乙女座のA型 7

「蟹座のO型のあなたは今日、ちょっと残念な思いをするかも……だからといって、決して弱気になってはダメ! 毅然とした態度を心掛けて」
四十八位中三十五位という、占いの微妙な位置付けを流す朝のテレビを、木暮は歯磨きついでに眺めていた。
「残念かぁ、なんだかなぁ」
特に危機感があるわけでもなく、口中泡だらけで言葉にならない呟きを残し、うがいをしに洗面所へ行く。
その背後から今起きたばかりの牧が現れ、木暮のうなじに額を落とした。
「牧、寝不足か?」
木暮が鏡越しに声をかけると、「ンンン……」とほぼ鼾のような声で一通りうなじに甘える。しかし次の木暮の一言があっさり牧を追い払った。
「今日こそレポート終わらせるんだぞ」
牧は無言でトイレへ、微笑む木暮は口を濯ぐと、一通り家事を済ませる。早速レポート用紙の前で頭を抱えつつ、眠気と戦う牧をよそに洗濯物を干し、朝食には遅い昼食には早い食事を準備、やがてアパートを出て行った。昼過ぎからのサークルと夕方からの家庭教師が木暮の今日のスケジュールだ。
あれほど激しく愛し合った翌日にはいつもの日常が流れ、それまで何かと気にしていた身体の違和感も、電車に乗りいつもの景色に馴染んでしまえば、更衣室でメンバーと顔を合わせれば、自然と気にしなくなっていた。
しかし何かと顔を合わせるメンバーには欺けないものがあったようだ。
「おい木暮……」
練習後の更衣室でメンバーから声がかかる。
「ずっとちらちらして気になったんだが、まさかこれ……」
何が? と木暮が振り返る前にそのティーシャツは捲られていた。忽ち色めき立つメンバーに慌ててティーシャツを下ろすが、見られてしまってからでは遅い。今日も居残りの神がここにいないだけ良しといったところか、それでもいつかはバレるだろう。
「つーことは、とうとうあの女を物にしたわけだな」
「流石だな木暮」
呆れて否定もしない木暮だが、今日の占いがそれではダメだと言っていたことを彼は覚えているだろうか……。
「じゃ、お疲れ」
そう言って、先に更衣室を出た木暮はひぐらしの声響く体育館前で、あの女性と居合わせた。
「木暮くん、待って」
木暮のわかりやすい気付かぬフリには女性も余裕を持った態度で、いつもに増して肝の据わった声が寧ろ木暮を驚かせた。
ああどうも……と振り向いたよそよそしい木暮と向かい合い、所謂痴情の縺れという、男女のやり取りが始まった。
「話は紳一くんから聞いたわ。木暮くん、紳一くんのこと好きなの?」
切り出しから直球を投げられた木暮は大きく息を呑むが、間もなくして備わった芯の強さが毅然とした態度に表れる。
「…………俺、もう抱かれたんです」
「抱かれたって、いつ?」
「昨日。あいつに抱かれたんです」
「嘘、ふざけないで。男同士で一体どうするっていうの?」
「それは…………」
木暮は腰のあたりに手を伸ばす。今ここで白昼堂々、昨日行ったことを女性にどう伝えるべきか言葉に迷う。
「そう言えって、紳一くんに吹き込まれたんでしょう?」
「いや、俺は確かに昨日……その……まずキスされて、その、アレを触って、その……」
「何言ってるの?」
顔を真っ赤にした女性が細めた目で木暮を見ていた。それは初めて見る彼女の姿で、木暮はただ残念といった具合にやるせない息を吐いた。昨日牧の言った真相が重なり大きく肩を落とした。
彼女は牧と木暮の仲を怒っている。そうとわかった以上、尚更はっきりすべきだと、木暮は生まれて初めて女性の心を傷付けようとした。同時にそれは、二度と気のない異性に対し、必要以上に馴れ合ってはいけないと学んだ瞬間でもあった。そこに下心がないとしても、人を傷付けると知ったからだ。
「証拠ならあります」
そう言って、眩しいキャンパスライフの流れる校内で、木暮は自らのティーシャツを僅かに捲った。ナスの描かれたその奥の、今も消えない昨日の証を冴え渡る空の下に晒した。
「嘘……でしょ…………」
女性が両手で口を塞ぎ絶句している間、ぞろぞろと出てきたメンバーが穏やかでない二人に気付き、体育館の影に隠れる。
慌てて裾を下ろした木暮は続けて昨日のことを語った。
「初めて中に挿れられるって、やっぱり怖かったけど、あいつなりに精一杯の優しさで俺を安心させてくれたんだ。なんだかよくわからないどろどろのもの塗られて、執拗に揉みほぐされて、でもその間、手を握ってくれたりして……なんていうか、あいつでよかったんだって、そう思えたよ。だから受け入れた。正直痛かったし、今もまだ中に入ってる感覚が抜けないけど、あとは気を失ったおかげかな? 気付いたら終わってて、あとは…………」
だから、貴女にも幸せになれる相手をみつけてほしい。
木暮が最後に用意しておいた台詞は、高く振りかざされた平手により勢いよく吹き飛ばされた。
バチン、と双方に痛みを放つ音が校内に響き渡り、「ま……まじかよ!」隠れていたメンバーの驚きの声が上がる。
「この変態! 気持ち悪いのよ!」
彼女は捨て台詞を吐き、木暮の前から走り去っていった。
片頬に手をあてがう木暮に忽ちメンバーが駆け寄るが、呆然と佇む彼には何も聞こえていないらしい。彼は今、酷く肩を落としていた。

一方、牧は正月以来の実家に帰省していた。ただいま、と玄関に立った彼を迎える母親との間に大した感動はなかった。
「あら紳一? 急に帰ってくるなんて、何かあったの?」
「いや……」
牧はそのままにしておいてくれた自室に鞄を置くとリビングへ、中央のソファに腰掛け、出された昨日の夕飯の残りを摘む。
そこに「ただいま」と帰宅したのは仕事から帰った姉だった。玄関先で大きな弟の靴を見つけるなり「あれ? 紳一帰ってるの?」とリビングを覗き込む。そして対面のソファに掛けるなり、例の話を口にするのだった。
「ねぇ、私の友達と何があったの?」
顔を覗き込まれた弟はふっと視線を逸らす。
姉は続けた。
「さっき、今度の同窓会のことで久々に電話したんだけど、なんだか泣いてたみたいなの。それで…………木暮くんを、はたいちゃった、って……」
ピタリと所作を止めた牧は持っていた箸を置くと、その場に憤然と立ち上がった。
「木暮がなんかされたのか?」
「私も深くは聞いてないけど、ただひたすら、悪いのは私なのに、木暮くんは悪くないのに、って、酷く自分を責めてたわ。それと、紳一に謝っておいてって。もう木暮くんとは会わないからって。さっぱり話がわからないわ。一体何があったの?」
ドサッと腰を下ろした牧は「いや……」とだけお茶を濁し、最後の伝言に安堵の息を吐いた。腑に落ちない姉には一言。
「木暮には他に好きなやつがいる」
なるほどね、と姉は容易に納得すると同時に呆れてもいたようだ。その後姉の語る女の世界というものに、女同士というのも大変だな、とだけ牧は応えた。
やがて姉が浴室へ、牧はぼんやりテレビを眺めていると、トップニュースで流れた事件は、先日木暮とぶつかった犯人の逮捕を知らせるものだった。
「痴漢だったか……」
呟いたところでそこに父親も帰ってきた。
「ただいま。おお、紳一じゃないか」
嬉しそうに奥のソファへ腰を下ろす父に対し、息子は改まって表情を引き締める。
「親父……」
しかしキッチンにいる母親にビールを促す父はネクタイを緩めながら、「やはり部活忙しいのか?」「電話の一本でもくれれば酒でも買ってきたのによ」ととても上機嫌な様子でビールに次ぐツマミを注文。
しかし思い詰めた息子に気付くなり、「で、今日は急にどうしたんだ?」背凭れから少し背中を離した。
牧は父を正面に姿勢を変え、背筋を伸ばし改まった。
「実は………………」
やがて夕食ついでのツマミを持った母親がリビングへ、父子の空気を壊さぬよう、テーブルに小鉢を置くなりすぐキッチンへ戻ろうとしたところ……
「……それは、母さんに言ってくれ」
「何を?」
父の言葉に母が振り返る。
「母さんがいいと言うなら俺は構わんぞ」
変わらずカカア天下の牧家だ。頼りない父を前に肩を落とす息子だが、このために今日ここへ来た彼は「じゃあ、おふくろ……」姿勢を正し食い下がった。

丁度その頃、アパートで一人シャワーを出た木暮の許に一本の電話が鳴った。オレオレ! と名乗る受話器に彼は尋ねる。
「三井か。どうした?」
「どうしたもねぇだろ? この間の件だよ」
「ああ、俺が帰った後どうなったんだ?」
「なんもねぇよ。あの妹に駅まで送ってもらって、ついでに電話番号交換した」
地味に嬉しそうな声が受話器から漏れるが、木暮が続きを促せば一変、三井は落ち込んでいた。
「それが……つい緊張して赤木の番号言っちまった」
「はははは!」
妙な巻き添えを食らった同級生に憐れみの笑い声を上げる木暮だが、三井の用件は当然、それだけではなかった。
「いやそれより、なんであの場に牧が現れたんだ? そしてどうして木暮を連れ去ったんだ?」
尤もな疑問を衝かれ、「あれはだな、その……」と木暮は頬を掻く。
三井の見解はこうだった。
「あの人牧の恋人で、疑われた木暮がボコられたんかと心配したんだ。でもあの妹がそうじゃねぇって言うからよ」
なるほど、と辻褄の合ったシナリオに納得した木暮は、昨日起きた事実と状況証拠を照らし合わせる。
「ボコられたか……強ち間違いじゃないな」
「マジかよ……木暮生きてるか?」
「ああ、どうにか。でもまだ、まだずっと痛むんだ」
「痛むって、お前マジでやられたのか?」
かつての宿敵からの暴行に心配を投げかける元チームメイト。離れてから見えてくるその優しさに木暮は甘えるよう、弱音を零していた。
「ああ。ここも、ここも、なんだかズキズキする」
そう言って、尻に当てた左手を胸の方へ移した。
「牧の野郎、今度会ったら俺がとっちめてやる」
「でも、俺がやれって言ったからさ。牧は何も悪くない。寧ろ……」
それとなく事実を零しながら、木暮はテーブルの上の書き置きを手に取った。
「寧ろ気遣ってくれるんだから、ああ見えて優しい奴だよな」
は……? という受話器の声を受け流しつつ、木暮は寝室を振り返る。そして、つい気が緩んでしまったか、まだ誰も知らない秘密を三井にだけ打ち明けた。
「三井俺、あいつが好きなんだ」
「あいつって誰だよ。さっぱりわかんねぇけど、オメェにもし恋人いんなら俺にちゃんと紹介しろよ」
「してもいいけど、聞いて驚くなよ」
「何がだよ」
期待を煽る木暮の目は、今朝牧が噛り付いていたテーブルの上へ。
「…………あいつは今、『温暖化と老化』について必死でレポートを纏めてるんだ」
「老化……そういや牧のやつ、前よりちったぁ垢抜けたか?」
「それ、本人に言ってやれよ」
にっこり微笑んだ木暮は程なく受話器を置くと、今一度レポートを見下ろす。依然としてテーマを掲げただけの用紙を前に立つと、振り返ってはカレンダーの日数を数えた。
夏休み残り三日……。木暮はその場に腰を下ろし、そのタイトルを一部書き換えてしまった。代謝を上げることで得られる若返りについて、その効果について、たった今テレビで流れた内容を簡素に纏めてく。最終的に運動の重要性へと繋げ、運動をしよう! で締める方向へ導く。
「しかし牧のやつ、まだ気にしてたのか……」
その辺のことを明日神に聞くとして……そう考えてから、木暮は今日の神を思った。同時に、次の電話がかかってきた。
「木暮、俺だ」
「牧か」
「叩かれた話は姉に聞いた。また妙なこと言われたんだろ?」
牧は早速木暮を案じているが、今の木暮の頭の中はすでに神への心配が占めていた。
「それはもう済んだから、もういいんだ。それより、神が怪我してる。すごく落ち込んでる」
昨日は突然の休み。そして今日サークルで顔を合わせた神の首には包帯が巻かれていて、いつになく落ち込んでいた。一昨日の事件が脳裏を過ぎり、確信を抱いた木暮は事件について問いかけるが、神は益々口を閉ざしてしまった。
まさか、水戸も……? あの日怪我をした少年とは、木暮が女性のアパートへ向かう途中に出くわした二人ではないか。しかし真相を窺おうにも神はあまり口にしたくない様子で、「怪我してるんだから、今日はもう……」木暮がそう言う間もなく神はすぐ帰ってしまった。
「牧もわかってると思うけど、神ってさ、年下なのに俺より全然大人で、そういう意味であまり感情を見せないヤツだから、今日はよほど落ち込んでるんだなって、考えちゃって……」
「そうだな。あいつは内に秘めることで志を貫くから、それが少しでも垣間見えたなら余程ショックなことがあったんだろう。夕方のニュースでもやってたが、神には妹がいるからな」
「どういうこと?」
「幼い女児に対する痴漢。制止を求め歯向かった少年に危害が及び、それに怒った別の少年が犯人に暴行を加えるも、彼もまた反撃に遭った」
女の子を庇う神の動機、そして友人を思う水戸の動機も木暮にはありありと浮かぶ。
「神には、なんて言ったらいいかな……」
木暮が救いを求めると、牧は何もしなくていいと言う。
「あいつは自分で立ち上がる。下手な心配は却って神のプライドに障るだろう。それがあいつの強さだから、今はそっとしといてやれ。いつもどおり接してやればいい」
「そっか…………ありがとう。俺は神みたいにはなれないや」
「お前はお前だ」
続くフォローを口にしようとした牧だが、彼にも頭の中を占める心配事が別に詰まっていた。
「それより、木暮はまた人のことだ。自分のことも心配しろ。体はどうなんだ?」
「ああ……平気だよ」
「強がるな」
「もう痛みはないけど、異物感が抜けなくて、気になって気になって仕方ない」
「それでいい」
牧はどこか満足げに言うと、その後ろでテレビを見ていた彼の姉が、電話に気付かず弟を呼んだ。
「紳一ー、あんた明日、体の使いすぎに注意しろだって」
A型乙女座の明日の運勢を、受話器越しに聞いた木暮はフッと噴き出していた。
「占いなんて、どうせ当てにならん」
そうぼやく牧に木暮も同調する。
「現実に起こることでめいっぱいだからな。占いを遥かに超えた災難とか、幸せとか、きっとこれからもたくさん待ってるから、いちいち気にしてられないよ」
だな、と頷いた牧は木暮にすぐ寝るよう念を押し、電話を終えた。
そして翌日の晩、帰宅した牧と木暮は再び行為に及び、牧は腰を酷使した。
「木暮、運動で代謝を上げることが若返りに繋がるというのに、なぜ俺は腰が痛い……」
「なんでもやりすぎはダメなんだよ。無理に二回もする必要なかっただろ?」
「いや、まあ、うん……」
温暖化と若返りにおける関連性。その真相は、無理な運動を控えることも多分に含まれていた。
そして夏休み最終日、牧はどうにかレポートを終えたのだった。





― to be continued. ―


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