二十歳になったら 1


――十二月十四日。
戸の向こうから、キュッと蛇口を捻る音が牧の耳に触れた。ゆっくりと目を覚ました彼は布団からはみ出ていた肩口を摩り、上体を起こして布団を抜ければ、身体が更なる寒気に触れた。溜息を一つ零した。
「またか……」
カーテンの隙間から漏れる光。その一筋にちらつく影はベランダの洗濯物で、すでに畳まれた隣の布団、七時を指す後ろの置時計も確認した彼の寝起きは不機嫌だった。開けた戸の向こうの背中を開けきらない目で見据え、そして同じスウェットの背中へ歩み寄ると、今日も早起きの同居人は冬の真水に素手を曝していた。
「寒くないのか?」
そう言って、牧は憚ることなく木暮の背中を抱き締める。すると「わっ」と間抜けな声を上げた口からは歯ブラシが零れ、シンクに落ちたそれを拾った木暮がじろりと後ろを睨めつけた。が、腰に腕を回した彼も依然として不機嫌だった。ムスッと顔を顰めたまま、牧はその理由を明かした。
「洗濯物は俺が干すと言った」
なのにどうして守らないんだと、目の前の薄く粟立つうなじに問い質す。
「なんだ、そんなことかよ。それより先にシャワー使えよ。俺も弁当出来たらすぐ使うから」
そう話を逸らしつつ木暮が棚から弁当箱を取ると、牧はそこで思い出した。
「試合、今日だったか……」
隣の冷蔵庫に貼ったカレンダーにはサンタクロースが空を舞っている。その十四日に大きな赤丸が付いていた。
「なんだ牧、試合忘れてたのか?」
「いや、寝る前は覚えてたはずだ」
とは言ったものの、鳴らない目覚まし時計はセットすら忘れていた。
「はぁ…………」
今日二度目の溜息は手前の冷えきったうなじへ、そこに額を置いた牧は一頻り甘えた後、浴室に向かった。ダメだな……とすっかり頼りっきりの現状に頭を抱えてていた。
やがて玄関でダウンを羽織る牧の後ろから、パタパタと駆け寄るスリッパの音がして、忘れ物だと、 振り向き座間に手渡されたのは平たい弁当箱だ。ハンカチで包まれたそれはずっしりとして温かい。
「いつもと中身変わんないけど」
「悪いな。じゃあ行ってくる」
履き掛けの靴に踵を押し込み、牧は玄関のドアを開けた。
「今日は試合見に行くから。頑張れよ」
いつもの声を背中に、アパートを後に、平穏ないつもの朝を一人噛み締めていた。
白く乾いた冬空、大通りに出るまでの素っ気ない裏道……鞄と弁当箱を手にした牧は小慣れた足取りで駅へ向かう。その途中の居酒屋の角を曲がったところで、無言の反省会を始めた。
バイトが午後からの木暮は、今日のように試合が日曜の午前中であれば余裕で足を運べる。昨夜そんな会話をしたはずなのに、今朝試合を忘れていた。バスケに関わる者としての自覚が足りないと自戒するが、原因はそれだけではなかった。日々の疲れを理由に、木暮に甘えきりの現状にも問題があるのだ。無意識のうちに彼を頼り過ぎている。疲れているのは木暮も同じはずなのに、無理するなよ、と声を掛けたところで弱音を吐く男じゃない。少なくとも、牧が初めて見たその涙は酷く溜め込んだものだった。挙句には熱を出して倒れてしまった。お人好しにも程があるのだ。だからこそ、牧はこうして朝から胸を痛めていた。
「帰ったら言い聞かせてやる」
一人白い鼻息を蒸かし、彼は駅への道を急いだ。

 

観客席から見つめる木暮の視線の先には、海南ではないユニフォームを纏うその姿があった。ユニフォームの濃紺と身体が同化していると先輩にからかわれながら、苦笑いでやり過ごす同居人がコートの壁際に立っていた。
入学して半年弱で大学スタメンを勝ち取り、練習メニューを筋トレ重視に変えた牧は、最近一時間ほど早く帰るようになった。勿論練習を減らしたわけではなく、設備の充実したこの学校ではそれが可能だったというだけで、彼は今日もスタメンとして先輩たちと並んでいる。
時計が十一時を指すなりけたたましいブザーが鳴れば、彼は海南時代より一回り頼もしくなったプレイを披露した。 弱みがあればそこを攻める、誇り高き常勝の精神をそのままに、攻守両面において確実にレベルアップを遂げていた。 しかしそんな牧も並みに見えてしまう程、近い未来のプロの世界が早くも見える選手がいる。後半に入ると牧はベンチに下げられていた。作戦の変更でもあったか、牧はスポーツ推薦で入学したわけだが他にも同様の選手はいて、選び抜かれた中での選手層の厚さは、少しでも油断すればすぐレギュラーから外されるシステムだ。
一方、観客席の木暮は先ほどからずっと拳を握り締めていた。牧がコートを去った後もゲームの行方を見守り、時折静かに口を動かす。惜しいな……と歯噛みする。今にも立ち上がりそうな体勢で食い入る視線は去年と同じ、今も味方の背中を支え続けていた。
そうして試合は勝利に終わり、席を立った木暮は一人階段を降りた。彼はこの後バイトに向かう予定だが、何やらざわめく声が聞こえ、ふと足を止める。ロビーの奥に牧の姿を見つけた。ユニフォームのままの彼が折しも控え室へ戻るところで、木暮は「牧?」と声を掛けるが、持ち上げた微笑も半端に踵をその場を去っていった。
「試合、お疲れ様でした」
控え室前に現れた女子が四、五人、意中の相手と思われるメンバーにそれぞれ弁当箱を渡していたのだ。それは同居人にも手渡され、木暮は静かに体育館を後にする。真っ直ぐ駅へと向かい、電車に乗って漸く長い息を吐いた。それを受け止めた両手を胸元に、少しばかり荒れた手指をカサカサと擦り合わせていた。





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