on your own 2


声がしたのはベランダの仕切り板のその更に向こうから。よじ登ったベランダの手摺から上手く仕切り板を避けて隣へ移れば、なんだか似たような造りのベランダがそこにある。突っ切ってまた仕切り板を越えれば、また同じような造りのベランダに洗濯物が干されていた。開いた窓から中を覗けば、そこも似たような間取りだった。
居間の向こうのキッチンに、痛たた……という先程の声の主であろう男の背中を見つけた。
「はぁ、朝から散々だ」
それは少し掠れた低めの声で、肌の浅黒い筋肉質の男が指に絆創膏を貼っているところ。
そこにもう一人の男が奥の洗面所からやってきて、「無理するなよ」と歯ブラシを咥えながら声をかけた。そんな彼はご主人様とは違った丸い眼鏡をかけていて、なんとも珍妙な絵柄のティーシャツを着ていた。
「だいぶ食材減ってるな。帰りにでも買ってくるか」
そう冷蔵庫の中を覗いては、今度はカレンダーを見上げ、「試合来週になったんだな」と日付を確認。
依然キッチンの前を離れない筋肉質の男が頷いて、そして次に発した素っ気ない一言が、丸い眼鏡の男の顔をみるみる眩しくさせていった。
「……そうだ木暮。先日スカウトの話がきた」
「スカウト……って、ほ、本当か? はは、すごいや! さすがだな牧は」
歯磨きを終えた丸い眼鏡の彼はすっかり目を輝かせたまま、炊事を終えた筋肉質の彼と居間へ。朝食の並んだローテーブルを囲い、天気予報の流れるテレビを前に二人の談笑は続いた。
「それで、あいつらはどうだ? 後輩としてちゃんとやってる?」
「まったく、湘北の甘さが見て取れるほどだ」
「え?」
「初日早々、先輩より遅く来たあげく小競り合い始めやがって。同じ神奈川というだけで俺が恥をかく」
「そういうことか。まあ、その辺はいつものことだったからなぁ」
「俺としては実力で返してくれればそれでいいんだがな」
「ははは、俺の可愛い後輩たちを一つ頼むよ」
それから朝食を経て、『S大』のロゴの入ったスポーツバッグを掲げ玄関に立った筋肉質の男の前に、丸い眼鏡の男が駆け寄った。
「牧、帰り何時?」
「そうだな。サポーター買って帰るから……六時過ぎる」
「了解」
筋肉質の男が部屋を出て行ったのを見送ると、開いた扉のその向こうの景色へ、私もつい、外の世界に躍り出たくなった。
長らく座っていたベランダから雨どいへ、室外機へと飛び降り、地上へ降り立てばどこか懐かしい気持ち。土の匂いと疎らな雑草の感触に触れ、建物の反対側から聞こえる階段を下りる足音を追った。建物に沿って階段を見上げたところで、以前、ご主人様がここに連れてきてくれた時と同じ景色を見た。
グレーの外壁の二階建てアパート。この階段を上がった二階の一番手前、203号室が今二人のご主人様と暮らす私たちの部屋で、おそらく一部屋跨いだ201号室が先程覗き込んだ部屋だ。なるほどこのように繋がっていた。
敷地内から一歩出れば、そこは快晴の下のアスファルト。ジャリジャリとした感触が肉球に当たり、それでいてほんのり温かい。建物を囲う塀の下には眩い黄色の花が咲き、昨晩の雨露を纏う。そこにふわりと光風が舞い、きっと段ボール越しの景色もこんなだったはずだと、微かな思い出に浸っている間にも先程の筋肉質の男が行ってしまった。確か、牧と呼ばれていたその人物に私は付いていくことにした。少し退屈を覚え出した療養後の気晴らし、軽い散歩のつもりだ。
道路を囲う町並は長閑で、いつも遅くまで声が飛び交う向かいの居酒屋も今は鳴りを潜めている。角を曲がれば雑居ビル、薬局、アパートや家が建ち並び、それぞれの朝を迎える間はあまり活気も賑わいもなく、疎らに人が行き交う程度だ。
それにしても……隣を見上げて改めて思う。ご主人様もそれなりだが、この男の隆々とした筋肉はどうだろう。何を食べたらこんな黒いムキムキになれるのだろう。ご主人様とはまた人の種類が違うのだろうか。
程なく前方から並んで歩いてきた老夫婦を見てもこんなに黒くない。猫にも種類があるように人もそうなんだと、理解する傍で通りすがりに挨拶が交わされた。
「おはようございます」
「あ……どうも、おはようございます」
老夫婦にぎこちなく頭を下げる男の後を更に追った。
すると、次に前方からやってきた人物もなかなか長身の男だった。ご主人様その2ぐらいか、他の人間と比べれば頭一つ二つ飛び抜けて高い。一定のリズムで走りながらやってきた灰色のジャージを着た彼を前に、二人は間も無く対面。彼らは何故か、互いに瞠目し合っていた。
「あの……牧さんがなんでここに……」
すっかり足を止めた二人はまじまじと互いの顔を見つめ合う。
「神……俺は、最近こっちに引っ越したんだ」
「じゃあ、この近くなんですか?」
「ああ。じゃ、走り込み頑張れよ」
「はい、牧さんも」
すでに面識のあるような口ぶりを交わし、二人は別れた。
私は長身の男の走るリズムにどことなく惹かれ、気まぐれに、今度は灰色ジャージの彼の後を追いかけてみるとした。





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