on your own 4


目が覚めるとすっかり日が暮れていた。入り込んだオレンジの陽射しに背を包まれ、少し暑いくらいだ。見回せばドアも窓も閉め切られていた。つまり今日はもう外に出られない、遊びに行けないんだ、としょんぼり髭を垂らしていたところ、向こうの方でドアの開く音がした。おそらく隣の隣の部屋からだ。今朝覗いた201号室の、確か筋肉質の男と丸い眼鏡の男が居た部屋。
そちらに首を向けると同時に、私は今気付いてしまった。たった一つ、出口が残されていたことを……。
まずは台所の隅のゴミ箱に飛び乗り、更にシンクの上へと飛び移る。小棚の上にあるキッチンの小窓がほんの僅かに開いていたのだ。
サッシを掻くよう両手を遣い、どうにか窓を開けることに成功した。が、景色は縦に遮られていた。外に格子が設置されていたのだ。その隙間およそ七センチ……まだ子猫の頭ならまあ潜れるだろう。
私は数歩手前から発達してきた後脚のバネを利かせ、顔から勢いよく突っ込んでいった。思えば初めての試みだった。結果、顔だけが格子の間に嵌ってしまったのだった。
ぬ、抜けない……。後ろに引こうと前に押そうと頭が抜けないじゃないか。もがくほど斜めに嵌って少し痛いくらい。だからもう下手に動けない。そしたらもう、自分ではどうにも出来ない。一体どうしよう…………誰か、誰か助けて!
「ミャー! ミャー!」
必死で鳴き叫べば、すぐに人が駆け付けてきた。きっと先程ドアを開けただろう隣の隣の部屋の住人が、あの丸い眼鏡をかけた男が助けに来てくれた。
「おいおい、嵌まっちゃったのか?」
顔も優しそうなその人は無様な私を見下ろすと、早速その手を差し伸べてくれる。
「待ってろ。今助けてやるからな」
……という心強い言葉に期待したのも束の間、彼はすぐその手を引っ込めると、一頻り考え込んでしまった。
「……待てよ。この子もしかして飼い猫か?だとしたら、ここで助けたら逃がすことになるな。忍び込んだ野良猫なら……いやそんなに汚れもないし、首輪はないがまだ幼いし……うーん…………」
痺れを切らして今一度鳴くと、彼は私に向かってニコリ。
「そもそもここペット禁止だし、このままじゃ可哀想だ。仕方ないよな」
救出を促す手が再び差し伸べられ、私の身体を器用に傾けてくれた。顔さえ外れればするりと抜けられ、受け止められたのは眼鏡の彼の腕の中だ。目の前のティーシャツには可愛らしいオバケの顔の絵柄があった。
「もう嵌るんじゃないぞ」
撫でられながらの忠告は安堵の笑みに満ちていてた。それはご主人様に救われた時を彷彿とさせながら、仄かな西陽に染まる中で私を地面に放してくれた。
そして大人しくその場に留まる私と視線を合わすべく正面にしゃがみ込み、しかと言い聞かせるようにこう言った。
「もし飼い主がいるなら、頼むからここに居てくれよな?俺が逃がしたことになっちゃうだろ? な、頼んだぞ」
そうして立ち上がると私を置いて階段を下り、アパートを去っていってしまった。どことなく人柄の滲み出る後ろ姿を見送れば、私はまた一人ぼっちだ。
するとここで、先程の感謝を伝えたいという気持ちが突として湧き上がったのも、猫の気まぐれなのだろうか。
彼は私にここに居ろと告げた。ご主人様に心配をかけぬための心遣いではあるが、外の世界を知ってしまった私がこうして外に出ている今、この場でじっとしているというのはとても難しい話。それに心配をかけぬためだとするなら、何もご主人様が帰ってくるまでにここに戻ればいいことだ。
結論に至るなり早速階段を下りると、周辺の草むらを彷徨く。眼鏡の彼への礼に、何か気に入りそうな物はないかと探して、ふと目についたのは暗い塀の影の中。敷地の隅に棄てられた一冊の本だ。さてどんな本だろうと、伏せられた表紙を片手でひょいっとひっくり返して見たその中身は……なんと世にも悍ましいどろどろオバケのご面相ではないか。
「ミャミャッ!?」
確かに彼はオバケがプリントされたティーシャツを着ていた。しかしそれはもっと可愛らしいキャラクターで、こんなに生々しくない。よって彼も気に入らないだろう。
背に帯びた悪寒を脱ぎ去るべく逃げ出した私は、またアパートの敷地を抜け出した。歩道に出ると、手前に先程の彼の背中を見つけた。
私は彼を見逃さぬよう注視しながら、脇道にお土産が落ちていないか視線を散らし、鼻先を揺らして歩く。そして間も無く見つけたそれを咥え、追い付いた頃には彼も目的地へと着いたようだ。
『スーパー 靖稲』と大看板が掲げられた敷地の広い大型店舗。私も彼の後を追い駐車場を突っ切り、入口の傍まで来ると、そこでまた、とある男がやって来たことで再び始まってしまったのだ。
二度あることは三度あるという。きっと四度目もあるだろう、今日三度目のやり取りだった。
「あれ? 水戸くん?」
「あれ? メガネくん」
眼鏡の彼と鉢合わせたのはあの強面のようで実はそうでもないコンビニの男。というわけで、またも奇遇を投げ合う掛け合いが続く。
「ビックリだな。まさかこんな所で会うなんて」
「あれ?メガネくんてN駅の方に住んでたんじゃなかった? そう神さんが言ってたような……」
「ああ、実はつい最近引っ越したんだ。前のアパートは風通し悪くて、更新を機に探したらこっちにいいとこ見つけてさ」
「へえ。じゃあ意外と近くかもしんねぇな。あっ、そういや今日花形さんにも会ったんだ。あの人もこっち住んでるって」
「花形も? そういえば仕事決まって引っ越すとか言ってたっけ」
「ちなみに俺はこのスーパーの裏のコンビニで働いてっからさ。たまに寄ってよ」
「裏のって、24? 近いからすぐ行くよ」
「それとここのスーパー、今日ポイント二倍ね」
「へえ、水戸くんよく知ってるな」
……とまだまだ長くなりそうなので、咥えっ放しだったお返し物を眼鏡の彼の足元に置こうとした、その時だ。ふと視界に入ってしまった駐輪場の端に、あの原付なる危険な乗り物……。蘇った今朝の猛スピードに死神を見た私は、お返し物を咥えたままその場を逃げ去ってしまった。
走って走って歩道に出てもまだ走り、気付けば比較的人通りの多い道に出ていた。折角のお返し物を渡し忘れたが、部屋も知っていることだし、またあとで渡せばいい。外は面白いが危険も多いと悟った黄昏時だった。
様々な灯りが染まり出したこの時間、見回せば周囲の店舗も賑わい、疎らに人の出入りがある。絶えず騒つく通りの奥には一際大きな建物があり、フェンスの向こうに車両が連なった乗り物がそこから去って行ったところ。
確か、あの長い乗り物……。ご主人様に匿われて一度乗った記憶がある。そう、あの日……。
思わぬ懐かしさに触れた私は人の往来を避けながら、「あ、子猫!真っ黒!」という子供の声から逃がれながら、長い乗り物が見える方へと真っ直ぐに向かっていった。
やがて人の流れに沿って着いた建物の入口の上にはH駅東口、とある。そこは常に人の出入りがあり、中に入ろうとするが入るに入れない。前から来る人を横に避ければ後ろから来た人に蹴られそうで留まることも難しい。ここまで沢山の人間を一度に見るのも初めてで、目も頭もクラクラした。仕方ないか、と建物の中に入るのは諦めようとした、その時だった。
「じゃあ、流川もこっち住んでるの?」
「そッス」
「やだな一緒じゃん。きっと洋平もビックリだね」
洋平……? と訝るご主人様その2特有の、あのぼそぼそとした声を人の往来の向こうに聞いた。精一杯首を上げて探す間も無く二人は駅から出てきたのだ。
「アメリカ断念って聞いた時は俺も心配したよ。神奈川のスーパースターがNBA入りなんて、すっかり期待してたんだけど」
そう隣で声をかけるのはあの202号室の住人で、今朝ランニングをしていた長身の男だ。結局ここも繋がっていたわけだ。
「勿論、流川だってアメリカ諦めたわけじゃないんだろ?」
「ッス」
「そっか。で、今は牧さんと同じS大か……」
そのS大のロゴが入ったスポーツバッグと白いジャージを纏ったご主人様その2に付いて、私も来た道を引き返していく。きっとこのままアパートへ帰るだろうから。ここに来た目的も忘れ、思えば帰り道をよく覚えていない不安が解消された。ホッとしつつ、二人の会話を聞き流しながら駅前通りを歩いて行った。
「そういえば、この間synsprium来日したんだってね」
「俺ライブ行った」
「え、ホント? チケット取れたの?あれすぐソールドアウトだったのに」
長身の男の大きな瞳がご主人様の顔を覗き込んでいる。
「取ってもらった」
「もらったって……そっか。流川はモテるからね」
納得した長身の男は暗がり出した空を見上げながら、しみじみと呟いていた。
「S大だし尚更か……流川桜木が加わって、今年はインカレ優勝かな」
そっと逸れた眼差しに映り込んでは消えていくネオン。
「いつか、ウチと試合出来たら面白いね……」
ご主人様に向けられた視線に、私は僅かな羨望と嫉妬、そして佛々と湧き上がるライバル心を垣間見た気がした。
しかし会話中も前しか見ないご主人様はそこに気付く素ぶりもなく、通り掛かったレストランの前で腹の音を鳴らす。それを聞いて笑う長身の男につられ、私もつい噴き出しそうになったところ……
「あ……」
ご主人様に見つかった。ご主人様の鋭利な視線がその足元に真っ直ぐ下ろされ、遂に目が合ってしまった。
や、ヤバイニャ! また遊び歩いていたのがバレてしまう。しかし今すぐ帰ればあれは見間違いだったで済むかも、と私は彼を先越すべく慌てて人の往来に紛れ込んだ。
さて、上手く逃れただろうか。追ってこないということは大丈夫だろう。きっとこのままその先の道を曲がればあのコンビニのある道に繋がり、コンビニを通り越して右に曲がればあの居酒屋が見えるはず、そして先にアパートへ戻れるはず。はず……はず…………あれ…………? 違ったかな。
どこでどう間違えたのか、見えてくるはずのコンビニはなく、雑居ビルにラーメン屋にチエコスポーツH店……初めて歩く道だ。戻って確かめようと踵を返し、少し辺りを彷徨くが却ってわけがわからなくなり、結局居た場所に戻ってきた。
辺りは次第に暗くなった。家出がバレて怒られても、素直にご主人様に付いて帰ればよかったかな。今日はもう、何も食べられないかも。ふかふかのベッドで寝ることもできないかな……。 一人は自由で気ままだけど、今はすごく寂しい気分。さて、どうしよう……。
道端で髭を垂らし佇んでいると、目の前で店舗のドアが開いた。
「ありがとうございましたー」
奥の店員から見送られた客が、『チエコスポーツ』と描かれた袋を下げて建物から出てきた。夕闇に溶け込む浅黒いその手、半袖から覗くその肌色は確か……あの筋肉質の男だ。
彼もこれからアパートに戻るのだろうか。だとすれば、私もそこに辿り着ける。そう信じて後に続けば、やがてあの居酒屋が見えて来た。ここまでくればもうわかった。
筋肉質の男より先んじて走り出すと、向こうの方からご主人様その1の匂いがしてきた。アパートの角を曲がって裏に回り込めば、一つ道を挟んだそこはアパートの敷地から僅かに離れた駐車場。それは丁度車から降りるところで、スーツ姿のご主人様を夜目に見つけた私はつい、嬉しくて鳴いてしまった。
彼は振り返るなり私の姿を捉える。アパートの敷地から出て、塀の外側で外灯に照らされた私を眼鏡越しに、目を凝らして睨んでいた。
マズイ……。でもここで逃げたらもう、部屋に入れてもらえないかも……。
飼われているという自らの立場を改めて甘受し、怒られる覚悟で佇む私の前にご主人様が歩み寄ってきた。そして、優しく抱き上げられた。
「おい、今度は一体どこから抜け出したんだ?それに何咥えてるんだソレ……」
怒られたというより窘められたといった感じ。ゴメンねの一鳴きのあとで、そのままご主人様と帰宅しようと、アパートの門へと塀沿いを歩いていたところ、すっかり見慣れた人物がこちらに向かって歩いてきた。必然的に外灯の下で鉢合わせたことによって、すっかり足を止めた二人の例のやり取りが始まった。
「は、花形じゃないか!」
「牧……いったい何故ここに……」
「俺はこれから帰るとこだ」
「ミィ! ミィ!」
そう、ここだよ! この筋肉質の男もここに住んでるの! と私は伝えたつもりだが……。
「ん? 飼ってるのかその猫? なんだか見覚えがあるようなないような……」
「ああ……本当はペット禁止なんだが、捨てるわけにもいかなくなって」
「猫ならまずバレんだろ」
「まあな。で、牧もこっちなのか?」
「ああ。引っ越してまだ然程経ってない」
「俺もだ。入社の少し前だったな。実はまだ隣の住人に挨拶にも行ってないんだ」
「俺も一度回ったんだが、不在だからそのままだった。そのうちまた回るか」
「だな。じゃ、また」
と一度は会話を終えたものの、敷地内に入っても筋肉質の男は隣にいて、階段に差し掛かったご主人様とただただ怪訝に見つめ合っている。
「他に用でもあるのか?」
「いや牧こそ」
そこに、後ろの門から揃って現れたのはご主人様その2とあの長身の男だ。
「あ、先輩……」
「あれ? 牧さん、また会いましたね。花形さんまで……あれ? それに流川まで……?」
その後ろからはまた二人、買い物袋を下げたあの丸い眼鏡の男と原付を押して歩く強面の男がやってきた。
…………そう。遂に役者が揃ってしまった。いや、皆がここに帰ってきたのだ。
「な、何なのみんなして集まって?」
「花形? に神、それに流川まで……」
「あ、なんか集会でも開いたの神さん? ……あれ? つーかなんでメガネくん……」
「え……? なんで……? え? え…………?」
皆それぞれの驚きを示した後は誰一人喋らなかった。一様に釈然としない顔でぞろぞろと階段を上がり、二階の共用廊下へ。それぞれが各自ドアの前に立ち、そして誰がどのドアの前に立つかをしかと見届けてから、一斉にドアを開けた。
……うーん、なんだかよくわからないけど面白そう。
そう思った私は、部屋に入るなり呆然としたままのご主人様の腕から飛び降りた。洗濯物を取り込もうとベランダの窓が開けられた隙に、再び部屋を抜け出した。





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