呼吸のリズムまでが寸分狂わぬランニングは私の心も軽快にする。私も少しテンポを上げ、気付けば同じリズムでその足取りを追い駆けていた。
気持ち良い朝の運動、お昼寝前にぴったりだ。これから朝のお供に彼を選ぼうと、ぽかぽかとした日和の下、機嫌を良くしていた矢先、テンポを乱す足音はすぐ後ろから迫ってきた。
ワン、ワン、と涎を飛ばしながら勢いよく駆け込んでくる大型犬。私は咄嗟に傍の塀へと飛び移る。振り向いた長身の男も驚いて足を止めた。
尻尾を振りつつ一目散に襲いかかる犬の後ろからは、飼い主らしき男が慌てて犬を追いかけていた。
「すみません! 今捕まえますので!」
しかし長らく地面を引き摺っていたリードは今、遂に宙を舞った。それは掴み損ねた飼い主の手を逃れ、まるでたった今禁欲を解かれたかの如く、犬が長身の男に抱き付いた。そのまま倒れはしなかったものの、身構えた長身の彼は困ったように、ただただ後頭部を掻いていた。
まったく、これだから犬というヤツは……。馬鹿で粗野で品がないと、心底見下していた次の瞬間だ。そいつが黙って服従する課程を私は見逃さなかった。
すでに追いつきそうな飼い主には聞こえない程の囁かな声で、彼は目の前に見据えた円な瞳にそっと、こう諭したのだ。
「首輪、外されちゃってもいいの……?」
犬は忽ち前脚を下ろし、彼の足下でおすわりをした。尻尾だけを左右に揺らし、大人しく長身の彼を見上げていた。
そこに漸く追い付いた飼い主がリードを拾い、今一度彼に頭を下げる。
「すみません、あの、お怪我は……?」
「いえ、大丈夫ですよ」
そう言って、長身の彼が犬の頭を撫でれば犬もすぐその気になり、いくら飼い主がリードを引こうと頑なに彼の傍を離れようとしない。
……私にはその理由がわかった。この人には逆らえないと、きっと動物の本能が察したのだ。犬は上下関係に忠実だから尚更のこと、彼を飼い主より上位に就けたのだろう。
「ほら、言うこと聞け! この馬鹿犬!」
飼い主が力いっぱいリードを引こうとも言うことを聞かない犬に、長身の彼は今一度、冷めた視線で釘を刺す。
「クゥン……」
か細く鳴いた犬は仕方なくといった具合に、首輪を引っ張られながら飼い主の元へと去っていく。力なく垂れた尻尾を引き摺り行く、その後ろ姿を見送った彼が呟いた。
「あんなに強く引っ張ったら可哀想だよ……」
そこに同意を求めるように、彼は塀の上の私をにっこりと見上げた。
怖いようで優しいような、なんだか不思議な人……色々な人間がいるもんだと感心しつつ、再開したランニングに着いていけば、何故かアパートに帰ってきてしまった。
彼は階段を上がっていこうとしたので、私は建物の反対側に回って、また室外機から雨どいへ、二階のベランダへ、あの軽快な足取りが止まっただろうその部屋のベランダへと飛び移った。
なるほどご主人様の部屋とあの筋肉質の男の部屋の間が長身の彼の住む部屋だったのだ。
アパートの構造を少し理解したところで、やがて奥のキッチンから部屋に戻ってきた長身の男を窓越しに見た。六畳の中央に胡座をかいた彼は、カップラーメンなるものを啜っていた。ご主人様も偶に食べるが、猫舌の私は好まない。
そこに手前の襖がすっと開いて、今度は眉の短い強面の男が隣の部屋から顔を出した。不機嫌な顔で重い瞼を片手で擦り、スウェットの間に覗く腹を掻く姿はご主人様その2の寝起きと少し似ている。
そして今一度、朝食に有り付く長身の彼を寒心に堪えぬ目付きで見下ろした強面の彼は、面と向かって文句を言った。
「ねえ、なんでラーメンなの朝っぱらから」
「だって走ったらお腹減っちゃったし、大した食材なかったし」
「あったとこであんたは作んないでしょ。ったく、少し待ってくれりゃぁいいのに」
「今日バイトは?」
「日勤。帰りに買い物してくる」
そう言って、去ろうとした強面の男が出て来たばかりの部屋を指す。
「今布団畳むから、こっちのテーブル使ってよ」
長身の彼のいる六畳間にないそれを指せば、「あ、でももう食べ終わるから」と一気にカップの中身を掻き込む長身の方。そして「じゃ、もう行ってくるね」とカップをゴミ箱に。着替えを済ませ、彼は部屋を出て行った。
「あいよ。頑張ってね神さん」
一人残った強面の彼は洗濯機を回して皿を洗い、洗濯物を干す。着替えを済ませると、彼もまたアパートを出て行ってしまった。私もまた、雨どいを伝い地上に下りた。
また出掛けるつもりもなかったが、ブイイイン、というエンジン音が建物の反対側から、回ってみれば二輪の乗り物に跨る先程の強面の彼がいて、私は興味本位でその後ろに飛び乗ってみた。運よく彼は気付いていないが、突如発進したことでうっかり振り落とされそうになった。必死で爪を立ててどうにかこうにか身を持ち堪え、初めて知るスピードと風に煽られつつも力いっぱい踏ん張る。曲がり角ではあまりの遠心力にまた落ちそうになるが、いつの間にか彼が後ろ手に身を支えてくれていた。た、助かった……。
「お前、いつの間に……?」
外見に反し優しいヤツだと思った。が、到着したコンビニで地面に降ろされるなり、彼は椅子に付いた深い爪痕に気付いてしまった。
「な……! おい、お前やったな」
やっぱりちょっと怖いかも……。怒られると思い慌てて建物の端へ逃げるが、そっと覗き見た先の彼は笑っている。
「ったく、しゃーねーな」
そのまま建物の裏口に消える彼を見送り、ほっと一息吐いた途端、あまりの疲れに眠気が襲った。私は『コンビニ 24』と掲げられた建物の裏手へと移動。隣接する民家の塀に上り、そこを昼寝の場所とした。
依然、あの日の夢を見る。閉ざされた暗いダンボールの中で只管弱っていくだけの時間。外に聞くだけの知らない世界。虚ろになる視界の先にぼんやりとだけ射し込む光。もう駄目だと諦めた矢先、ふと人の声がして、次の瞬間、開かれた天井の蓋は運命の扉だった。出迎えた憐れむ眼差し、優しい手の温もり、そして今日も、あの人の穏やかな声…………。
「まったく、こんな所にいたとは……」
背中を撫でられる感触で目を覚ますと、なんと夢に見たご主人様の顔がすぐ目の前にあった。まだ夢かと疑ったが、手の感触も風の心地よさも、少し怒った目付きも現実のもの。彼は少し顰めた顔で私を咎めていた。
「探したんだぞ。勝手に出てっちゃダメだろ?」
片手で首根っこを持ち上げられ、ご主人様の掌に納まった私は初めて怒られたことにしゅんとして、逃げることなく大人しくした。
スーツ姿のご主人様はその足でコンビニの表へ。駐車したご主人様の車から見れば、私の寝ていた塀はすぐ目の前だった。探していたなら尚更、見つかって当然だった。
ご主人様は私をジャケットの内側の小脇に隠すと、コンビニの中へと入っていった。ジャケットの胸元の隙間から覗けば、何やら弁当コーナーをうろうろ。昼食を選んでいるらしく、手にしたハンバーグ弁当を置いて別の……
「ミィ! ミィ!」
それ! 鮭が入ってる! と訴えるなりご主人様の咳払いが聞こえたが、優しいご主人様は鮭弁当を手にレジへと向かった。そして店員に商品を差し出してすぐ、互いに「あれ?」と奇遇をぶつけ合うやり取りは今日二度目か。
「花形さん……その格好、もう働いてんの?」
ん? この声は私も聞いたことあるぞ、とジャケットの胸元から覗けば、確かこのコンビニまで乗せていってくれたあの強面の男が手前に、制服姿で立っていた。
「そう。在学中ながら就職したんだ。一限だけ学校行って、これから職場に向かうんだよ。それで、最近こっちに引っ越したんだ。水戸くんは?」
「実は俺も最近。奇遇っすね。んじゃこれから会社戻って昼飯?」
「その予定だったんだけど……コイツを家に帰す用ができてね」
……とジャケットが開かれ、私は正面の強面の男と改めて対面する。強面……でもないのか?と感じたのは、あの寝起きの形相とは別人のような営業スマイルを浮かべていたから。
同時に彼も気付いた。
「あ、この黒猫……なんだ花形さんとこのか」
「え? 知ってるの? 実は朝逃げ出したみたいで、探したけどいないからとりあえず学校行って、それでさっきだよ。裏の塀で見つけたんだ」
「へえ。俺は今朝ここに出勤すっ時、気付いたら原付の裏にソイツが乗ってて、カーブで落ちそうになっててさ。いやぁ危なかった」
「原付の裏に? まさか走行中?」
「そのまさか。いつ乗ったのかわかんねぇけど、いやぁビックリだわ。でもよかったな見つかって。いい子にしろよチビスケ」
彼は指先で私の額を撫で、原付の椅子に付けた爪痕のことは口にしないでくれた。
「なんだか悪かったね。じゃ、たぶんこれからも寄るよ」
「ヘイ毎度」
コンビニを出たご主人様は駐車場の車へ、運転席に着くと私を助手席に下ろし、五分足らずでアパートに帰宅した。
結局元の203号室に帰ってきてしまったわけだが、丁度お腹が減った頃合だ。ご主人様もこのままここで昼食を取るようだ。よって弁当を開けた瞬間から鮭の香りが四畳半の部屋から漂ってくる。私は堪らず擦り寄るが、いくら甘えてみてもご主人様は頑なだった。
「人間の食べ物は良くないよ。お前はあっちだろ?」
不貞腐れてキッチンの端でいつもの食事。ミルクも嫌いじゃないが、あの彩り豊かなコンビニ弁当と比べたらちょっと味気ない。きっと最初に行った動物病院で先生に言われたから、ご主人様は絶対に人の食べ物をくれないのだ。ご主人様その2はこっそりくれる時があるから、今夜もさり気なく甘えてみようと思う。
「じゃ、また行ってくるよ。もう出ちゃダメだからな」
スーツに着いた私の毛を粘着性の筒で撫で取ったご主人様は、またアパートを出て行ってしまった。
私はまた一人ぼっちだ。とは言ってもまだまだ睡眠が足りないので、このダークブルーのベッドで昼寝の続きといこう。おやすみなさい……。
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