住 ま な い か 1


――練習お疲れさまです。夕飯レンジの中です。少し家に帰ります。
今日も遅く帰った牧を待っていたのは、テーブルの上の、初めて会った日と変わらないあの清らかな筆跡だった。こんなメモすら丁寧な字で書くのか……と、無表情に感心した。

去年、海南近くの図書館で――。
大学はすでに推薦が決まっていた牧だが、常時ベストを望む彼は勉強の成績も落とさぬよう考えた。海南生として文武両道に恥じぬ学力は押さえていたが、一つだけ、苦手な現代国語を克服しておきたかった。決して暇を持て余すことなく、卒業までの時間を有意義に過ごそうとしていた。
年明け後、冬休みもあと僅かとなった土曜、昼食後一段落した牧は、その日も図書館へ向かった。陣取った数人掛けのテーブルに教科書ノート辞書を広げ、頭の中には小難しい日本語を撒き散らしていた。
「………………」
苦手というか、嫌いなのだ。歴とした日本人のくせにあの角張った漢字があまり好きになれない。大量の文章を見るとまるで目眩を起こす感覚に陥る。まずはそれの克服が先だった。
眼鏡をかけ視界をクリアに、再度詰め放題の文字とにらめっこする。
すると、横から飛び込んできた軽やかな男の声が水を差した。
「こんにちは」
顔を上げた牧は二度見した。一度目は自分に対する挨拶かの確認で、地味なグレーのコートを着た眼鏡の学生を見て、知らん……と顔を背けるが、他に反応を示す客がいないこと、すぐ傍に立つ彼がそこを動かないことに今一度見やる。そして知る人間かと、牧は頭の文字を追い払ってから記憶を辿るが、答えには至らなかった。
「すまん、えっと誰だったか……」
「ああ、ごめん勉強中に。偶然こんな所で牧を見つけるなんて、なんか嬉しくなっちゃって。普段は眼鏡かけてるんだな。赤木に教えてやろう」
赤木……と言えば……
「湘北か?」
「はは、一応副キャプテンなんだけど、大方ベンチだからな」
そう情けなく笑う姿を見て、牧の頭は漸くあの夏へ行き着いた。
「……思い出した。確か流川と交代で出て来たな」
対湘北戦前半、あらゆる面で偉業を為した流川に代わりコートに立った赤の5番…………だったか?
個性豊かな湘北スタメンに埋もれ、彼に対する記憶はやや薄いものだった。
「ああ。前半も出てたけどな」
そう当てにならない記憶を正されて尚、湘北の5番が話し掛けてくる。
「で、何の勉強?」
「ちょっと国語をな」
浅く屈んだ湘北生はノートを覗き、「あ、この漢字違う」と牧の書いた字を指さしていた。
「違う……のか」
間違っているかさえわからない牧は力無く呟く。
「コレ借りるよ」
そう言って、シャーペンを取った彼は正解であろう漢字をノートの隙間に書いてくれた。微かに丸みを帯びた運筆と、それでいて止め、跳ね、払いがしっかりとした、まるで手本のように清らかな文字だ。男の書く字にしては丁寧で、且つ朗らかな彼の雰囲気をそのまま写しているようだ。
牧は尋ねた。
「そういや名前は?」
「木暮」
「こぐれ……。あ、書いてくれ」
別に漢字を知りたかったわけではないが、ただ漠然と、その字が美しく見えたから。
再び伸ばされた手で、先程の漢字の下に小さく『木暮』と記された。
「下は?」
木暮は黙って『公延』と書き足した。
見慣れない名にぼんやり目を落とす牧だが、すぐにその名が明かされた。
「きみのぶ。はは、変な名前だろ?」
「……いや」
それから、木暮はすっかり隣の椅子掛け、まさかの会偶を喜んでいた。決して不快感を与えない人懐こさはやはり先程の筆跡が物語っている。最近では筆跡診断なる新しい占いの類が出回っているが、決してそれを信じる牧ではないが、木暮のそれに至っては正に彼自身だと信じてならない。
「で、なぜ今日はここに?」
ここは湘北からなかなか遠いはず。牧が尋ねると、木暮は気さくな笑みを浮かべたままその経緯を述べた。
「それがさ、近くの書店に欲しい参考書置いてなくて、聞いたらK駅近くの本屋ならあるって言うから、さっき買ってきたんだ。で、丁度図書館あったから少し読んでこうかなって」
「ほう。熱心だな。大学受けるのか?」
「うん、H大受験する予定なんだ。牧は? 推薦? あ、海南大?」
「海南はまあそれなりだが、大卒としての価値でいうと正直微妙なんだ。同じ考えのOBも多くいた所為で、バスケの方も斜陽気味だからな。だから推薦でS大に決めた」
「そっか。流石だな……」
この時期ならではの高校三年生の話題だが、木暮は頬を指で掻きながらどこか遠い目を放っていた。
「H大か。じゃあ、受かったらまあまあ近くにはなるんだな」
牧の記憶では、確か二駅程しか離れていないはず。
「そうだっけ?」
「たぶんな。それより、木暮は国語得意か?」
「んー、他のに比べたら成績は良かったかな」
「俺はどうも苦手なんだ」
もの柔らかな人柄につられ、牧の口は徐々に緩んでいった。しかしそれ以上に彼はお人好しでもあったのだ。
「はは、だから頑張ってるんだ。よかったら、いい参考書持ってるんだけどいる?」
「あ……いや、それは悪い……」
「俺もう使わないんだ。受験終わったら他のと纏めて捨てるつもりだし」
つい余計なことを言ったと悔やむ牧だが、隣の笑顔にはあっさりと断る気力を消し去られる。
「そっか……なら、何か悪いな」
「はは、いいよ。牧はよくここに居るの?」
「ああ、最近は毎日だ」
「じゃあ来週でよかったら、また今日と同じ時間ここに来るから。悪かったな邪魔して」
そう言って、木暮は一旦周りを見渡すなり、静かに席を立った。湘北の赤を纏わない、今日知ったばかりの彼は椅子をきちんと戻し、穏やかな余韻だけを残してここを去って行った。寒空の自動ドアの向こうにグレーのコート姿を見送った。
……それともう一つ。ノートに記された『木暮公延』を見つめながら、あの陵南戦で決定的な3Pを放った姿を遅まきながら顧みていた。更に冬の選抜ではどこか寂しかった湘北ベンチを思い出し、彼は赤木と共に疾うに引退していたと知った。





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