大人になれよ 8

開けた窓から快晴の朝を、最良の空調を部屋に取り入れ、木暮は一人キッチンに立った。冷蔵庫のカレンダーに赤丸の試合を確認するなり、棚から弁当箱を二つ取った。
近々試合も見に行きたいが、暫く予定も合いそうにない。学校を休んでも行きたいところだが、今は応援の気持ちだけを弁当に、糖分控えめの卵焼きに詰め込む。
すると、ふと歪んだ視界が瞬く間に反転した。具材を詰めた頭が突如クラクラして、そのまま背中から倒れてしまった。ガタン、と床を打つ音は、ぶつけた後頭部から直に響き渡り、その強烈な痛みの中で意識が薄らいでいく。顔が熱く、胸が異常な速さでドキドキしていた。
「木暮……!?」
今の音で目覚めたのだろう。慌てて駆け寄る牧の声がして、今天井を仰ぐ視界に、ぼやけた浅黒い顔が占拠する。
「な、どうした木暮……」
彼は案ずる声を上げ、打った頭を膝に乗せてくれた。
「木暮、大丈夫か」
「…………」
木暮は返事をしたつもりが、口をパクパクするだけで何故か言葉が出ない。平気だと、心配するなと告げたいのに、それは苦しく眉間を寄せるに留まった。
「木暮……」
憐れむ声と共に、こちらへ伸びた掌が優しく額に乗る。
木暮は漸く「牧……」とだけ弱った声を返し、そっと伸ばした手で彼のティーシャツの裾を掴んだ。それとなく詫びを伝えたつもりだ。
やがて、額から消える温もり。
「今すぐ寝ろ」
きっぱり言い放つ牧に、木暮は心配事を一つ返した。
「でも……弁当……」
「弁当じゃない。熱がある。あれほど無理はするなと言ったはずだ」
牧は呆れた一喝を放つと、無理の利かない体を優しく抱え起こしてくれた。あの日と同じように、背中に回された頼れる腕に、立つこともままならない木暮は身も怠さも預けた。
そのまま寝室へ連れ戻され、木暮はまるで介護の如く器用に寝かせられる。後頭部にある慎重な手でゆっくりと枕へ下ろされ、そして眼鏡も外された。
「寝てるんだ」
ぼやける裸眼に忠告が飛ぶ。
その後すぐ戻った牧に、絞ったタオルを額に乗せられる。逆上せた頭がヒヤッとして、唸される表情も少し和らいだ。
「今日学校は休め」
そう心配してくれることはありがたいが、木暮は朝食と弁当が作りかけであることを伝えておきたい。
「あ……朝食……」
「今お粥でも作るから、待ってろ」
お粥……? いや、違う。
「そうじゃなくて……」
言い終えないうちに牧は戸の向こうへ行ってしまった。
時間のない忙しい朝、戸の向こうからはいつまでもお粥を煮込んでいる。らしい音が聞こえる。そろそろ朝練の時間が近づく頃だが……
「一応出来た。ここに置いておく」
漸く開いた戸から、今牧が布団の横に置いたのは若干煮込みすぎたお粥? だった。
「じゃ、悪いが俺は行く」
「ああ。悪い……」
また言い終えないうちに牧は急いで学校に行った。
途中だった朝食をどうしたのかが心配だが、今はこの、目の前に立ち昇る湯気が愛しい。木暮は茫とそれを見つめるが、残念ながらまだ食欲がなく、もう少し冷めてからと、まるで湯気のような意識の中に眠った。

突如ガチャッと開いたドアの音で木暮は目を覚ました。
「ああよかった。鍵締め忘れてた」
それは玄関から、先程ここを出て行ったはずの、今日試合のある彼の声だ。続いて戸が開けられると、湯気の向こうにはこちらを覗くその人の顔がある。
「牧……?」
なんで……? と見上げる木暮に、欲しい答えは返ってこなかった。
「木暮待ってろ。少しマシなお粥を買ってくる」
それは手付かずのお粥を見下ろして言った。
「いやいいんだ。今はまだ食欲が……」
木暮はそんなことより、何故牧が今ここにいるのかが疑問でならない。
「で、試合は?」
「ああ。今連絡する」
そう言うと、牧はすぐ戸の向こうに消えた。
それじゃなくても意識の朦朧とする木暮には彼の行動がさっぱり読めず、やがて戻ってきた牧に透かさず質した。
「牧何してんだ?」
「ん?」
「試合は?」
「今日は休む」
「え? なんで……?」
「どうせまだ試合出られないんだ。一日くらい支障はないだろ」
それは、全く答えになっていなかった。
「なんでだよ、早く行かなきゃマズイだろ」
すると牧は、木暮の横たわる布団の傍へ膝を着き、熱を含みきらなくなった額のタオルを外し、じっとこちらを覗き込んだ。
「いたら、迷惑か……?」
まるで、煩いを溢す切実の色……いつかの自分と重なっては、その視線から逃れるよう、木暮は咄嗟に顔を背けた。
「ああ、すごくな」
胸の奥から急激に込み上げた何かを、今必死に押さえ込む。
「今日は特別だ」
何が特別やら、牧の言葉はさっぱりわからないが、今彼の手がこちらへ、額を晒すよう木暮の前髪を撫で上げる。無気力に浮かせた木暮の手には、もう片方の手がそっと絡み付いてきた。
そのままゆっくりと額に落ちるキスは、今あやふやな湯気の中で、徐々に遠のく意識の中で、今牧は、確かにそう言った。
「あ……ゴミ出しは今日だったか……」

”――7月12日。
今日は突然熱が出た。牧はお粥を作ってくれたが、その後、試合に行ったはずの牧がすぐに戻ってきて、結局俺の看病をさせてしまった。
すごく迷惑だ。俺は早くコートに立つ牧が見たいのに、こんなことで休まれてはすごく困る。じゃあいつもの練習は何なんだって、言いたかったけど、言えなかった。
それから少し眠って、俺は早く治そうと病院に行った。一人で行けるのに、途中で倒れたら心配だからと牧はわざわざついて来た。
でも腕の注射痕を見せたら、牧はすぐに目を背けた。熱があるのに思わず笑ったら、牧は少し怖い顔で咳払いをした。
そしてもう一つ。今日、俺は牧より先に一つ大人になった。つまり、今日から牧の誕生日までは牧を年下呼ばわりできるんだ! やった! やったぞ赤木!”



― to be continued. ―




戻7 | 8