on your own 7


とうとう桜木が去ってしまうと思うと少しつまらないが、水戸との交友を思えばまたすぐにやって来ることだろう。何よりもう真っ暗だし、早く帰らないとご主人様に怒られる……。
私も家に帰るとした。差し掛かった階段の踊り場で踵を返し、桜木と別れ、そして間も無くのことだった。
「ぬ……な、何故ルカワまで!?」
もはや悲鳴に近い桜木の嘆きを見下ろせば、それは同じ白のジャージを着たご主人様その2、流川の遅い帰宅を迎えたものだった。
階段を下りきった桜木に対し、ただ鉢合わせただけの流川は何故か怒っていた。
「テメェ、ここで何してやがる!」
尖った眼差しを更に尖らせた、威嚇の眼光が外灯の下に浮かび上がる。顔を引き攣らせた桜木は唖然と指さすだけなのだが、流川の怒りは増すばかりだ。
「貴様ストーカーしてんじゃねえ!」
すると桜木が漸く正気を取り戻し、というより彼もまた怒りを宿し、朧月浮かぶ静かな夜に近所迷惑な口喧嘩が始まってしまった。
「は? ストーカーだと? この俺がルカワ如きにんなことするわきゃねえだろ!」
「じゃあ何故ここに居る」
「ああったくどいつもこいつも! 俺はよーへーに会いにきただけだよ! 文句あっか? あ?」
「よーへー? ……ああ、あいつか」
桜木はストーカーではなく水戸に会いにきただけ。流川の勘違いは解けた。が、今度は桜木が食って掛かった。
「そういうオメェこそなんでここに居んだよ? まさかテメェもここに住んでるとか言うんじゃねぇだろーな? っつーか冗談でもやめてくれよ? テメェまでここの住人だとしたら、このアパートは一体どうなってんだ!?」
「用が済んだならとっとと帰れ。邪魔だどあほう」
冷たく桜木を押し退けた流川が階段を上り出す。その後ろで今度は桜木が勘違いを引き起こした。
「…………はっ!! まさか夢か? これは俺の夢なのか!? だからこんなわけのわからんワカランワールドに陥ったのか……。そうか、だとしたら…………!」
一人狼狽えていた桜木はすっ、と表情を落とすと、階段の踊り場に差し掛かった流川の背中を見上げ、呼び止めた。
「おいルカワ、一発殴らせてくんねぇか?」
流川は足を止めた。が、無言ですぐに一段を上った。
「そうか逃げる気か。ってこたぁ、大人しく殴られるってことだな? じゃあいくぜ」
そう言って、意気揚々と階段を上り出した桜木に流川は漸く振り返る。
「ここじゃうっせぇからあっちだ」
親指で差したのはおそらくアパートの裏の駐車場。そこでこれから喧嘩が始まるという……。
ニャンと! ここまで見守っていた私の隠れていた野性が疼き出したようだ。二人が向かう決闘の場へすでに四肢が躍り出ていた。

砂利の敷き詰められたおよそ二十台分の駐車場。二人が踏み入ると、疎らに生えた雑草の中でジィーーーンと鳴いていたクビキリギスが跳ねて逃げた。
ポケットに手を突っ込んだ流川が先に、車四台分程の空車スペースの中央で足を止めて振り返り、二人は対面。人一人分ほどの間合いを、まだまだ冷たい春の夜風が吹き去っていった。
照明は唯一、奥の社宅の外灯が二人の横顔をぼんやり映す程度だが、夜目の利く私には関係ない。ギラギラとした視線のぶつかる様が塀の上からもよく見える。火花が散り、今にも拳が飛び交いそうな状況だが、こうして場所を改めてまでいざ始まったのはまたも口争いだった。ハァ、まったくもってもどかしいニャ。
「こんなとこまで態々喧嘩売りに来やがって。そんな暇あったら練習しろドアホウ」
「夢ん中でも減らず口は変わんねーなルカワ」
「……? 寝ぼけてんのか?」
「寝坊助はテメェだろ?」
「そっちが来ねぇならこっちから行く」
「ああ来いや。だが、その前によ……」
と、口争いをも打ち切った桜木が一度視線を落とし、そして鬱々と語り出したのは、先ほども水戸に話した内容だった。
「その前によ、夢ん中だから教えてやるがなルカワ。あの日、晴子さんを泣かしたはオメェだ。いや、あの日だけじゃねーかもしれねぇ。もしかしたら今も……」
みるみる拳を緩める桜木が益々もどかしい。知るか、と呆れる流川に喧嘩を売ったのは桜木なのに、その更なる憤りを拳に託すのはまだ先のようだ。
「テメェのそーゆー態度が晴子さんを悲しませてんだよ!そのスカしたツラといいイケ好かねぇツラといい、ったくなんでテメェみてぇな……」
「やんのかやんねぇのか?」
「わかんねぇのかルカワ? そもそもなんなんだよ大事な人って。大事な人って、大事な人を傷つけてるって、一体何なんだよ!!」
声を裏返らせて訴えるは晴子という女性が語ったという、電話での流川の返答。
桜木が口にしたことで流川もまたはっとして、僅かに視線を逸らした。
「答えろよルカワ! 大事な人って誰だよ!」
「テメェにゃ関係ねぇ」
「俺だって別に知りたかねーよ。ただ……ただ、本当にいるならよ、晴子さんには、もっとはっきり言ってやれよ」
「だから関係ねーだろ」
「でもそうじゃねーと、そうじゃねーと……可哀想だろ? 晴子さんが」
すっかり威勢を失った桜木を前に、溜息を吐いた流川も呆れてやれやれと言った具合に両の掌を持ち上げていた。そして流し目に一瞥すると、とうとう首を垂れてしまった桜木の核心を衝いた。
「それはテメェの望みか?」
「ち、違げぇよ! これは晴子さんを思って……悔しいけど、俺には晴子さんの気持ちわかるからよ。どうせ振られるならキッパリ言ってくんねぇと、まだどっかで期待しちまうんだ……」
「テメェがそうだってだけだろ?」
「違う!」
「つまり俺がキッパリ振ってやればあのマネージャーが泣かねぇってことか?」
「泣く。きっとスゲー泣く! でも……諦めがつくだろ?」
ハァ……とまた溜息を吐いた流川は相当呆れているようで、まるで晴子に代わって嘆きをぶつける桜木を抑揚なく畳み掛けていった。
「だからそれはテメェの話だろ? そもそも俺は告白すらされてねー。泣く泣かねぇも諦めるもマネージャーの勝手だ。俺の知ったことじゃねぇ。それに、仮に俺がハッキリ振ったとして、マネージャーがテメェに惚れるとでも思ってんのか?」
「ち、違……う……」
「じゃあなんだ? 諦めさせればいいってか?」
「ああそうだ。テメェに本当に大事な人がいて、晴子さんにこれっぽっちも気がねぇならな」
「わかった……」
流川は冷めた表情も声音も崩さず、一息に告げた。
「俺には大事な人がいる。すでに同棲してる。あのマネージャーには気がねぇ。わかったらテメェから伝えとけ。これで満足だろ?」
「グッ……」
言い切った流川は一息吐くと、さっさとその場を離れていった。喧嘩も何も話で片がついてしまった……。が、背後で強く歯噛みした桜木が去りゆく背中を睨めつけると、恋敵を今一度呼び止める。
「待てルカワ。まだ一発ぶち込んでねえよ。晴子さんの気持ち踏み躙ったんだから、そんぐれぇ覚悟できてんだろ?」
「別にテメェが振られたわけじゃねぇだろ」
「ルカワテメェ、知ってんだろ? 俺が晴子さんに惚れてたこと。そして晴子さんがテメェに惚れてたことも!」
「……」
「俺の気持ちは晴子さんと同じなんだよ。だからその腹癒せくらいさせろや!」
「ふざけんな!」
……と振り向いた流川にはすでに桜木の拳が向かうが、顔面の前に持ち上がった左手が透かさず阻止。間髪入れず流川の右足が脇腹にヒットした。
「テメェルカワ!」
喧嘩が漸く始まった。しかし興奮して身を乗り出したのも束の間のこと、それは第三者の制止により早くも幕を下されたのだ。
「二人ともやめろ!」
乗ってきた殴り合いに水を差したのは、スーツからスウェットに着替えたご主人様だった。
同時に拳を止めた二人はご主人様の立つ駐車場の入り口を見やる。
「先輩……?」
「メ、メガネが何故また!?」
歩み寄るご主人様に各々反応を示すが、桜木がすぐ目の色を戻し、流川の胸倉を掴む。
「フッ、静かにしろってことだろ? じゃあ場所変えてでもやるぜ」
移動を促すが、流川の背後にはすでにご主人様がいて、「流川帰るぞ」その手を引いて連れ戻そうとした。
「テメェ逃げんのか? …………ん? つーかまさか、ルカワもしや、その、大事な人って……!?」
流川が足を止めたことで引かれていた手が離れ、ご主人様も留まる。目を見開いた桜木は、何かに気付いたようだ。
流川は最後、背を向けたまま一言。
「テメェの自信のなさを俺にぶつけんな。テメェの気持ちぐらいテメェでケリつけろ。俺は、俺自身でケリつけたから今ここに居る」
二人は再び歩き出し、桜木を置いてアパートへと帰っていった。
一人取り残された桜木は、誰もいない閑静な駐車場で立ち尽くしていた。賑わう店舗の声を遠くに、サアッと吹き去った風が暗い頬を撫でつけていた。
そして私はというと、塀の上に乗ったままただただ迷っていた。色々と事情を知ってしまったが故、一人ぼっちになった桜木が可哀想で仕方ない。少し付き添ってやりたいが、いい加減帰らなきゃご主人様に怒られそう。いや、忘れられて家に入れてもらえなかったらどうしよう……。うーん。
悩んでいると、しゃがみ込んだ桜木が深く顔を伏せた。
「ハァ……。なんで俺が……」
塀を下りた私は桜木の手前へと歩み寄り、声をかけると、桜木もまた顔を上げた。
「ミャー?」
「なんだ、またお前か」
そう言って、私の両脇を抱え上げると、まるで路頭に迷った子犬の目で私をじっと見つめてきた。
「ニャんだか大変そうニャー」
そう宥めた途端、私は直ちに桜木に放り投げられたのだ。
「わ、わわわなんだ今の!? 誰だ? 喋ったの! お前か? チビ助なのか?」
あれ? まさか、何かやってしまった……? 人様の前でつい、私は話してしまったようだ。私自身も驚きなのだが、自らの声を聞いたのも初めてなわけだが、あんなにも想いを詰め込んだ瞳で見つめられた挙句、声が漏れてしまったらしい。思えばすっかり人の言葉を覚えたわけだが、まさか喋れるとまでは知らなかった。
桜木の見回した闇の中に他の誰も見つけられず、視線は今一度足下の私を捉える。そして、彼は素晴らしい発想を再び口にした。
「そっか……! これ夢だったんだ! だから猫が喋るんだ。何よりコイツ、昔見たことあるぞ。……そうだ! それもおそらく夢ん中だ。流川に似た無愛想な黒猫が喋ったんだっけな……? コイツもちょっと似てるし、何より喋った! やはりこれは夢っつーことだ! ナハハハ!」
未だに勘違いしていることに安堵して、身を起こした私は彼の前にお座りした。そして、彼との会話を試みた。
「如何にも、これは私の声ニャァ。今日はずっと貴方のそばにいられて楽しかったニャ」
「楽しかっただと? じゃあさっきのやり取りも見てたんか?」
「んニャ。もっと喧嘩で盛り上がると思ったけど、残念だったニャ」
「そーかそーか! ……って馬鹿にしてんのかそりゃ?」
夢だと信じる桜木は何の疑いもなく私の話に応じてくれる。嬉しくなった私はもう少し話したくなり、私のこれまでを語るとした。
瀕死の私をご主人様が救ってくれたこと。今もそのご主人様に飼われ世話になっていること。いつかはご主人様に恩返しをしたいこと。
「そっか……。チビのくせに、大変な思いしてきたんだな……」
そしてここまで聞いてくれたことに感謝し、出来ることがあれば桜木にも礼をしたいこと。
「いや、これは夢だし、礼などいらんよ」
「なんでもいいニャ。ゴキブリでもネズミでも」
「所詮夢でも猫は猫か。いらねーよ、と言いてぇとこだが……そうだな。じゃあ、折角だから、俺の話も聞いてくれ。そしてどうしたらいいのか教えてくれ」
桜木が語ったのは、つまり今日水戸と流川に明かした内容だった。意中の女性が曖昧な言葉でふられ、落ち込んでいる。先ほど流川本人からの伝言を桜木の口から告げるべきか否か、それで彼女は救われるか。
「女心ってヤツは正直わからん。そもそも晴子さんだって別に告ったわけじゃねーのに、まして俺の口からあんなヒデェこと、言えるわけねーよ……」
私は思う。今日これだけ熱い気持ちをぶつけ、そして本気で返ってきた彼らの答えを彼は真面目に聞き取っていたのだろうか。
私は今一度語った。桜木の同情からくる晴子への気遣いは全てお節介でしかないこと。そう流川も暗に言っていたこと。そしてどうしたらいいのか、それも水戸が答えていたこと。桜木は大人しく頷いていた。
「つまり流川のこた無視して、俺は俺の気持ちを伝えることだけ考えりゃいいのか。うん、うーむ……ハァァァでもなぁ……」
頭をぐしゃぐしゃに抱え込む桜木の不安は優に察することができる。長らく流川に片思いしていた彼女が唐突な告白で靡くか……正直難しいところニャ。
「ニャんて告白するつもりニャ?」
「そ……そりゃぁ男らしく……いや、普通に、『好きです。お付き合いして下さい』だろ?」
肝心なところを流川よりボソボソと呟いたわけだが、正解は少し違う気がした。
「私が思うに、お付き合いというつまり相手からの想いも求めるということは、相手もそれだけ負担を抱くわけニャ。お付き合いするか判断せニャならニャい。そして返事をせニャならニャい。真面目な子なら尚更、真剣に悩んだ上になるべく早く返事をしニャきゃとそれはそれは抱え込むはずニャ」
「なるほど……って、俺の告白はそんな迷惑かよ!」
「それこそ相手によるニャ」
「んまあ、確かに……晴子さんの気持ち考えんの忘れてた。負担になったらどうすんべ……」
「伝えるのはあくまで好意なんだから、迷惑ってわけでもないニャ。でもそうやって相手の気持ちを考えればもう答えは出るニャ」
「わかったようなわかんねぇような……まあいい。なんとかやってみる」
そう言って、頼もしく立ち上がった桜木へ最後にもう一つ。
「もう一回しゃがむニャ」
なんだ? と素直にしゃがんだ桜木の、覗き込んできたその顔に、その片頬に、右前脚を振りかざした私は思いっきりビンタした。
「な……なななななんだ貴様! ここに来てケンカ売ってんのか? テメェ猫の分際でこの桜木に何しやがる! まあ、猫如きのビンタなど大して痛くもねぇがな。ただなんのつもりか説明しろこのチビ助!」
その通り、爪を引っ込めただけのただの肉球ビンタなのだから痛みなどないはず。
「ただの景気付けニャ。それに女の子のビンタに比べたら、雌のビンタなんてなんでもないニャ」
「ん? お前メスか。ガキだからさっぱりわかんねぇな。ま、いっか。それよりもう帰る」
再び立ち上がった桜木が私に背を向け、脇腹に付いた流川の足跡を払いながらぶっきらぼうに礼を言った。
「世話んなったな。ぶたれて礼なんか言いたかねーけど、なんか吹っ切れたっつーか、いい加減ケリ付ける気んなったぜ。サンキューな」
片頬に触れて、ニヤッと笑って、そして時間だ急がなきゃと慌ただしく、とうとうここを去っていった。
点々と灯る街灯が徐々に彼の背中を小さくして、角を曲がって消えるまでの間、見送った私は不思議な気持ちに覆われていた。
桜木にここまでするつもりはなかった。しかし数時間を共にして、彼のバスケと人に対する情熱に触れ、その度に心を揺さぶられ、気付けば言葉を交わしていた。ほんの僅かな時間にしてすっかり心が通った気がした。次に会った時には気軽に声を掛け合えるような、晴れやかな心が今もここに留まる。これもまた、人の魅力を一つだと思う。
頭上のカラリという音を聞いて見上げれば、それは203号室のベランダから。私は飛ぶ勢いで開いた窓に駆け込んでいった。





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