんなものを見てるんだ、ぐらいに留めてくれるはず。今までそうだったんだから……。
今、水戸くんの目が確かにそこを捕らえているのを背中で察した。しかし私はなぜか、そこでそれを引っ込めてしまった……。
やはり軽蔑されたくないという理性が働いたと思う。軽蔑する水戸くんの白い眼を見た気がして、うっかりを装って本を押し戻した。
水戸くんたちは、いや、桜木軍団は確かに昔は恐かった。バスケ部のこともあって皆すぐにその偏見を打ち壊したけど、私にはわかる。彼らは……いえ、水戸くんは本当に恐い。味方でいる内は頼もしいけど、敵にした途端、何が飛んでくるかわからない。腕力でも恫喝でもない、目に見えない威圧は相手を把握した上で最も効果的な威嚇をしてくる。把握する、だから恐い――――。
礼をした後も私はその眼光に怯え、いそいそと教室を出て行った。
そして、忘れ物に気付いたのは帰った後のことだった。
|