on your own 5


まず覗き込んだのは201号室だ。カーテンの隙間から漏れた灯りに吸い寄せられ、ベランダから中を覗き込めば、六畳の向こうのキッチンにあの丸眼鏡の男の背中を見つけた。
奥の冷蔵庫に両手を突っ込んだ彼ははっと顔を上げ、会話を切り出した。
「……そういえば! 花形が抱いてた黒い子猫、あれ花形のだったのか。だからあんな所で嵌って……」
そこに背を向けるよう、洗濯機の前に立った老け顔の男が鞄の中を空けながら頷く。
「ああ。花形がそう言ってたぞ。……あっ、そうだうちのアパートはペット禁止だ。……あ、それに今朝、神とも擦れ違ったんだ……」
「あそっか。神が住んでるのH駅の辺りだって言ってたもんな。偶然、なんだろうな……」
「だから神はいい。俺たちより前からきっとここに住んでたわけだ。大家も神奈川から来た学生がいると言ってたが、それが神だったということだ」
「水戸くんは、また神のとこ遊びに来てただけなんだろう。……あれ? でもなんで今日が特売日だって知ってたんだろ? ポイントも溜まってたし、今コンビニで働いてるみたいだし」
「知ってるのか? 神と一緒だったあの……不良っぽい形の」
「知ってるも何も桜木の友達だよ。それでいて湘北バスケ部の恩人なんだ。彼らがいなかったらきっと、三井は戻ってこれなかったよ……」
「そうなのか。まあ、いい。一見不釣り合いだが、神は外見で人を判断するヤツじゃない。それより花形だ。いったいなんで流川が……」
「花形も前に引っ越すって言ってたよな。仕事始まるからって」
「流川とか?」
透かさず顧みた小難しい顔へ、木暮が静かに頷いた。
「……そこなんだ」
遠く視線を放り、眼鏡の奥に振り返った過去とは……。
「あの時花形は、恋人と別れるような話をしてた。暫く遠く離れるからって」
「ああ、言ってたなそんなこと」
「当時、流川はアメリカに行くことになってた。流川の卒業後だ」
「まさか……偶然だろう?」
続けて掘り起こされる一致に、牧は再び唖然とした。
「それに、確か花形と最初に会った時だ。俺その恋人について聞いたんだ。どんな人かって。そしたら、色白で大人しくて、身長も大差ないって……」
牧は持っていた洗剤を床に零した。
木暮が慌てて床を拭いながら、牧を宥めた。
「牧、これはきっと偶然だ」
「んまあ、何でもこじつけるのもな……」
「本当に、偶々だよきっと。牧も言ってただろ? 以前の国大合宿で、花形と流川が仲良くやってたって。それだけのことさ。俺もここまで言及しといてなんだけど、あまり考えすぎるのもよくないぞ」
そう言い聞かせる柔和な笑みが、険しい眉間の皺を解いてゆく瞬間……。
「……まあ、な」
この201号室は、真面目で気難しい男と朗らかで大らかな男による互いへの尊重で成り立っている。
なるほどニャァ……とそれぞれの個性から成る関係性に頷くと共に、漸く皆の名前を覚えられたことに満足。同時に、うっかり口から零れ落ちたのはあの眼鏡の男、木暮への今日の礼だ。ずっと口に咥えたままだったことに今頃気付いた。
ベランダのサッシにぽろりと落ちた可愛いオバケ……がヨガをしているフィギュアストラップ。カチャッと音が響くなり、二人の視線がベランダに潜む私を射抜いた。
ヤバイニャ、と咄嗟に身を隠せばそこはすっかり闇の中。真っ黒なこの毛色は見事夜の漆黒に溶け込み、たった今ベランダが開けられようと見つかることはない。眼鏡越しにいくら辺りを見回そうと、彼が見つけられるのは先程落としたお礼だけだ。
「あ…………」
「ん? 木暮なんだそれは」
牧が木暮の肩越しに覗き込んだのはその掌の上。
「きっと、猫の恩返しかな……」
窓が閉められ、二人の団欒は続いた。
「猫? 猫がお前の趣向を知ってるとでも言うのか?」
「はは、すごいよな。これも欲しかったんだよ。指紋採取とセグウェイは持ってるけど、ヨガも手に入るなんて!」
「…………」
まさかとは思ったが喜んでくれたことに安堵して、ふと後ろを振り向けば、そこは202号室から漏れる明かり。ベランダの手摺へと飛び乗り、仕切り板を避けて進めば、またカーテンの隙間から覗き込むことが出来る。
四畳半の部屋に弁当が二つ広がる簡易テーブル。そこに肘を着いた長身の男、神が悩ましげな額をその手に抱えていた。どうやら今日一日の出来事を一から振り返っていたようだ。
「まず、今朝牧さんに会ったんだよな……。大学では学食で木暮さんと顔合わせて、帰りは流川と一緒になって……」
そこに水の入ったグラスを二つ持った水戸が襖から覗き、それをテーブルに置きつつ事情を付け足す。
「俺も、昼間に花形さんが店来て、帰りにスーパーでメガネくんに会ったんだ。でもまさかなぁ。同じアパートって……しかも両隣って、ねーよな普通」
苦笑を浮かべつつ胡座をかく隣で、神は流れるテレビ番組に見向きもせず、箸を取ることもせず、専ら顔を顰めている。
「以前花形さんが、仕事始まるから職場近くに引っ越したとは言ってたんだ。牧さんも今朝、最近こっちに越してきたって。木暮さんも先日、アパートの更新を機に引っ越すって話してたけど、本当つい最近のことなんだろうね。そもそも両隣に人入ったのがついこの間だし。でもよく今日の今日まで会わなかったよな……。そもそもなんでここなのかな?」
「うーん、そりゃ偶然っちゃ偶然なんだろなぁ。なんたってこのアパート家賃安いし、寧ろ今まで埋まんなかったのが不思議なくらいだ」
「確かに」
「ま、まずは食っちまいましょ」
水戸に勧められるまま神は漸く箸を取るが、おかずに箸を伸ばす前に意味有り気な笑みでニヤリ、水戸を見やる。
「でも、まさかね……」
鼻白む水戸がグラスを置く。
「神さん、やめてくださいよ」
「はは、冗談。でも前に牧さんと木暮さんのアパート入ったわけだけど、あの1DKじゃ明らかに寝室一緒だったと思うんだよ。それに花形さんも、流川が渡米するって時すごい落ち込みようだったから、案外……」
依然確信を含む笑みが水戸の同調を誘うが、水戸は表情をそのまま否した。
「いやあり得ねぇって。メガネくんなんか前にオンナと居たんだから、まずシロだ。あのメガネくんがソッチなんてことになったら、花道のやつぶっ倒れるぜ? 牧さんはうーん……なんか、黒いけどよ。流川に関しちゃぁもしかしたらって疑った時もあったけど、でも花形さんまでソッチなんて、しかもみんなが偶然両隣って、益々おかしいっしょ?」
「うんまあね。偶然が多過ぎるとは思うよ。でもそれを言ったら、俺たちはどうなるの? きっと両隣でも今頃偶然だろうって結果に至ってると思うよ? 色々と邪推した上で。でも、実際のところ俺たちはクロ。三分の一がクロなら、可能性が全くないわけでもないと思うんだ」
「んまあ……」
怪訝に口籠る水戸を、神が饒舌に畳み掛けていった。
「ただ、仮に皆がクロとしたところで真相が明るみになることはない。俺も洋平も当然打ち明けることがないなら、他の四人もきっと同じだよ。精々不慮の綻びから勘繰り合って、確信を膨らますのが関の山さ。例え確かな証拠を掴んだとしても、本人に直接問えないだろ?尋ねたところではぐらかされるのは目に見えてる」
「んまあ、そうだわな……」
「でもさ、両隣なんだよ。日々の寝食が両隣で繰り返されるってことは、自ずと綻びが見えてくるはず。明るみになることはなくても、察することは出来る」
「つまり、察する気?」
呆れて食事に徹する水戸だが、漸く箸を動かした神の洞察が深い首肯を促した。
「元は古いアパートだからね。もしクロだとしたら、何かしら聞こえてくるんじゃないかな。逆に言えば、俺たちも気を付けなきゃいけないってこと」
「あ、そっか……」
そして、喪心へと追いやったのだ。
「もしうっかり洋平の声が漏れたら、それは洋平の失態だからね。なんだか今年も暑くなるみたいだから、夏はまた窓全開かなー」
晴れやかな笑みで伸びをした神はどこか満足気に食を進めた。
隣では空の弁当箱を手に立ち上がった水戸が、「ご馳走さん……」と部屋を後にする。一人静かに肩を落とし、台所で洗い物を始めるのだった。
なるほどニャ。この202号室は、弁の立つ努力家と強面な世話焼き屋の見事な上下関係の上に成り立っている。
納得したところでそろそろご主人様の元へ戻ろうと、また手摺に飛び乗り仕切り板を越え、203号室のベランダに降り立った。が、窓が閉められていた。
「ミャー! ミャー!」
開けて開けてと鳴き叫べば、僅かに開けられた窓の隙間からご主人様その1の眼鏡が覗く。
「また脱走だな。まったく……」
部屋に上がろうとしたところを抱き上げられ、正面から顔を覗かれる。まるで私の瞳孔から反省の色を探すかのように、じっと目を見据えながらご主人様が呟いた。
「決めた……」
ん? と見上げるご主人様その2の前で、ここに来ておよそ一週間が経った今日、重大な発表がなされたのだ。
「名前だよ名前。ヒルツ……って、どうかな?」
「ヒルツ?」
「ミィ?」
隣の二部屋と同様、居間に見立てた四畳半の部屋で迎える夕食前のことだった。
「大脱走って映画で捕虜になったアメリカの航空兵なんだけど、何度脱走を試みてもドイツ軍に見つかって、結局連れ戻される独房の常習犯なんだ」
使用感のあるガラステーブル前で、胡座をかいた流川が無言で頷いた。あまり興味がない様子だ。
私はご主人様が腰を下ろすと共に床に下ろされ、一先ずはご飯を食べに台所へ。隅に用意されたミルクと離乳食に有り付く。隔てた襖の向こうからは、隣の二部屋とほぼ同様の二人の会話が聞こえてきた。
「以前、神がこっちに住んでるようなことは聞いてたんだ。だから水戸くんとはルームシェアのようなものだとして、まさか牧もそうだとは。しかも木暮と……? 神が牧にここを紹介したのか? それで木暮と……?」
ブツブツと一人疑問を零した花形が流川に話しかけた。
「以前、木暮と会った話はしただろ? 結局二回会ったんだけど、木暮は初めからルームシェアのことは言ってたんだ。そして二度目に会った時はすでに恋仲だと。ただその相手がどんな人か尋ねた時、確かにこう言ったんだ。色黒だって……」
流川の咳き込む声が聞こえた。慌てて駆けつけてみれば、彼は口にした水を噴き出した後だった。
「いや、悪い。きっと偶然だ流川」
ご主人様が辺りを拭う傍で、青褪めた流川が口元を押さえる。
「先輩、吐きそ……」





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