on your own 8


再会は一週間後だった。酷い悪夢に魘され目を醒ますと、そこもまた、悪夢なのだろう。真っ暗闇の中で一人、何やら閉塞された狭い空間で呼吸も難しい。柔らかな何かに埋もれ、身体も窮屈でもがくにもがけず、寧ろ身に絡みついて益々動けなくなる。まさか、ご主人様に出会う前のあの孤独な日々に戻ってしまったというのか。これは悪夢か現実か、それとも…………。
「ミャー! ミャー!」
堪らず声を発した。すると、天の暗闇が端から避けるように割れ、脱出できるほどに開かれたそこから眩い光が射し込んだ。そして、きっと私を救い出してくれるだろう彼の瞳がこちらを覗き込んでいた。
「お前……いつの間に……?」
ご主人様その2、流川の顔がそこにあった。
同時に思い出したのは今朝のこと。夜遊びに出かけ、初めて朝帰りした私はキャットフードにありつくとすぐ、急激な眠気に襲われた。よって朝でも暗く静かなここ、つまり流川のスポーツバッグに潜り込み、中のタオルに包まり寝てしまったのだ。
そしてここは流川の通う学校内。私がバッグにいることも知らず登校してしまったわけだ。呆れる流川の溜息の向こうに見切れるほどのロッカーが並んでいた。
流川の背後からは、更に見覚えのある顔がこちらを覗き込んできた。彼はきゅっと凝らした目で私を見つめると、早速流川に食ってかかった。
「おいルカワ、何ネコなんか連れてきてんだ!」
このギラギラした目と赤い髪、少し嗄れた粗野な声……桜木だ!
「ミィー!」
バッグの口から顔を出した私の姿を捉えるなり、桜木は弾き飛ばされたように慌ててロッカーまで後退した。
「そ、そそそそれ! チビの黒猫! ソイツ、夢ん中出てきた喋る猫じゃねーか!」
「は……?」
「ソイツ喋ったんだよ! いや夢ん中だけどな。ああでもなんで現実にコイツがいる!? しかも流川が連れて来て……ああぁもうわからん!」
「朝っぱらから呆けんなドアホウ」
流川に散々嘲られながら頭を抱え嘆く桜木の向こうで、「始まった……」「まただ……」とうんざりした声が聞こえる。身を乗り出して見回せば、二人と同じジャージを着た男らが数名、着替えをしている最中だった。これはよくご主人様たちの会話に聞くバスケ部、という群れなのだろう。
程なく奥の扉が開くと、彼らは一斉に「ウース」と口を揃え頭を下げ、流川もまた振り返り「ウス」と声を発した。
更なるバスケ部員の登場に桜木もはっと振り返ると、誰よりも大きな、もとい煩い声で挨拶に続いた。おかげでやっと我に返ったようだ。
「おっと、猫なんぞに構ってる暇はない。今日も俺が一番乗りだぜ! 付いてくんなよルカワ!」
すでにランニングに着替えていた彼は誰より早く、揚々とこの場を去っていった。先週の憂鬱はどこに行ったのやら。まさか……告白は成功したのか?
そこにまた、一人の男が流川に近付き、話しかけてきた。
「流川、あの話はどうした?」
見上げれば、牧の浅黒い顔があった。彼はロッカーの棚のバッグから覗く私の姿にも気付いた。
「その猫……どうしたんだ? 連れてきたのか?」
「なんか入ってたッス」
「入ってた……?」
「どっか置いてくるッス」
「んまあ、そうだな……裏庭にでも放っておけば誰かエサでもやるだろ。それより、デアの人にはなんて返事した?」
「俺はアメリカ行くって」
「は……? アメリカだと? 流川、諦めたんじゃなかったのか?」
着替えを終えた周囲が続々と部屋を去る中、牧は唖然と固まっていた。首を横に振る流川を見て、眉間に皺を寄せ腕を組み、改めて問い質した。
「術がなくなったとは言わないが、それならやはり留学すべきだっただろ。スカウトの目に触れてなんぼの所でその機会を蹴っといて、諦めてないとはどういうことだ?」
「トライアウト……NBAのトライアウト、狙ってるッス」
「狙ってるったって……つまり、卒業後か。しかし国内でそれなりの戦果を得てもなぁ、いい後見人がいればまあ、無理でもないんだろうが……」
「監督には入学前に話したッス。俺の頑張り次第で受けるとこまでは持ってくと」
「そっか。監督がそう言うなら期待するしかないな。何かしらツテはありそうだし、それでDリーグにでも入れればそこからまた開けるだろう。全て流川次第だがな」
「……」
「しかしだな、いざ受けるとなったら、選抜みたいなふざけたプレーして監督の顔に泥塗る真似は出来んぞ」
後輩が顔を背けると、先輩の口許がニヤリ。
「勿論、先輩である俺にもだ」
得々と暗に挑発を匂わしたまま、牧は裏のロッカーへと回って行った。
流川は暫し佇んでいたが、一息して「行くぞ」と私をバッグから取り出す。ジャージの内側にこっそり抱えて連れ出され、放たれたのは芝いっぱいの校舎の裏庭だった。
満遍なく注ぐ陽射しの下、まだ人気のない中で彼は私に忠告した。
「あんまり遠く行くな。呼んだらちゃんと来い。わかったな」
冷めた声音とは裏腹にしっかり私を撫で回してから、流川は私を置いて体育館の方に戻っていった。
というわけで、暫しのさよならを「ミャァ」と返した私は一先ず駆け回るとした。まだ人が遠くに見えるうちに、くすぐったい芝の中で紋白蝶を追いかけ回す。転んで起きてまた追いかけ、疲れたら寝る。途中人の声やら背中や頭を撫でる感触があったが、眠気には勝てない。寝る。煌びやかな陽射しに包まれ極上の睡眠を満喫していた。ところがあのボソボソとした声が耳に入っては自然と瞼が開いてしまった。
「おい、チビ。飯だ起きろ」
目の前にジャージ姿の流川がしゃがんでいて、差し出してきた右手にはおにぎりの半分。この塩辛い匂い……中身は鮭! 眠気などすっかり吹き飛び私はおにぎりにかぶりついた。
「寝起きでよく食うな」
この男、他人にはほぼ無口なのに私にはよく喋る、という気持ちもどうでもいいほど、無我夢中で食べている時、たまにこんな声が出る。
「ンミャァィ」
周囲でひそひそ話す女子生徒も気にせず、隣に腰を下ろした流川の掌に貪っていた。
そこに前方から、誰かが歩み寄ってくる威圧的な気配を感じた。
「よぉ流川」
差し込んだ大きな影の正体は、ランニングにジャージを羽織った桜木だった。
流川は透かさず不機嫌だ。
「なんだ貴様、またストーカーか?」
「違げぇ! 俺はコイツに用があんだ。なぁチビ助」
そう言って、桜木が下げたビニール袋から取り出したのはニャんとチクワだ!包装が解かれた瞬間から甘い魚肉の匂いがして、少し残ったおにぎりをそのまま私はチクワに飛び付いた。
「ミャーッ!」
「おぉいい子だ。よく食うな。うん、やっぱりありゃ夢だったんだな。猫が喋るわけねーもんなぁ。おーよしよし」
夢……? と訝しむ流川をよそに、しゃがんだ桜木が私の頭を撫でる。
「お前のおかげだチビ助。肉球の痕付けてくれたおかげで晴子さん、涙流すほど笑ってくれたぜ。不思議だよな……夢だけど、夢じゃなかったんだ」
どこか浸るように呟いた桜木の顔は涼やかだった。きっと、告白できたのだろう。結果はどうあれ、憂いの立ち去った静かな微笑にはほっとした。真上から日差しを受けたその顔が、一段と凛々しく見えた。
「それより流川、テメェにもスカウト来たってマジなのか?」
「テメェにゃ関係ねー」
「フヌゥ……調子に乗んなよルカワ! 選抜で俺に負けたこと忘れたか?」
「忘れた」
あ……まただ。私がチクワに夢中の間に早速始まってしまった。
「んだとルカワー!」
「うるせードアホウ」
数羽の紋白蝶が一斉に飛び立ち、周囲で弁当を広げていた僅かな学生もいそいそと離れていく。
「やんのかコラ?」
「また口だけか」
せっかくの日向ぼっこの場が騒がしく荒らされ、皆が敬遠し冷やかしすら湧かない中で立ち上がった二人は啀み合う。此間の喧嘩の続きが漸く始まるのだろうか。それなら……とチクワを齧りながらの観戦に入ろうとしたところ、また邪魔が入ってしまった。
「コラお前ら! また喧嘩か!」
遠く渡り廊下から響く声は野太く、直ちに駆け寄ってきたその男は例によって背が高く、そして同じ白のジャージを羽織っている。
「ぬぉ!? キャプテン」
まるで野山から駆け下りてきた如く芝生を突っ切ってきたその大男は正に大猿の風貌を持ち、二人の前に立ちはだかるなり両の拳骨を振り下ろした。
「痛てっ」
「……ッ」
両膝を付いて頭を抱える二人を見下ろし、彼は怒鳴った。
「バスケ部は身長だけでも目立つんだからあまり騒ぐな! 喧嘩はジャージを脱いで校外でやれ! くれぐれも昨年全国二位の名を汚す真似はするなよ! わかったか一年坊!」
「オッス……」
「ウス……」
ある意味、喧嘩よりすごい場面を見た気がした。
「クソッ、ゴリとボス猿と丸ゴリを足して割ったような顔しやがって!」
そう桜木が形容する大男が去っても二人は自らの頭を押さえ続け、それとなく目が合うと、今度は静かに啀み合う。
「クソォ! ルカワの所為で俺まで怒られたじゃねーか!」
「テメーだドアホウ」
「そもそもテメェが俺と同じ大学に来んのが悪りぃんだ! このストーカー野郎!」
「知るかドアホウ」
本当口ばかりで何が楽しいのやらだ。結局殴り合いには発展せず、好い加減飽きた、とばかりに二人は同時にそっぽを向き、昼休みの悶着は終わった。チクワを食べ終えた私を見下ろした桜木が無言で立ち上がった。
徐々に周囲の人々も去り、静けさを取り戻す中、数歩去った桜木が背を向けたまま、ふと足を留める。そこへ芝生薫り立つ風がそっと、流川の視線を促していた。
桜木が、やけに冷めた声音で告げた。
「テメェがリーグ入りしようがアメリカ行こうが俺には関係ねぇ。だがなルカワ、これだけは言っとく」
南の方からまた、微かな潮の薫りを乗せた新たな恵風が舞い込んできた。
「俺は……俺は一生バスケ辞めねーからよ。行けっとこまで行って、テメェが邪魔なら追い落とすまでだ。そしてテメェが晴子さんフったこと、いつか後悔させてやっからよ。覚悟しろよ」
力強く走り出した桜木の前方に、渡り廊下のその向こうに真新しい体育館が覗く。見切れる程続く屋根の上には昂然と広がる碧羅の天。どこまでも突き抜ける碧い海を、鷹揚と羽ばたく飛行機を眩しげに見上げた流川もまた、この場で立ち上がった。持ち上げた片手で顔に陰りを作りながら、薄く細めた目で前方を見つめていた。
「調子乗んな、ドアホウ……」
呟いたその瞳に、早くも渡り廊下を突っ切る背中が、その鮮やかな髪色がいつまでも映り込んでいた。

その晩、また流川の鞄で運ばれての帰宅後のこと。暗い寝室に照明が灯り、彼の着替えが済んだ頃にご主人様も帰宅した。
「チビのヤツ、今日俺の鞄に入ってやがった」
「え……? ってことは、そのまま連れて行ったの?」
という今日の経緯が交わされ、そして、早速ジャケットを脱ぎネクタイを外すご主人様の前に流川が立った。
スウェットに着替えたものの、練習で息を切らせたばかりの流川は今尚、精悍な顔をしていた。
「ん? どうした流川、あまり見つめられても落ち着かないんだが」
「先輩……」
静かな声音で呼びかけ、一度外した視線を戻した流川は改めて息を吸い、一息に告げた。
「先輩俺、今度はぜってぇアメリカ行く」
「……」
「ここに先輩置いて。でもちゃんとここに帰ってくる」
それは空港近くで私が拾われたあの日、目の前で交わされた諍いの続きだった。
そんな流川の志は桜木と同様、いや、それ以上かもしれないのは今日の部活の帰り、一人残った更衣室を顧みて。
ご主人様はシャツのボタンに手を掛けたまま、視線もそのまま黙していた。が、「だから……」と力なく続けた流川にさっと両手を差し出し、その腕の内にきつく抱き留める。
「わかってる。わかってるよ……」
どこか自分にも言い聞かせるように応えたご主人様は、更に深く抱き寄せると、床に放られたままのジャージを見つめる。
「部活で満足できるほど流川は温くないもんな。あれだろ? 去年の不調も、更なる高みを欲したからだ。より厳しい環境に踏み入れなきゃ、強くなれないって。いや…………そう考えるのが流川だって、わかってるそのぐらい」
投げやりに、苦々しく言い切ったご主人様の背中に流川の両腕が回る。
「先輩……」
ギュッとシャツを掴んで見上げた流川と視線が通じ、ベッドに佇む私など構うことなくまた、二人の胸が重なった。
今一度顔を見合わせると、ご主人様が返した言葉は「ゴメン」というこれまでの謝罪。私の知らない二人の由縁と、知的で穏やかな空気を脱ぎ去った、胸元のはだけたご主人様の長い長い、告白だった。
「ゴメン流川……。全部わかってたよ。わかった上での我儘だ。本来なら、今頃あっちで強いヤツらに揉まれてヒーヒー言ってんだろな。ああ、あっちは今早朝か。それでも環境が異なることに変わりない。バスケのためだけに滞在する、生活する環境はきっと、流川を更に成長させただろう。だから流川もそれを望んだし、俺にも以前そう告げた。流川のことを考えればそれが正解だし、俺も含め皆がそうあるべきだと望んだ。しかし、俺は面白くなかった。バスケとは無関係なところにある俺の幼稚な我儘だ。我儘だから、そんな大人気ない気持ちを発するわけにもいかず、そもそも反対するつもりもなかったから、無視するしかなかった。消えたわけじゃない、心の隅に放置しただけ。だから、それはやり場を失くした不満として心に巣食った。それを消す術がわからず、結果として、自分でも知らぬ間に当たり散らしてたようだ。流川にも藤真にも神にも木暮にも、目に見えるほどの蟠りが漏れ出てた。誰にも言えない、どうせ誰にもわからないという卑屈さが滲み出てた気がする」
その蟠りを顧みてか、私の知らないご主人様をここに映し出すかのよう、彼は背中に影を負った。しかしすぐ、蛍光灯の下に清しい顔を晒し、その名を発するごとに普段の彼を取り戻していった。
「救ってくれたのは、藤真だった。藤真のヤツ知ってたんだ。さすが長年共にしただけあるよ。流川のことも全て見抜いてた。そして俺のことも……。別に何を解決してくれたわけじゃないんだ。ただ俺をよく知った上で気持ちを解放してくれた。今思えば、巧く騙してくれたんだ。昔から気圧が低いと頭痛を起こすと知ってて、だからその所為もあるとこじつけて、それも春が来れば治るからと、器用に誘導されただけなんだ。たったそれだけでチーム脱退も取り消した。言うなれば、たったそれだけのことだと気持ちを掏り替えられたんだ。でもそこまでしてあいつが俺を思ってくれることに、きっと感動したんだよ。我儘だった寂しさもそれで解消されると思った。そのお陰で、あの日も静かに見送ることが出来たよ。勿論寂しかったが、それでもまた、大人気なく顔を出さないなんてことをせずに済んだ。なのに……こんなにも苦しんだのに、まさかあの日流川が……」
憎々しい台詞と裏腹な笑顔は優しさに満ちていた。
ゴメン……と次に謝ったのは流川だ。しかし顔を横に振る笑みに流され、「だから……」という快い賛同に流川も少し、目元に笑みを浮かべた。
「だから、いいよ。今度こそアメリカ行けよ。卒業後だろ?行ってこいよ。その頃は俺も歴とした社会人だから、都合がつけばそっちに出向ける。海外旅行だって初めてじゃないんだ。英語も流川より出来るし、何より、また迷いが生じても藤真がいる。また、助けてくれる。……悪かった。俺は流川の人生に水を差した。謝るべきは俺なんだ。許してくれ。そして、あと数年……卒業までは俺とここに居てほしい」
目を閉じた流川の口元がやおら、柔らかく綻ぶ。無言で小さく頷いた、その直後のことだった。
「違げーよよーへー! フられてねーって言ってんだろ!!」
それは、壁を隔てた向こうの部屋から聞こえてきた。忽ち空気が崩れたこの部屋で、耳をピンと立てれば聞こえてくる、桜木と水戸のやり取りだった。
「わかってねーな花道は。考えさせての言葉もねーならそういうことだろ?」
「だから無言だ無言! まだ好きも嫌いもねーってことだよ!」
「ってことは、まさか怒らしたのか? いったい何言ったんだ花道?」
「そりゃぁ……決まってんだろ? 『好きッス、それだけッス。返事はいりません! さ、さいなら……』って。別に怒らしてねーよ」
「まさか、それで去ったのか?」
「……そうしろって、よーへーが言ったじゃねーか」
「言ってねーよ」
「言ったんだよ。夢ん中で。早く気持ち伝えろって。いい加減報われろって」
「そうは言ったが…………うーん、まあ、もう過ぎたことはしゃーねーか。で、それから連絡来たのか?」
「まだ……」
「だろーな。でもま、晴子ちゃんはそーゆーとこ疎かじゃねーから、いつか連絡くるだろ。楽しみだな花道。来たらちゃんと教えろよ? なんたって俺の五千円……」
「んだとよーへー!? また賭けかコラ!」
あらら、早速また喧嘩かな? と逸り出した気のままベランダへ赴き、ここを開けてと前脚でカリカリ。
「お前はまた夜遊びか?」
背後からご主人様に抱えられ、今日の脱走は失敗に終わった。それでもミルクを貰えばご機嫌に、餌を食べれば満腹になり、ふかふかのベッドで寝てはまた、新たな一日が始まる。
カーテンから漏れる春光と共に聞く、あの軽快な足音。囀る鶯の向こうでぼやく、あの少し掠れた声。芽吹き出した桜草をベランダから見つめる、あの温和な笑顔……。奇跡的にやってきたこのアパートの住人との生活が、騒がしくも愉快な毎日が始まろうとしていた。
ほんのり香る、淡く光る桜まじが今日も外出を促していた。






―― end? ――


あとがき



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