それから一週間後のことだった。私が脱走を繰り返したことで遂に折れたご主人様は、ベランダの窓を少し開けておいてくれるようになった。
おかげで出入り自由となり、ご主人様不在の今日も気軽に散歩に出られる。すでに朝は隣室の神のランニングに付き添い、帰って寝て、食べては寝て、今はまたの散歩に出かけたところ。
少し寝過ぎた所為ですっかり陽は落ちていて、薄暗い街並を照らす西陽に自ずと導かれる。アパートの門を出て右に真っ直ぐ、突き当りをまた右に、暫く進んで左に行くと大通りに出る。店の電飾と人の往来で賑わいつつあるこの広い歩道は、いつかの駅へと通じていた。ガタンゴトン、あの心地よい音が聞こえてくると私の足取りも軽快に、ついそこへと出向いてしまう。
しかし出入り口には着くものの、依然として中には入れそうにない。常に行き交う人々に気後れして、中は中で騒がしそうで、一人でそこに踏み入るにはまだ勇気が足りない。だからフェンスの向こうに電車を眺めるだけで満足している。電車が来ては去っていく度に駅の中から人が出てきて、出てってはまた入っていって、その忙しい時の流れに猫と人との違いを見つめていた。猫に産まれてよかったニャァ、としみじみ感じていた。
そうしているうちにまた電車がやって来て、去っていくと今度は駅から人が出てくる。殆どの人が疲れた顔で、前だけを見て去っていく。周囲の店から漂う音も匂いもまるで認めようとしない。沢山の光で溢れているから暖かな西陽もそこに届かず、本来は人をも育む恵風に触れることもないのだろう。
………………いや、その男は違った。
「頼むよジイ! 教えてくれ!」
風に乗る粗野な声が、手前を行く男の背中を留めていた。
「ジイ様! 老師様! 次期キャプテンを担うこの桜木にどうかご教授を! この通り!」
大袈裟に手を合わせ頭を下げてまで懇願する男の声に、漸く振り返った先行く男の少し掠れた渋い声……。
「……だからその老師様ってのをやめんか」
見上げれば、少し老け顔のあの牧という男と、初めて見る赤い短髪の男。彼らは例によって周囲の人より図体がデカく、流川とこの牧も同じ、S大の白いジャージを着ている。そして何といっても、活き活きとギラついた目がこの三人には共通している。
立ち止まる二人を人々が避けて過ぎる中、いつまでも頭を上げない赤坊主の前に牧が歩み寄っていった。
「流川を出し抜く技……だったな。まずそんなもんあるわけねーだろ。いいからもう帰れ。お前は寮だろ? 明日は一年同士の試合があるからな」
そう目下の者を上から叱り付けるように、且つ周囲の目線も気にしつつ言い聞かせる牧だが、対する赤坊主は頭を上げなかった。
心底迷惑そうに顔を顰めた牧は、腕を組むとその場に溜息を落とし、少し声量を落として言った。
「言っとくが、お前ら二人を後輩として迎えたのはつい先日だ。それまで俺は母校海南のことすら忘れ、俺自身の鍛錬にのみ集中してきた。別に桜木の何も知らんわけじゃないが、そんなことなら俺よりよくお前を知る赤木を頼るのが懸命じゃないか?」
すると、赤坊主は少しだけ顔を上げた。
「ゴリにはもう話した。でも、俺に訊くのは間違ってるって。今のお前の先輩は牧だろって、先輩の言うことをよく聞けって、そう言われた……」
告げた赤坊主の声は先と違ってか細く、顔はうっすらと夕陽に陰り、それに気付いた牧も表情を改める。
「まあ……そうだな。しかしだな、流川を出し抜く技などない。以上だ帰ってくれ」
抑揚なく言い放つと同時に踵を返した牧は、冷淡にその場を離れていった。
後ろの赤坊主は姿勢もそのままその場に残り、握り締めた両の拳を震わせ、静かに歯噛みしている。
その姿がなんとも健気で可哀想で、見守っていると、数歩去った牧が今一度足を止めた。そして振り向くことなくこう告げた。
「先日、スカウトの話がきた」
「何!? スカート?」
「スカウトだスカウト! リーグ入りしてチームに入るかって話だ」
「何……!?」
「まだ早い話だがな。アーリーエントリーってヤツだが、チームのトライアウトもあるから気は抜けん」
「あーりー? と、虎……ん???」
「ああいや、所謂リーグ入り前の試験なんだが…………この話、流川にも来てたぞ」
その名が発せられた途端、顔を上げた桜木の目がギラリと光る。
「流川こそまだまだ先の話だがな。公式戦もまだなのに、きっと監督のとこ来たついでに見られてたんだろ。すでにプロの目に止まったってことだ。あれだけ不調の続いた流川がだぜ?笑っちまうだろ?まあそれだけあいつの将来性が大きく買われてるってことだな。ちなみに、去年合同トライアウト受けた仙道は疾うに受かってドラフト一位指名。そして初の学生プロ誕生……ってニュースはもう知ってるよな?」
「仙道が……ま、マジかよ……?」
「プロとアマは掛け持ち出来んから、退部した今はただの一般学生だ。つまりリーグ入りしなきゃ、おそらく仙道とは二度とプレー出来ないんだぜ? あいつはプレイも人間性も花があるから寧ろプロ向きだ。プロとアマは違うからな。いつまでも夢を追う側じゃなくて、与える側になったんだ」
……とそこまで語った牧が再び振り返ると、目を見開いたままでその場に佇む桜木を見やる。暖かな目で、新しい後輩を嘲る。
「お前にゃ無理だろ? 掴んでもない物を人に与えるなんぞ、まだ出来ないはずだ」
桜木の頭にぽんと掌を乗せると、牧は今一度踵を返し、今度こそ去っていった。
暫く佇んでいた桜木もまた、牧と同じ方向に酷い猫背で歩き出した。
あれ……? 帰らないのかニャ? と私もその後をつければ、気付いた牧も振り向いて詰る。
「おい桜木、いい加減にしないか」
「っせー、俺だってツレに用があんだよ」
そうか、と頷いた牧は先に駅前の歩道へと渡った。残った桜木は何やらポケットから出した紙を広げ、景色とそれを交互に睨んでいた。その目付きの悪さと蛮骨な風貌に周囲の人が避けて行った。
私は彼の背後に回って見上げ、覗いた紙の内側に地図らしきを覗く。駅から赤丸で記されたそこは私もよく知る場所……なるほどニャァ。
「ミャァ、ミャァ」
察した私は声をかけ、この黒い背中に下りた鋭い視線を誘うべく尻尾を揺らした。
「ん? なんだオメェ。ここ知ってんのか?」
「ミャー」
手前の信号を待ち、青に変わったのを確認して、背後のかったるそうな歩調をいざ目的地へと導いていった。
「なるほどここがよーへーのアパートかぁ。……微妙に古くせーな」
辿り着いた目的地の前で呟く桜木の隣にいると、折しもご主人様の車が後ろの道路を通っていった。今日は少し早めのお帰りらしい。だがもう少し桜木の様子を見守りたい私は咄嗟に塀の中へ、アパートの配管の影に隠れた。
程なく、門の前に立つ桜木の背後にご主人様が立った。
「もしかして、水戸くんに?」
後ろからそっと地図を覗き込んだご主人様の声に、飛び上がって尻餅をついた桜木は態々ご主人様を指差して驚きをぶつけた。
「おいテメェ脅かすなよ!」
そして、次第に困惑を極めていった。
「ん……? つーか、なんでここにメガネが……! それになんでよーへーのことも……え? な?」
「知ってるも何も隣だからな」
「は……? 隣って……どうなってんだ……?」
「まあ、付いてこいよ。202号室は二階だ」
そう言って、先立つスーツ姿の後を桜木が付いていくが、先ほどの驚きを発した元気はみるみる消え失せ、静かな溜息を零す。ぼんやりと遠目を放つその姿に、振り返ったご主人様は階段の途中で足を止めた。
「桜木、なんかあったか?」
「俺にだって、そりゃ悩みの一つや二つや三つ……」
ご主人様はしみじみと、感慨深い眼差しで見下ろしていた。
「悩み事か。それをこれから友達に相談するってとこか」
「別にテメェにゃ関係ねーだろ?」
「ああ。でもいい解決法だ。きっといい結果がまってるよ」
悪態をつく桜木に対し、ご主人様はあくまで大らか、且つ意味深長だ。
「202号室はそこだ。じゃ」
階段を上り終えてすぐのドアを指し、ご主人様は隣の部屋へと帰宅した。
そのドアが閉まったのを見届け、漸く姿を現わした私は階段を駆け上がった。
桜木はというと透かさずけたたましいノックをアパート中に轟かせ、無言の202号室のドアに大声を浴びせた。
「おいよーへー! おーい! いねぇのか? いねぇならいねぇで返事しろ! なあおい! この俺がわざわざ来てやったんだぞ! おい! よーへー!」
私も耳を塞ぎたくなる騒音はその尋ね人が出てくるまで止みそうにない。しかし、そこから水戸が出てくることはないのだ。階段下にあの原付がなかったということは、彼はまだ仕事中。
「飯でも食ってんのか? それとも風呂か? どーでもいーが返事くらいしろよ! なぁよーへー!」
ドアノブが外される勢いでガチャガチャと回されると、漸く開いたドアの音は奥の201号室から。
「あ、やっぱり桜木だったか」
ドアから顔を出した木暮に、振り向いた赤坊主は再び一驚を上げた。
「メ……メメメガネくんもまさか、こ、ここに住んでんのか?」
「ああまあ。いいからこっち入れよ。水戸くんはきっとまだコンビニでバイトしてるから」
「うーむ……ウウ、そうなのか……」
大人しくなった赤坊主が木暮の部屋に保護されてゆく、そのドアが閉まろうとする瞬間、私もその中へと飛び込んでいった。そして玄関に入り込んだところを二人の視線に捕らわれた。
「ぬ? お前はさっきのチビ猫!」
「ああ、花形のとこの猫だ。此間よりちょっと大っきくなったな。おいで、ミルクでもやるよ」
ミルクだわーい! と喜んで上がり込もうとしたところ……
「はぁ!? な、なななななんでここにジイが!? ど、どーゆーことだねメガネくん!」
先に上がり込もうとした桜木が部屋の奥を見て硬直していた。もう一人の住人である牧がグラス片手に寛ろぐ姿を見て、とうとう頭を抱え込んでしまったのだ。
木暮が慌てて宥めた。
「お、落ち着け桜木! あまり考え込むな」
「落ち着いてなんてられるか! さっきはメガネも居たんだぞ! なんでメガネがいてメガネくんがいて、なんでジイまでいるんだよ!」
奥でうんざりと溜息を吐いた牧は、視線をテレビに向けたまま、グラスを置いて言った。
「それはこっちの台詞だ桜木。なぜお前がここに居る? あの後別れたばかりじゃないか。まさか尾けてきたのか?」
「違う。俺はよーへーを訪ねてきただけだ」
「よーへー? ……ああ、あいつのことか」
ここで透かさず木暮が計らい、どうにか場を落ち着かせる。
「でも水戸くんまだだから、とりあえず少し休んでろよ。今お茶出すからさ」
「ああ……わ、悪いなメガネくん。お、お邪魔します……」
中へ促す木暮に連れられ桜木も奥の居間へ、テレビの前のローテーブルへ、牧の手前で気まずそうに腰を下ろす。
見届けた私は木暮のいるキッチンへ、小皿に注がれたミルクを見上げてはつい舌舐めずり。
「お前もこっちへおいで」
お茶の入ったグラスと小皿を持った木暮に導かれ、三人のいる居間のテレビの傍に落ち着いた。
目の前に差し出されたミルクを早速舐めていると、この何ともぎこちない空間はおそらく桜木の懐疑の目が作り出していることをテーブルの下から察する。
姿勢を改めた桜木がついに問い質した。
「時にメガネくん、このことはゴリに許しを得たのかね?」
唐突な第三者の名前に、牧はベランダに視線を逸らし、木暮は片頬を指で掻きつつ地味に狼狽えていた。
「ゆ、許しって何を?」
「いくらなんでもジイと仲良しはマズいだろ。一つ屋根の下に居るなんて知ったらゴリがヤキモチ焼くに違いない」
「おいおい、仲良しなだけでヤキモチってなんだよ? まあ、言われてみれば特に何も言ってないけど」
真剣な桜木の視線にからかいの素振りがないのは、それだけこの木暮という男と深い関係の人物がいたのだと推察する。しかし今仲良しで同居しているのは牧で、牧は低い声と鋭い眼差しで釘を刺した。
「桜木、余計なことは言うなよ」
「ということは……それってまさか、言えない関係……?」
悟った瞬間目を見開き、顔をみるみる赤く染めた桜木の視線が二人を行き来する。慌てて牧が否定する。
「なわけないだろ。お前のことだから妙な憶測で話されたら困るだけだ」
「うっ。だって……」
素気ない一喝に、肩を窄め口を尖らせた桜木を、木暮がお茶を差し出しつつフォロー。二人の経緯を語った。
「まあとりあえず落ち着けよ。俺たちはただ、牧と桜木のいるS大と俺の通う大学が近いからよく一緒になるだけなんだ。入学前に偶々会って、それからだよ。仲良くなったのは。別に可笑しくないだろ?なんたって神奈川を代表するバスケ部同士だったわけだし。今日も牧がうちに遊びに来ただけの話だ」
「んまあ……」
押し黙った桜木を見れば誤解は解けたようだ。決して言えない関係ではないと説いたわけだが、仮にもこのアパートの住人である私としてはちょっとモヤモヤした。同時に、強烈な眠気に襲われた。きっとミルクを飲んだからだ。
やがて隣の部屋からドアの音が響き、私は目を覚ます。
「あ、水戸くん帰ったきたんじゃないか?」
「やっとか。世話になったなメガネくん」
そそくさと席を立った桜木につられ、私も眠っていた木暮の膝を降りて玄関へと向かう。
「また来いよ桜木。俺も試合観に行くからさ」
「おうよメガネくん!」
誇らしげに応える桜木に、木暮の後ろからやってきた牧が一言。
「桜木はまずはスタメン勝ち取るのが先だろ」
「っせーなジイ!」
という応酬には透かさずフォローが入る。
「ほら桜木……先輩にはちゃんと敬語遣うんだぞ」
「お、おう……。わかっ……りました」
ドアが閉められるその前に、私もまた桜木について201号室を出て行く。そして隣の202号室の前で再び始まった、けたたましいノックを見上げる。
「おいよーへー! 俺だ俺! 帰ってきたのわかってんだぞ? 早くしろ! ふざけてんじゃねぇぞ!」
確かに、辺りはすっかり日が暮れた中で部屋の電気が明っている。微かな物音から人の気配もするのだが、なかなか出てこないのを見るとあまり歓迎されていないようだ。
「ずっと待ってんだぞ、いい加減に……」
執拗な騒音が続く傍から、今漸くドアが開けられた。応答した住人が心底煩わしげな顔を出した。
「まったく、うるさいよ桜木。ドア壊れるだろ?」
「な…………な……なんで……」
桜木は今にも呼吸を忘れそうなほど一頻り絶句した挙句、極端に肩を落とした。
「間違えました」
そう言って、大人しく踵を返した彼の尋ね人は水戸だ。ドアを開けたのは着古したジャージを着た神。おそらく顔を洗っていたのだろう。顔と前髪だけ濡らした彼は、項垂れた桜木の背中を引き止めた。
「待てよ桜木。洋平に用があるんだろ? たぶんもう少しで帰るから、うちで待ってたら?」
桜木は今一度押し黙った後、唇に人差し指をやり、涙目で振り返る。
「な、なんだよ桜木……」
「よーへーに、よーへーに早く会わしてくれ……」
「な、泣くなよ桜木……」
思うに、このアパートに来てから起きた散々な展開、というより意外な人物との遭遇ばかりで桜木は少し疲れたのだろう。しおらしく肩を竦めた桜木を神が迎え入れ、私もまたそこにお邪魔した。
「あれ? この猫花形さんとこの……まいいか。おいで」
「チビ猫じゃねーか。なんで俺に引っ付いてくるんだ?」
「ミャーン」
桜木の足下に擦り付き、そのまま奥の四畳半の部屋へと通されると微かな違和感に気付いた。
間取りがどこも同じ為か家具の配置が似通っていたが、ここは他の二部屋と少し違う。隅のテレビと中央のテーブルの位置はほぼ同じだが、畳んだ布団がある所為で部屋が狭いのだ。壁のハンガーには虎柄のスカジャンが掛かっていたり、バイクのカタログの上にベルトが放られていたり、共同の居間というより個人の部屋も兼ねた感じ。そして、何より煙草が臭う。つまりここは神の部屋ではない。そう言い切れる根拠はここの住人の外見の差だ。
見回した桜木は、ここが尋ね人の居所、つまり目的地であると察したのだろう。テーブルの前ですっかり足を崩し、だらしなく頬杖を付いていた。
「ミャー?」
もう寂しくない? と声をかければ、伸びてきたその大きな両手に両脇を抱えられ、持ち上げられ、鋭い目にじーっと見つめられた。
粗野で騒がしく不器用だけど、意志が強くて友達想い……出会って数時間の内に見えた彼の人間性はなかなか興味深く、何かと世話を焼く周囲の人々もまた、暖かいのだと感じた。
「で、大学どう?」
缶ジュースを二本持った神が襖から顔を出す。
「まあ、なんとか……」
畳に下ろされた私は桜木の膝の上に乗る。
斜め向かいに腰を下ろした神は一本を桜木に差し出し、「牧さん恐い?」ニヤニヤと意味ありげな笑みで尋ねていた。
視線を落とした桜木は神妙だった。
「ジイは……スゲーよマジで。ゴリとは違う恐さっつーか、強さっつーか、先輩がどうこう抜きにしたって気軽に声掛けらんねーしよ」
「なるほどね。でも試合前になったら今の比じゃないと思うよ。後輩思いではあるんだけど、それ以上にすごく自分にストイックな人だから、甘い気持ちで教えを乞おうなんて思っちゃダメ。自分で努力して努力して、それでもダメだなって思った時、あっちから声掛けてくれるから。ちゃんと見ててくれるんだよ」
「そっか……あれじゃ、ダメなのか……」
「谷底に取り残すけど、必死で崖を登る姿はしっかり見ててくれるから、そこは甘えていいと思うよ」
神もまた後輩を見守るように、優しい瞳で先輩を述べた後にもう一人の先輩を述べる。
「それに比べて木暮さんは、ホント毒気抜かれるよね。湘北が先輩に暴言吐けるのって絶対木暮さんの所為だよ」
「メガネくん……そっか、確か前も一緒に湘北来てたんだったな」
「木暮さんとは大学一緒でサークルも一緒。生憎弱小のお遊びグループだけど、木暮さんが必ずフォローに入ってくれるの分かってるから、みんな却って騒がしくなるんだよ。最初は木暮さんも大変だなって思ったけど、最近はそれが木暮さんなんだなって。もう根っからの世話焼き屋だよ」
「確かに……メガネくんいなかったらもっと険悪になってたかもな」
「険悪って、なんかシャレにならないよ。三井さんも居たし相当だろうね……」
「あ、そのミッチー更生したのある意味メガネくんだぜ」
「えっ? ホント?」
「あん時確か、俺がまず一番強ぇヤツやっつけてヤツらの戦意喪失して、よーへーがミッチーぶん殴って、止めたメガネくんが殴られてミッチーにぶち切れて、最後オヤジが来て大円団」
「何それ…………」
偉大なる先輩について賑わったところで、玄関から「ただいま」の声が届いた。立ち上がった桜木が飛んでゆき、ずり落ちた私は寝床を失った。
「遅ぇぞよーへー! 何時間も待ったんだからな!」
「悪りぃ花道。バイト一人辞めちまって、店出るに出られなかったんだ。あ、神さんは?」
尋ねる傍から神も玄関に顔を出し、水戸からコンビニ弁当を三つ受け取る。
「サンキュ。じゃ、俺先にシャワー入っちゃうから先食べててよ。部屋に置いとくから」
その部屋には再び桜木が戻り、部屋の主である水戸も入っては上着のパーカーをハンガーに掛けた。そして振り向いた彼と目が合った。
「あれ? そいつ花形さんとこの猫じゃん。なんで居んの?」
「ミャァ」
会釈を返すなり、先ほどの位置に腰を下ろした桜木が早速今日の鬱憤を吐き出した。
「そう! そうだよーへー! まずここで花形に会ったんだよあのメガネ!んで次にメガネくんに保護されて、そこに何故かジイも居たんだ! してトドメは神! 一体どーなってんだここは!?? 説明しろ!」
「説明ったってなぁ……」
入ってすぐのテーブル前に、先程の神の位置に腰を下ろした水戸がコンビニの袋を開け、二つ並べる。
「それより腹減ってるだろ? 先に食えよ」
「説明が先だ!」
「そう言われてもなぁ。神さんは元々この部屋に住んでたし、両傍埋まったのもつい先月だし、まさかの総対面果たしたのも先週のことだからな」
「つまり偶然だっつーのか!」
「俺に訊くなよ」
「じゃあよーへーがここに住んでんのも偶然か?」
「そりゃあ……」
襖の向こうからはシャワーの水音が響き、ハンバーグに向かっていた水戸の箸先が止まった。
「偶然……なわきゃねーだろ?」
「んだと……?」
その説明を待つ鋭い視線は一向に水戸を捉えて離さない。
フゥ、と一息吐いた水戸は腹を据えたように、箸を置くと、今彼がここに居る理由を泰然と明かした。
「花道にはいつまでも隠したくねーから話すけどよ……実は俺、今勉強してんだ」
「は……?」
「神さんは俺の先生なの」
「べ、勉強ってなんだいきなり? まさか、今更大学にでも入るつもりか? 言っとくが、よーへーの頭じゃ無理だぞ」
「そりゃあわかんねぇだろ?」
と否してすぐ、水戸は話題をひっくり返した。
「っつーかそれより、今日は俺に話があって来たんだろ? 俺のことより花道のこと話せよ。なんだ? 折角だし存分に聞くぜ?」
「ん、うんまぁ……」
あれだけ食ってかかった桜木は容易く一転、屈んだ背中をしゅんと丸め、少し小さくなったようにさえ感じる。下から覗き込めば、落とされた眼差しは手付かずの弁当を透かし一点を、その向こうに私の知らない人物を淡く遠くに見つめていた。
「晴子さんと……こっち来る前、喋ったんだよ。喫茶店で二人で。その、これから暫く会えなくなるから……告白、しようと思って。だがなかなか言えずにいたら……晴子さんも、告白しようとしてたんだと」
マジ!? と一驚を上げた水戸はすっかり箸を止めたままだが……
「流川にな」
「なーんだ」
水戸は白けるが、私はご主人様その2の名前を聞いて、彼がモテると知って少し驚いた。
「晴子さんからすりゃ、結局気持ちも伝えられないまま流川が引っ越して、選抜本戦であんなこともあったもんだから……卒業前、流川に電話したんだと」
「へえ」
「で、なんかあったかって訊いたら、意外と素直に話したそうだ」
「なんて?」
「俺は、大事な人を傷付けてる……って。そう言って切れちまったって」
「流川の、大事な人……?」
「晴子さん言ってた。大事な人って、結局そういうことだよなって。まだ告白もしてねぇのに、知らない間に振られてたって……」
そこまで語った桜木は顔を上げ、目を潤ませ両の拳を握り、僅かに身を震わせながら水戸に嘆いていた。
「恋が……一つ終わったって……! 泣いてたんだよあの晴子さんが! 俺の目の前で! 涙零して!」
桜木が詰め寄りテーブルがガタッとずれるが、水戸は冷静だった。
「気持ちはわかるが、花道それ、お前が悲しむことか?寧ろチャンスなんじゃねーの? ……って、前もこんなこと言ったかな」
「今はそんなこと思えねーよ。チャンスとかそんなんじゃねーんだよ。晴子さんが一途に想い続けた気持ち、きっと俺も同じだからよ、わかるんだよ痛ぇほど」
「へえ。花道大人んなったな」
「んだと? ま、よーへーなんかにはわかんねぇだろうな。この打ち震えるほどの熱い心……! よーへーの心はこの冷めた弁当だ」
「ほう、言ったな花道」
……とさり気なく弁当を引っ込めようと伸びた手を、気付いた桜木が引っ叩く。
「ぬ……! だって、よーへーにはいねぇだろそんなヤツ!」
「言っとくが、俺だって泣いたことあんだぜ?」
「ナニ!?」
水戸が泣いた……? この強面の男が泣く? ホントに……?
私も桜木と同様見開いた目で水戸を凝視。そしてもう一人……
「え? ホント?」
風呂上がりの神が開いた襖から水戸を覗き込んだ。
「洋平が泣いた時あるって? いつ? なんで?」
するとこれまで常に余裕を含んでいた水戸が、瞬時に俯いた顔を片手に覆った。
「ああ、今にも泣きそうだ」
「な……泣くなよーへー! って泣いてんのかこれ?」
塞ぎ込む姿を庇う桜木の背後から神も覗き込み……
「なんだ泣いてないじゃん」
「ああもう、泣けてくら……」
「な、なんだよーへー! 一体どうしたんだ!」
桜木が過剰に案ずることで益々よくわからない状況も、水戸が薄い涙目を見せて終止した。
「なんだ、そんなもんか」
「ったく、心配させんなよ」
程なく時計を見上げた桜木が寮の門限を思い出し、帰宅を告げた。玄関での見送りを終え、私も桜木と共にそこを去るとした。
またな、と背を向けた桜木に、水戸が最後に一言。
「今すぐじゃなくても、いい加減ちゃんと告白しろよ。早くしねぇと他の男に取られちまうぜ? それに、花道だってそろそろ報われていい頃だ。じゃ、報告待ってるからな。部活頑張れよ」
桜木は無言で去っていった。
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