広くふかふかとした布団の上での睡眠は、暗くじめじめとしたあのダンボールの中の冷たさを忘れさせてくれる。ここは今日も静かで暖かく、安らかな寝息が背中の毛を撫で付けると共に、朝の陽射しが感じられた。目を覚ませば、目の前に狐とよく似た人間の顔……ご主人様その2の端整な寝顔があった。
「ミィ?」
おはよう、と挨拶をしたつもりだが、深い眠りにある彼はうんともすんとも言わない。遊んで欲しくて顔に身体ごと擦り付けるが、それでも起きないのはいつものこと。そんな時は……その白い片頬を一舐めすればほら、慌ててビクッと身を起こす。
「ミィ!」
「またお前か……」
そう言って、彼は不機嫌そうに私を高く抱え上げるのだ。そしてお決まりの台詞は面と向かって……。
「何人足りとも俺の眠りを妨げるヤツは許さん!」
宣戦布告と同時に迫ってきた指先は、まだ幼い私にとって楽しいオモチャでしかない。ついガブっと噛みつけば、彼はすぐその手を引っ込めた。
「ってぇ、……ったく」
そして先程からスパイシーな匂い漂うキッチンへと抱えられたまま連れていかれる。
襖の向こうに覗いたのは、いつか私を救ってくれた彼、ご主人様その1の大きな背中だった。
「あ、起きたか」
「こいつに起こされた」
こちらを振り向いたご主人様その1の、あの黒縁眼鏡が近付いてくる。彼は私に何か言いたそうにして留まった。というのも、実はまだ……。
「そういえば、こいつの名前どうするかな……」
私は猫である。名前はまだない。
「ミィ! ミィ!」
女の子だから、ぜひ可愛いの! と強請ったつもりが、今も私を抱えるその2が挙げた名前はちっとも可愛くない。
「ドアホウは?」
「……いや、違うだろ?」
そう言って、差し出された長い指先が私の顔を撫で回す。ご主人様その1の、少し執拗なくらいのこの弄り様…………。
この感触、この穏やかな声、彼と出会ったその時のこと、ずっとずっと、覚えてる――――。
数日前のことだった。まだ産まれて間もない私は、気付けばダンボールの中に閉じ込められていた。
暗闇の中、唯一漏れ込む僅かな光から朝夕を知るだけの退屈な日々。まだ力も弱く、小さなこの身体ではいくら足掻こうともそこから脱せず、次第に空腹も紛らわせぬほど身体も弱り出していた。
ここに来て何日が経過したのか。雨が降れば震えも止まず、意識は遠退くばかり。唯一思い描けたのは、まだ目もよく見えぬうちに見た母親の顔と温もり。私と同じ真っ黒な毛色で、柔和な眼差しで私を見つめ、いつも執拗に舐めてくれた。おっぱいも沢山飲んで、寝る時も暖かくて幸せだった。なのに、どうして今、私はここに居るんだろう……。
すっかり視界も朧げになって、もう朝も夜もわからない。少しずつ意識が遠退いて、呼吸も途切れ途切れになって、苦しくなるような楽になるような……不思議な感覚。きっともう、このままここで死んでしまうのだろう。
お母さんさようなら。最後にもう一度だけ、一緒にいたかった――――。
諦めかけたその時だった。どこからかこちらに向かってくる足音は猫でも犬のものでもない。もっと大きなもの。すぐ手前で足を止めるなり、それは切ない男の声を発した。
「流川…………」
今にも嗚咽が漏れそうな声は私の心に深く共鳴し、私もまた、そこに思いを馳せるべく声を上げた。残された僅かな体力を振り絞り、枯らした喉で叫んだ。が、すっかり掠れて弱り果てた声はか細く小さい。きっと届かない…………。
それでも次の瞬間、ずっと閉ざされていた天井が初めて開かれた。
久しぶりに見る日の光。眩しくて目を開けることすら辛かったが、徐々に色が広がり出す外の世界は美しかった。青々とした空に白い雲が浮かび上がり、その中央に、その人が覗き込んでいた。グレーのシャツを羽織った、穏やかな顔付きの青年……ご主人様その1だった。その目を覆う黒い縁取りが眼鏡という物だとは後に知った。
彼は一頻り私を憐れむと、小さな器に水分を盛ってくれた。瞬時に飲み切った私は嬉しさと空腹のあまり彼の指を舐め、同時に吹き付けた風に初めて外の爽やかさを知った。心地よい、と感じた心が少しずつ、生きるための熱を取り戻していった。
すると、そこにもう一人の男が現れたのだ。それがこうして今、私を抱えるご主人様その2だったりする。
歩み寄る狐目の、黒いジャケットを着た男に気付いた黒縁の彼はただただ目を瞠っていた。立ち上がることも声を発することも叶わぬほど、酷く驚いていたようだ。
対する狐目の男は数歩手前で足を止め、「先輩、俺……」と言葉を詰まらせ、彼もまた、溢れんばかりの想いをその身に留めていた。
すると黒縁の彼は私を置き去りに……いや、立ち上がった彼の頭はずっとずっと高く、優にフェンスを超えてしまう。あまりの長身に感心する側で彼は漸く声を発した。
「どういうことだ……?」
先ほど私の身を労ってくれた声とは程遠い、低く静かな声。見据える目は窄められ、握り締めた拳が微かに震えている。
何やら複雑な事情を孕む問いかけに、対する返答は実に淡々としたものだった。
「アメリカ行くのやめた」
「やめ……た……だと!?」
わなわなと顔を赤くした黒縁の彼は憤りを露わに、一歩詰め寄っては更なる詰問で捲し立てた。
「手続きも全て済んでるんだろ?両親はどうした?」
「ターミナルで待ってる。これから叔母さんとこ行って、あっちの学校に連絡してもらう」
「そうじゃなくて、親はそれで納得したのか?」
「驚いてた……けど、わかったって言った」
「納得したのか?ずっとアメリカ行き目指してきて、やっと、やっと夢を掴んだというのに……。理由はなんなんだ?」
「今はまだ、先輩と……離れたくねーから」
夢を絶ってまで離れたくないというその先輩とは、今忽ち顔を歪めた黒縁の彼だと、察するのは容易かった。会話のやりとりから窺う二人の仲はなかなか親密なものらしい。
黒縁の彼が苦々しく嘆きをぶつけた。
「なんだよそれ、今更そんな……流川はなんで、そんな我儘なんだ!」
「ダメ?」
「そうやって、いつも俺を振り回して楽しいか?」
二人が顔を合わせてからというもの、黒縁の彼はずっと怖い顔をしている。
対する狐目の彼は表情が薄いものの、ずっとどこか痛そうな顔で先輩を見上げている。
「先輩……怒ってる?」
「いや……」
先輩は一度顔を背けてから、二人の隙間を一歩で埋め、俄然……。
「嬉しいよ」
狐目の彼を抱き締めた。二人の視線が熱く重なり、私は思わず顔を背けた。幼いながら凝視してはいけないものだと察したが、二人が仲直りしたことには少し安心。
「この猫は?」
狐目の彼の視線がふと私を指した。黒縁の彼がつい先程までの経緯を説明し、「で、どうしよう……」今後私をどうするかで迷っていた。
「先輩飼えば?」
「いや、うちのアパートペット禁止なんだ」
「こっそり飼う」
「うーん、それも考えたんだが、猫も最初は躾が要るだろ?俺猫飼ったことないから……」
「じゃあ俺が手伝う」
「ん?」
「俺が先輩のアパートに引っ越す」
「え……?」
夢を撤回した後のまさかの引越し……。黒縁の彼、もといご主人様その1はすっかり呆然としていた。
それから一度二人は別れ、私を上着の中に匿ったご主人様その1と共に駅へ、電車に揺られてまずは動物病院へと向かった。そこで栄養剤をたくさん打たれ、今いるこのアパートに連れてこられたのはその日の夕方だった。
海に似た色の広いベッドがある寝室の隣には少し狭い居間があり、隣接するキッチンには、買ったばかりの私のトイレと餌入れが置かれた。
「ミィ?!」
早速食事にあり付いた私はお礼を言って、ふかふかのベッドで何時間も何時間も眠った。
それからというもの、数日後にはご主人様その2が本当にここへ引越してきて、二人が私を構ってくれた。
二人の会話によれば、ご主人様その2はここから近い大学なる所へ通うことになったらしい。なんでも、すでに入学受付は終わっていたものの、以前貰っていた推薦先を片っ端から当たればほとんどの学校から再び入学依頼が舞い込んだとか。ご主人様その2はなかなか凄い人物であるようだ。
そうして三月末には二人と一匹でこのアパートに暮らすことになった。よって、今もここで餌にありつける幸せ……。漂うスパイシーな香りが今は奥の居間から、二人も朝食をとっていたようだ。
「流川時間は?」
「あ、やべ」
そんな二人のやりとりは早くも日課となりそうだが……。
「朝練には少し早いんじゃないか?」
「一年だから早めに行かねーと怒られる。帰りも掃除しねーとなんね」
「まあそういうもんだな」
そして皿の中を一気に掻き込んだその2は白のジャージに着替え、アパートを出て行った。
残されたその1はテーブルの上を片付けながら、「俺も今日から仕事だな」と手前の部屋へ。クローゼットからスーツ取り出した。
そこに今、ベランダの更に向こうからした「痛たた……」というの声に耳が反応する。ご主人様は気付いていないが猫の聴覚はしかと捉え、同時に、ここに来てから療養のため、ずっと部屋から出たことがないことに気付いた。
俄然不満が芽生えた私は、ご主人様が洗濯物を干そうと開けた窓からこっそりベランダに出てみたのだ。
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